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「……この不気味な廊下はどうにかならないのかな……」
朝のはずなのに、今日もやっぱり日差しが殆ど通らない。そして、二階の廊下は、やっぱり気味の悪い置物であふれている。
(うー……。見ない見ない)
シドは廊下の左右の側は見ないように注意して、真直ぐ前だけを向いて歩く。
ふっと何かに惹かれたように視線が横にずれた。すがすがしいはずの朝に見るには、ちょっと抵抗がある廊下の壁際に置かれたチェストの上に飾られている鼠の剥製を握っている長い爪の右手のミイラをうっかり見てしまった。
「ひっ!」
心臓に悪いことこのうえない。なんとか、それ以上怖い物を見ないようにして、シドは屋敷の主の根拠地である書斎の前にたどり着く。
緊張を発散させるために、深く息を吐いてから、扉を叩いた。
「…………」
扉の向こうからは何の応えも無い。もしかして、聞こえなかったのだろうか。シドはもう一度扉を叩いた。
「…………」
薄暗い屋敷からは何の音もしなかった。まるで、扉の向こう側は無人のようだ。
(……まだ、寝ているのか?)
腕を組んで首を傾げてしまった。
陽はすでに昇りきり、人々は動き始めているが、この屋敷は薄暗いので、朝日が昇っていることに気がついていないのではないだろうか。それでもし寝ているのなら、何度もノックをするのは失礼じゃないだろうか。はて、どうしよう、と思案に暮れようとしたシドの右後ろ辺りが唐突に暗くなった。
シドは特になにも考えずにその暗さの方へ顔を向ける。そこにはきょとんとした表情のリエッタが立っていた。
あまりの存在感のなさに驚いた。声を上げることを何とか耐えたシドは息を詰まらせてから、心臓がばくばくしているのを誤魔化すように、何事もなかったかのように話しかけた。
「っ! ……あ、あれ、一階にいたんじゃ……」
言いかけたシドの言葉を遮るようにリエッタが口を開く。
「あら? まだ、坊ちゃまに挨拶していないの」
「あ、ああ。返事が無くて……」
戸惑いながら答えるシドにリエッタはにんまりと笑った。
「あら、そうなの。じゃあ、入っちゃいなさいよ」
シドは目を剥いて、一瞬言葉に詰まった。
「は? や、リエッタさん。さすがに、それはまずいんじゃあ……」
使用人としてそれは、どうなのかと思ったシドが困惑した表情を向けると、リエッタは、ふふ、となんでもないように笑った。
「どうせ、何度叩いたって坊ちゃまは返事なんてしないんだもの。用事があるときは突撃あるのみよ!」
「えー……」
戸惑った声で賛成しかねていると、リエッタはむんずとシドの腕を掴み、反対側の手で書斎の扉のノブを掴んだ。
「はーい。いってみようー!」
ノブにかけていた手が動き、ノブが回される。
「え、ちょっ……」
シドの制止の言葉なぞ風に飛ばされる洗濯物のように無常にも無視される。そのまま、リエッタは扉を開けようとした。
慌てたシドはリエッタの行動を阻止しようと、掴まれていないほうの手を伸ばし、ノブを奪おうとするも、それを先に察知したリエッタは、シドの手がノブを持ったりエッタの手に触れようとした瞬間、ぱっと離す。
勢いを殺せなかったシドはそのままリエッタの手ではなくノブを掴む。そのまま引き戻せば扉は閉まるはずだった。なのに、リエッタは待ってましたとばかりに、今まで掴んでいたシドの腕を振り子のように前にブンと押す。シドは予想していなかった動きに止まる事ができずに、動きに合わせるように身体が前に行き、二三歩足が動く。そのまま、リエッタは最後の仕上げとばかりに、背中をドンと押した。
どうしようも無かった。その一言に尽きる。
シドはそのまま流れに沿って、扉は開き、シドの身体が勝手に部屋に吸い込まれていく。あっと思うまもなく、シドは体の均衡がとれず、掴んでいたノブから手が離れ、そのまま昨日と同じように床に激突する。かと思いきや、寸でのところで、シドの右足が動いてくれた。
