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二階に上がって直ぐの角の壁に手に持っていたモップと箒とちりとりを立てかけるように置いて、もう一度階下に下りる。
左の廊下を歩き、調理場を通り過ぎた直ぐ先にある掃除用具室に入り、縄の取っ手が付いた木桶と雑巾を持ち出す。そうして、木桶をもったまま今度は調理場に入り、そのまま裏口を出た。
シドの目当ての場所は、裏口を出て左の少し行ったところにある滑車つきの井戸だ。
フェリス国は水が豊富ゆえにどこを掘っても水が出るが、地盤が硬いために、そこかしこに穴を掘るようなことはできない。それに、水を汲みすぎると地盤が脆くなってしまう問題もあるため、井戸を掘るために色々と制限されている。
一昔前は、それらの問題があったために、家の何軒かで共同の井戸を使っていたのだが、近年は上下水道が魔道具で発達してきたため、家に水を直接引くことが出来始めていた。シドの家は父親が珍しい魔道具が好きで、一般家庭にも使えるということで、結構な金額だったが、水道設備をつけている。そのため、水を汲む手間がほぼない。
しかし、ヴァリアスの屋敷は下水道はしっかりしているのだが、水道設備はまだついていない。なんでも、一人で生活するのに水道設備なんて金がかかるだけだとヴァリアスが突っぱねたという事をウィルフズ家で執事さんに聞いた時には、使用人のことを考えて欲しいと、ちらりと思ってしまったのは内緒だ。
なので、飲料用などの水は屋敷の裏手にある井戸の水を汲んで水がめなどに溜めるなりしてから使わなければならない。
ヴァリアスの屋敷では調理場の流し台のほかにも何箇所か洗面台が設置され、コックを捻れば水が流れ出す仕掛けが付けられている。始めて見た時は、綺麗な装飾をされているコックを見て、てっきり、執事は水道設備は着いていないと入っていたが、別の水が勝手に出てくる魔道具でも付けているのではないだろうかと、感動していたのだが、丁度横に来たリエッタがこともなげに、ネタ晴らしをしてくれた。
コックの先には水が出てくる蛇口のほかにもう一つ壁に向かって伸びている金属製の管がついているが、その管は吸い込まれるようにして壁の中に入っている。管が入った壁の直ぐ上には扉があり、その扉を開けると大きな瓶がありその中に入っている水をコックで捻って出して使っているのだ。分類的にはそれは魔道具ではなく、唯の道具だ。紛らわしい。装飾は貴族だからこその見栄だそうだ。
がっかりしたシドに追い討ちをかけるように、リエッタはこの道具を更に説明してくれた。なんでも、三十年前の最新式だそうだ。つまり、洗面台の水も調理場の水も使いたければ、まず水を汲んで管のついた水瓶に水を入れなければならないのだ。ついでに言えば、水瓶は固定されている。
三十年前は最新でも、今では古すぎて使い勝手が悪い。シドは古き良きモノと古臭いものの違いを知った気がして、諸行無常を感じた。
いちいち全ての水瓶に入れるのはメンドウ、というか、一人だけで掃除したりする身としては必要性を感じないので、調理場の水瓶に必要な分だけを入れた後は、必要に応じて自分で桶に水を入れて運んだほうが簡単だろう。とばっさりと昔の最新型を批評した代物だった。
調理場の水瓶には昨日入れた水がまだ残っているので、手洗い用に使えるので今はそれ以上組まなくても大丈夫だ。
なので、シドは掃除用に水を汲むために、釣瓶を井戸に落とし、滑車を手繰り寄せて水を汲み上げるのだった。
「はあ。……これだけでも、重労働。……よいしょっと」
水を桶の半分くらいまで汲みいれたシドは、曲げていた腰を伸ばして、トントンと腸骨辺りを拳で叩いてから、年寄り臭い掛け声をかけて桶を両手で持ち上げた。雑巾は手で持てないので桶の中に入れてしまった。
ふう、と息を吐き、さて戻ろうとした所、シドはふと導かれるように、振り向いた。
「……? あれ、いま誰かいなかった?」
シドの向けた視線の先には濃い緑を生い茂らせた木々と草しかない。シドはまたか、と心中で呟いた。この屋敷で掃除を始めてから、時折誰かに見られているような気がしていた。今のようにハッキリした視線を感じたこともあったし、なんだか誰かがそばにいるような気がしたこともあった。気配を感じるたびにその元を探そうと首をめぐらせるも何も無く、シドは首を傾げるしかなかった。
