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(あれは、絶対『不幸』の部類に入れていい気がする)
あの日のことを思い出して、シドはぞっと首筋辺りが寒くなった気がして、思わず屋敷の鉄製の門を両手で掴んで地面に視線を落とした。
(落ち着け、僕。仕事はまだ始まってもいないんだから)
取り合えず、何度か深呼吸をして、気持ちを落ち着けようとする。今回は、いつもと少し毛色の違った仕事なので、幾分緊張も混ざっているようだ。
お屋敷、と聞いていたので掃除係だとしても最初はきちんとしたほうがいいだろうと、いつもの簡素な服装ではなく、正装とまではいかないが、母に男なら一張羅くらい持っていろと言われ、半年前にシドは乗り気ではなかったが買ってもらい、そのまま自分のチェストの奥にしまわれていた。平民からすれば結構上等な布生地で拵えた白いシャツに黒のズボンそれに、紐の革靴。父のチェストから無断で借りたネクタイをつけている。
シドは自分の服装に変な所が無いかざっと見る。本当はベストもつけたかったが、自分用のは持ってなく、父のベストは体格が合わなかったため、着るととても残念な感じになったので断念した。
「可笑しいところは無し」
よし、と頷いて、シドはもう一度視線を上げ、屋敷を見上げる。どう見ても、幽霊屋敷だがバーフィア所長からもらった紹介状には、この屋敷の番地が書かれていた。
「……ここの掃除が、僕の仕事か」
外観だけみても、一人でやれば十年はかかりそうなほど草木の伸び放題に、途方に暮れたい気分に陥った。
「それにしても、変わったところに建っているなあ、この屋敷」
門から手を離し、改めて周りを見回した。屋敷はシドの町からさらに二つの町を行った先。西地区に最も近い東地区の外れに建っていた。元々この屋敷は、商売で成功した商人が、貴族の屋敷を真似て百年位前に建てた物で、その後様々な人手に渡り、本物の貴族の三男が六十年位前に別邸として住んでいたそうだが、その三男が亡くなった後は、何度か人手に渡ったがすぐに手放され、二年前に公爵の地位を賜っている貴族のウィルフズ家が買い取ったそうだ、とバーフィアに説明を受けたが、スキンシップから逃げるのに精一杯でシドはそれ以上詳しいことは忘れてしまった。
同じ東地区に住んでいるシドだったが、こんな西地区よりまで来たのは初めてだ。東地区の特徴として、一つの町に商店街が必ずあるので、食料から簡単な日用品はほぼ揃う。そのため、他の町にはめったに行かない事の方が町民には多く、シドにいたっては、それに付随していつ『不幸』が起こるかわからない。地元なら、皆知っているので騒がれることも殆ど無いが、知らない町で起こればどんな騒ぎになるかと思い、あまり、知らないところには出歩かないよう自制していた部分があった。
「……とりあえず、行ってみるか」
意を決して、シドはもう一度門を掴み、ぐっと力を込めて押した。
門は錆付いたような音を立ててゆっくりと開いた。
「お、おじゃましまーす」
傍に誰もいないのはわかっていたが、うっそりとした庭に戦き、小さい声で挨拶して、辺りを警戒しながら一歩一歩踏み出す。
庭には歩く道としてレンガが敷き詰められていたが、その隙間から草が生え、所々レンガが欠けている。
少し歩くと、大人三人が両腕を広げた位の大きさの円形の石造りの池があった。ひょいと中を覗くと、緑と黒が一面を覆い、異臭がする。
「うっ!」
あまりの、ドブ臭い臭いに鼻を腕で庇い、身を引いた。池の中央には瓶を左肩に担ぐように両腕で持ち、瓶の口を下に向けた女神の像の噴水があった。本来なら瓶から水が溢れるようだが、今はコケが生え、女神にも藻などが生えてしまっている。
「これは、早めに掃除したほうがよさそうだな」
通るたびに異臭に眉を顰めそうだ。
これ以上臭いをかいでいるのは耐えられない。シドは池を早足で通り過ぎ、屋敷の扉へとたどり着いた。
玄関近くでは楡や柳が茂り、木々に巻きついているつる性の植物が壁を侵食している。艶も無くなってしまった重々しい、黒色の扉は客人を拒絶しているような雰囲気を醸し出していた。
どきどきと跳ねる心音が耳の中で聴こえるほど緊張している。シドはそっとノッカーを掴み三度ならした。
「…………」
暫く待ったが何の反応もない。
「どうしよう?」
まさか、誰も出てこないからといって勝手に入るわけにもいかないだろう。
シドはいくら待っても開かない扉にほとほと困り果てた。
「実は、玄関の扉に鍵がかかっていたりして……」
外を見た限り、本当に人が住んでいるのか、かなり疑わしい。
もしかして、屋敷も無人でバーフィア所長が紹介状の住所を書き間違えたとか。
そんな埒も無い事を考えながら、シドは扉のノブを回してみる。扉は、ぎっ、と軋んだ音を立ててあっけなく開いた。
シドは緊張しながら開いた扉から顔を覗かせ、辺りを伺うも、誰もいない。
鼻につくのは埃の独特のあの粉っぽい臭いだ。何年も掃除をしていないのが、顔を覗かせただけでも分かった。
「は、入りま~す」
小声で言いながら、そうっと中に入った。