「……ふんっ!」
シドは鼻息を一つ荒く鳴らし、ダンッと響く音を立てた。右足は膝を曲げ、左足はピンと後ろに伸びた状態だ。顔は床の方に向き、翼のように両腕は広がっている。床と仲良くなることは避けられたが、正直、変な格好だ。ついでに、腰がピキッといった。
「うっ!」
呻いた拍子に伸びていた左足の膝がガンと床にぶつかった。
「~~~~~っぅ」
骨に響く痛みに、シドの目に涙が潤んだ。
パタン……。
歯を食いしばって痛みに耐えていたシドの耳に、静かにけれどもどこか苛立ちを含んだ何かが閉じられる音が聴こえた。
シドは恐る恐る顔を上げ、音源の元となった場所へと視線を向ける。そこには、革張りの椅子を書斎机と平行になる向きにし、本を閉じた状態で人形のように固まっているヴァリアスが居た。
「…………」
二人の人間が一つの部屋にいるはずなのに、息遣いも聞こえないほどの粛々とした場になった。カーテン越しの窓の向こうからは朝の日差しに気を好くしたように小鳥が囀っている。
シドは無言のまま、ゆっくりと伸びた足を戻し、直立体勢になった。そこにいたって、やっと部屋の主は生きていることを知らせるかのように、小さくため息を零した。
「消えるか消滅するか、滅亡するがいい」
ぼそりと言われた言葉だが、しかしシドの耳にはしっかりと聞こえた。
「むしろ一言滅びろと言われたほうがましなんですが!」
屋敷の主人であることが一瞬すっぽりと頭から抜け落ちたシドは感情の赴くままツッコミを入れてしまった。
言い切ってから、はっと気がついたがもう遅い。暴言はクビの第一歩。もしや、最短記録で仕事がなくなるのか、とシドは内心で絶叫した。
撤回しようにも、どうすればいいのかわからず、シドは泡を食った表情で顔を青ざめた。
「……」
ヴァリアスは沈黙している。
これはクビ宣言の前触れか、と脳にいっているはずの血がざあっと下に流れていくのを感じながらシドは呼吸が浅くなっていくのを自覚した。後数秒で卒倒しそうだ。
「……何しに来た……」
低く抑えた声でヴァリアスが問う。一瞬何を聞かれているのか解らなかったシドはきょとんとした顔で瞬きを一つした。それから、やっと質問の意味に気がつき、急いで答えた。最後のほうの声は大きくなってしまったのはご愛嬌だ。
「へ? あ、ああ、はい。仕事です。今日からこの屋敷の掃除をご実家から任されました」
それだけ言って、肩で息をする。どうやら、先ほどの最悪な想像で体力をかなり使っていたようだ。
ヴァリアスはこのとき初めて椅子を回し、シドのほうを見た。その表情はまるで、いまになって初めてシドを認識したように、喫驚し顔だった。
「……何と?」
驚いた顔をシドに晒したのが気に入らなかったのか、ヴァリアスは表情を無に変えようとして、しかめ面になりながら聞き返してくる。
歓迎されていない。初めて出会ったときからそうだろうと感じていたが、ツキッと浅く心の表面が痛む。そんな心情を押し殺して、シドはぴんと背を伸ばした。
「今日から、この屋敷で働かせていただきます!」
シドがやけっぱちな感を含んだ大きな声を上げると、ヴァリアスは何もかも拒絶するような排他的な雰囲気を醸し出し、口角を上げてシドを皮肉げに眺めた。
「酔狂な男だ。……私の傍にいた者たちがどうなったのか、知ってなお、私の元で職を求めるか。……自殺志願者のようには見えんが……。ああ、危機管理能力の欠如者か……」
めんどうな、と声にはでないが、口元が動いた。
その、呟きにもならなかった音が寂しそうだとシドは感じた。それと同時に、心の奥底から熱いものがポコリと一つ湧き上がってきたような気がした。
熱いものが何かも判らなかったが、シドはその熱に突き動かされるように口を開いた。
「これから、よろしくお願いします!」
