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掃除用具を全て置いて、シドはくるりと辺りを見回す。どこもかしこも埃だらけだが、高価な品があるため、下手には掃除は出来ない。とりあえず、出来そうなところからやろうと鼻息を軽く吐いた。
「さて、上の方から掃除しますか」
腕まくりしながら、シドはしゃがんで桶に入れておいた雑巾を手に取り硬く絞った。
窓に近寄り、分厚いカーテンを端に寄せる。それだけでも埃が舞う。シドは噎せつつもカーテンを纏めて、窓硝子をそっと指でなぞる。なぞった指の腹をみると真っ黒になっていた。窓に視線をやれば、なぞった部分だけが跡になり、そこから外の光が差し込んでいるではないか。
「……埃で遮光されていたのか……」
どれだけ分厚い埃がこびり付いているのやら。シドは気合を入れて窓拭きから始めることにする。雑巾が硝子を数回往復する。それだけで、あっという間に雑巾が真っ黒になってしまった。
真っ黒になるたびに桶につけて雑巾を洗う。何度目かで桶の中の水が真っ黒になってしまった。このままではぜんぜん掃除がはかどらないと考えたシドは、一度桶の水を入れ替えに一階に行ったときに雑巾をもう三枚一緒に持ってきた。窓は真ん中くらいから下までは拭けたが上のほうは身長が足りず、うまく拭けない。シドは窓を片方開け、その開けた窓枠に片膝を乗せて、もう片方の足の先が床からギリギリ着かず離れずの状態で背伸びをした。そうすると、なんとか閉じている窓の上まで手が届く。落ちないように閉じているほうの窓の掴まれそうな所を見つけて片手で掴み、身体を限界まで伸ばしてプルプル震えながら窓の上を慎重に雑巾で拭いていった。
それから暫く夢中でいくつかの窓を拭いていたシドの耳に扉を開く音が聞こえた。浮いていた踵を床につけて、夢中になり過ぎてぼんやりとした頭で、反射的に音のほうへ振り返ってみれば、書斎から丁度ヴァリアスが顔だけを出して、シドを見ていた。ヴァリアスはシドがいたことが想定外だったのか、驚きに軽く目を開き、片手を扉のノブにかけ、もう片方は自分の身体の横につけて指先までピンとした姿勢の良い状態で固まっていた。
「………こ、こんに、ちは?」
足は廊下に付いていたが、手は伸びて、片方には真っ黒になった雑巾を持ちながら、腕越しにぎこちなくシドは口を開いた。
なんだか、いけない場面に遭遇したような気分になった。
シドの言葉に、ヴァリアスは見開いていた目をすっと細めた。
「……何をしている」
低く、感情を伴わない声でヴァリアスが聞いてくる。シドはなんと答えようかと一瞬考えたが現状を説明する以外にないと思いなおし、天井のほうへと伸ばしていた腕をおろしてからヴァリアスへと体の向きを変えた。
「……掃除です」
「………………」
正直に言ったはいいが、ヴァリアスは何の反応も返さず、シドは気まずい思いをした。ややあって、ヴァリアスは苛立ちを含んだ声で再度問いかけるように聞いてきた。
「……なぜ、屋敷の中にいる」
「………」
今度はシドのほうが反応を返せなかった。屋敷の主の聞きたい事が良くわからない。
「屋敷の掃除が僕の仕事ですから。……?」
シドが首を軽く傾げながら答えれば、ヴァリアスは寸前までの無表情を取り払って、苦渋を舐めた様な眉間に皺を寄せた表情になった。
「死にたいのか?」
ヴァリアスは渋い顔だが、その瞳にはまるで異質なものへの対処に困っているような戸惑いが隠れていた。
そんなヴァリアスにシドもまた会話の終着点が想像できず困ったような表情になった。
「いえ。死にたくはないですよ? 僕に何かあると下の兄妹たちが路頭に迷うかもしれないので……」
「路頭に迷うだと? 異な事を言うな。紋章研究の第一線で活躍しているシシリー夫妻の息子であろう。紋章はわが国の独自の魔法の一種。様々な紋があり、その紋章の中には祝福と呼べる常時発動しているような魔法などがあり、国家を挙げて研究しているものだ。俗物的な言い方だが、紋章研究には国が莫大な財産を投入して人材を育てていたはず。そんな研究者ならば、蓄財はあるのではないのか?」