決して、この屋敷が幽霊屋敷のような外見をしているから、それっぽいものが通り過ぎているわけではないはず。
取り合えず、気にするほどではない、と言い聞かせるように心の中で呟いて、沸き起こりそうな恐怖心をねじ伏せる。腕を体の前でピンと伸ばし、両手で持った桶を体につけるようにして、シドはよたよたとした足取りで元の道を戻った。
玄関ホールの中央階段を上がり、先ほど置いておいた掃除用具の場所まで足を進め、水を零さないようにそっと桶を廊下に下ろす。たぷんと桶の中の水が揺れ、それにつられるように中に入っていた雑巾も揺蕩う。
「……あれ?」
桶の中から視線を上げ、モップや箒へと移してシドは首を傾げた。モップの近くに置いておいたはずのちりとりが無い。
「なんで?」
不思議に思いながら、シドはどこに行ったのかと首を動かして探した。ちりとりを見つけた瞬間、シドはざっと自分の顔の血の気が引いていくのが判った。
「……なんで……」
二度目の「なんで」は震えた口調だった。
ちりとりはあった。あったのだが、階段を上がった廊下から見て、書斎のある廊下側の少し奥の方。まるで、誰かに蹴飛ばされて飛んだように廊下の真ん中に置かれていた。
一瞬、ヴァリアスが蹴飛ばしたのだろうかと思ったのだが、違うと直ぐに気がついた。彼がいる書斎はちりとりが置かれている更に先の部屋。その部屋から出てきて、もし蹴飛ばしたりしたなら、ちりとりは階段を落ちているか、書斎がある廊下とは反対側の方の廊下へと向かっているはず。
リエッタも先ほど一階の調理場のある廊下のほうに消えた。出会ってはいないが、掃除は主人に見つからずに、と使用人の心得を説くような人だ。シドは掃除が第一と言うことで、守ってはいないが。綺麗になったら、掃除道具をそこらへんに置くような真似はしないようにするつもりだ。いや、そうではなくて、彼女なら主人の通る廊下の真ん中に掃除用具をおくのは言語道断と片付けるはずだ。では、どうして。
(……い、いや。でもまさか、そんなことなんて……)
シドの脳内はちりとりがどうして飛んでいるのか、と本人を無視して思考する。その結果、シドの苦手な結論に達しようとした刹那に首を振って考えを霧散させた。
「ち、違う違う。ユーレイなんている分けない。フェリス国は魔法の国。幽霊の国じゃないし、うん。違うよね」
心を落ち着けようと何度か深呼吸をする。そして、この仕事場に来てからというもの上達した、そろっとした抜き足差し足で辺りを油断なく警戒しながら、ちりとりに近づいていく。そおっと身をかがめ、ちりとりを手に取ろうとする。その間も上目で周りを確認することは怠らない。
(こ、怖くない。怖くない。給料大事、給料大事)
ここで止めてしまえば、またいつもの通りになってしまう。今回こそ、仕事をちゃんとこなすと意気込んだのだ。逃げ出すような真似は絶対出来ない。せめて、我がシシリー家の夕飯のおかずにほぼ毎日肉料理を出せるくらいは、働き続けなくては。
(そのためにも……)
一度ぐっと拳を握り締めた。
怖くない、と何度も言い聞かせながらシドは握り締めた拳をゆっくりと開き、ちりとりの先端を抓むように持って、持ち上げる。そのまま飛蝗のように後ろに飛びずさり、階段のほうへと引き返す。そんな一連の動作だけで心臓が飛び跳ねて暴れる。どきどきする胸を押さえてシドはもう一度辺りを確認するように首を動かした。
「…………よし。なにもいない」
気分は辺りを警戒している野良猫だ。シドは騒ぐ心臓を宥めようと業とらしく細く長く呼吸をする。
「ふう……。掃除しよう」
この件は深く考えないほうがよさそうだ。シドは置いてあった桶を左手にモップを右手に持ち、ヴァリアスの書斎から二つくらい離れた部屋の前から掃除しようと決めた。一度持っていったものを廊下の端に置き、階段付近まで戻った。今度は、箒もちりとりもシドが置いたとおりに置かれていた。そのことにほっと知らずに詰めていた息を吐いて、シドは二つを持って引き返した。