言い切って、九十度腰を曲げてお辞儀をした。
「………死にたくなかったら、さっさと逃げるがいい」
シドの熱意をヴァリアスは無関心に一刀両断した。その感情を乗せていない言葉に、シドはがっと心臓が脈打ち、急速に血液が全身に巡るのを感じた。ふつふつと反骨精神とも言えそうな感情がシドの脳裏に意地の悪い考えを浮かばせた。背を元に戻し、しかとヴァリアスを見据えた。
「仕事内容なんですが、本家の執事さんからは屋敷の掃除を中心に、洗濯とか、とにかく屋敷の景観をなるべく取り戻すようにと言われています。ついでに、えーと……引きこもり……いえ、ご主人様、ですか? の、食事の用意もしろと言われているんですが……」
「……今の言い回しは何だ?」
ヴァリアスの声音に一瞬苛立ちのようなものが混ざった。シドは貼り付けたような笑顔でにっこり笑った。
「いえいえ、なんでもございませんよ? ゴシュジンサマ?」
目はどこまでも生ぬるくヴァリアスを見つめ返している。
ヴァリアスはちっ、と小さく舌打ちをした。その表情は今までの大人びた雰囲気から一変して、歳相応の少年が不貞腐れたようだった。
おっ、とシドは思ったが、態度には出さずに生ぬるい視線を維持した。こんな表情ができるのか、と内心で嬉しがっている自分がいることを自覚しながら。
ヴァリアスはそんなシドの心内を見たわけではないだろうが、途端に表情を無関心に戻した。
「ゴシュジンサマは気色悪い。絶対的に却下する」
「そうですか? ……じゃあ……雇い主様?」
思いついた言い方を首をちょこっと傾げながら言う。
「それは、父上のことであろう……」
「あ、そうですね……じゃあ……」
(引きこもり様とか? いや、あてつけがまし過ぎるか。根暗様とかヒッキー様とかはどうだろう……いやいや。なんだか、鬱々とした何とかの神様みたいだぞ。そういえば、学校でいま、へんな神様のお呪いが流行っているって聞いたな……いや、そうじゃなくて……)
うんうんと腕を組んで真剣に悩んでいるシドは気がつかなかった。ヴァリアスが、こやつもしや頭がアレ的だから私のそばにいることがどんなことか判っていないのか? と知能から
して疑われていたことに。
「うーん……」
呼び方を決めかねてシドの何度目かの呻きに重ねるようにため息が聞こえた。シドはその音源に呻くのも忘れ視線を送る。
「名でかまわん。最初に呼んでいたであろうヴァリアス、と。それでいい」
「あ……はい」
名前を呼ぶたびに嫌そうな素振りを見せていたヴァリアスは、てっきり名を呼ばれるのが嫌いなのかと思っていたが、あっさりと名呼びを許されてしまった。なんだか、自分が必死に考えていた愛称は何だったのだろう、とがっかりした気分だ。たとえ、ヒッキー様とか一歩間違えれば貴族相手への暴言とも取れる呼び方だが、シドからすれば貴族はすごいと漠然としたものを想像したことがないので、旧友につけるあだ名のような気分で考えていたのだが。
「あの……」
本当に名前で呼んでいいのか、と聞き返そうとしたらヴァリアスがしっしと手を振った。
「さっさと去ね」
昨日のように追い払われている。
そのことを認識した瞬間、僕は犬か、と憤慨しそうになったが、シドは相手は屋敷の主、自分は掃除係りと言い聞かせて、引きつる口元を無理やりに少しだけ笑んで見せた。
「では、これから屋敷の掃除を始めさせていただきますヴァリアス様。失礼しました!」
語尾が荒げ、態度も取り繕うとして失敗している。表情はむっとしており、まだまだ文句がたくさんあると顔に描いてある。
シドは頭をさっとさげて踵を返し、扉を開いて出て行った。
扉が閉まりそうになったとき、ヴァリアスがどうでも良いような、投げやりな言葉を投げかけた。
「私の世話は必要ない……」
そんな言葉がシドの耳に入り、バタンッと扉が閉まった。その言葉に返す事無く、シドは無言で廊下を怒りが内包された足音を立てて歩いていった。