ヴァリアスの言葉にシドは目を丸くした。
「何を可笑しな顔をしている」
訝しげに聞いてきたヴァリアスに、シドは素早く首を左右に振って、なんでもない、というような仕草をした。
まさか、長く言葉を話すなんて思っておらず、しかも自分の家族について知っていたなんて知らなかったと、密かに感動してしまったが、言わないほうがいいだろうとシドはそっと思ったことに対して目を逸らしておいた。
「……あ、いえ。その、新聞には乗ってはいないんですが、実は三ヶ月くらい前から両親が遺跡の探索に行ったまま、行方不明になってしまって。同僚の人たちが探してくださっているんですが、手がかりが無いままで、仕送りがとだえている状態なんです。それで、いつ見つかるかも判らないので、貯金にはあまり手を出さないようにして、今は僕が働いているんです。人生なにがあるか判らないですから」
シド自身、両親の同僚の人からの話しを聞いているだけなので、正直詳しく話すことも出来ない。うまく簡潔に事情を話せたと自己満足で、うん、と頷くシドを余所に、ヴァリアスは表情を隠して無言になった。
「…………ヴァリアス様?」
暫く何も話さないヴァリアスに、さすがに不信に思ってシドは問いかけると途端に苦い汁を飲んだような表情になった。
「……っち。聞いていないぞ。あのナンパ顔」
ヴァリアスがぼそりと呟いた。
「へ? ナンパ顔?」
シドは何とか聞き取れた単語を鸚鵡のように繰返すが、言った直後に首を傾げてしまった。
ヴァリアスはシドの言葉には何の返答も返さず、くっと奥歯をかみ締めて顔を逸らし、踵を返して書斎に引き篭もろうと身体を反転させる。シドはそんな屋敷の主の背中を見送ろうかとしたときに、無意識に声を出した。
「あっ! ヴァリアス様。ま、待ってください!」
背を向けたまま扉を閉めようとしていたヴァリアスはシドの言葉に手を止めた。
(し、しまった。引き止めたけど、どうしよう……)
引き止める気が無かったシドは咄嗟に口に出したことに戸惑いを感じながらも、何か言わなくてはと、ぐるぐると頭の中を回転させた。
(……あ、そうだ!)
何かを思いついたシドはヴァリアスの傍に駆け寄る。しかし、ヴァリアスの五歩は後ろで止まり、あまり近づき過ぎないようにした。
「ヴァリアス様。何か食べたい物はありませんか? 僕、家で家事をしているので、簡単なものなら作れますよ?」
本来なら料理人が食事を作るはずなのに、この屋敷では屋敷の主が暖かな料理を食べていない。そのことが心に引っかかっていたシドは庶民の料理を作るのは失礼だとは思ったが、そんな料理しか作れないので、思い切って聞いてみた。
「あ、その、本当にたいした物はつくれないので、高級料理がいいって言われると困るんですが……」
ひゅっと息を呑む音が聞こえた。黙って聞いていたヴァリアスは吐き出す息と共に「……去ね」と小声でいい、力なく扉を閉めてしまった。
書斎のほうへ身体を入れてからヴァリアスの顔は一切見えなかった。ただ、扉が閉まる瞬間にちらりとみえたその表情は、茫然自失、幽鬼のように顔を青くしていたように見えた。
パタンと閉まった扉を見つめながらシドは困ったように口元をへの字にした。
(……失礼だったかな?)
使用人が食事の心配をするのは筋違いだったのだろうか。しかし、リエッタに聞いた食生活が衝撃的すぎてついおせっかい虫が湧いてしまった。
「……こんな広い屋敷で、隠れるように食事をするなんて、寂しいよな……」
ポツリと零した言葉にシドはあわてて口を閉ざし、辺りを伺った。廊下も扉の向こう側からもなんの音がしないことを確認して、ためていた息を吐いた。
(今のは不敬、だったかな? ……聴かれなかったみたいだけど、本人の傍で言ったりするのは、控えた方がいいよね。ヴァリアス様はご自分の不吉な出来事のせいで、ちょっと神経質になっているように思えるんだよなぁ)
シドはやるせないように肩を軽く竦めてから、自分の仕事をすべく書斎の扉に背を向けて窓に手を伸ばした。




