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3-1

 シドは自分が貴族街から生還できたことに、心の中で滂沱の涙を流して喜んでいた。

(まさに、行きはよいよい、帰りは怖い、だった)


 奥様に出会った後、屋敷の使用人用休憩室に行ったシドはそこで、ヴァリアスの屋敷に品物を運んでいるという男性に会い、簡単な挨拶を済ませた。

 運搬役の男性に必要な物はないかと聞かれたが、室内の殆どが埃で埋まっているような屋敷には掃除用具以外に必要な物が思い浮かばなかった。

 そのことを正直に言えば、男性を紹介した執事が、掃除用具は一通り別邸にそろえられていると教えてくれたので特に思い浮かばないと言うと、運搬の男性は何故か眉を潜めた。そのことに少しむっとしたが、表情が出やすい人なのだろうと考え納得した。


 男はすぐに仕事があるといって席を外し、執事と二人きりになったシドは別邸についてのやることなどの諸注意を細かく教えられ、明日から正式に働くようにという話になった。その際、仕事着だと言って服を三着受け取った。しかも、身体にあわなくなったり、汚れたりして着られなくなれば新しい物を用意すると言われ、シドは驚いた。


 その仕事着は三着一纏めに布で包まれ、今シドの左脇に抱えられ、帰り際に渡された仕事の採用通知書は右手で落とさないように持っていた。

 風に少しずつ冷たさが混じり始めていた。春先とはいえ、まだ夜は冷える季節。レーネ川の水の冷たさが吹かれる風と合わさり、日差しが落ちていっていることを知らせてくれる。


「……お屋敷を出たときは、まだ暖かかったんだけどな……」

 説明が終わった後、ウィルフズ家を後にしたまでは良かったのだが、来た道がすっかり分からなくなってしまい、一刻以上貴族街をさ迷い歩き、なんとか抜け出して川沿いを歩いて見つけた船着場の停留所で場所を確認して、ちょうど向こう岸からやってきた相乗り舟に乗り、東地区に戻ってきた。そこからシドの家があるマリシアン町に向かって歩いてい最中だ。


(……っと。家に帰る前にこれを斡旋所のほうへ持っていかなきゃな)

 あたりは、すでに見知った道。煉瓦造りの家々が並び、馬車も通れるくらい広い石畳の道の中央にはレーネ川の水が生活用水として引かれている。その生活用水で野菜を洗う主婦や子供達の駆け回る足音。笑い声や風にはためく幾つもの洗濯物は楽器のように様々な音色を出している。


 向かってくる通行人の男性をよけつつ、シドは右手に持っていた採用通知書を目の前にかざし、はにかむように笑った。仕事が決まったことが嬉しくてたまらない。

「へへへ……っは!」

 声を漏らして笑みを零していたシドは、突然何かに気がついたように歩みを止めて、表情を引き締めた。


 ぞぞぞ、と背筋の産毛があわ立つような感覚がシドを襲う。

「……幸運だと思ってしまったよ……どうしよう…」

 シドは口の中で呟くように言葉を発すると、仕事着と採用通知書を死守するかのように、胸の近くで抱きしめた。


 先ほどの背筋の感覚に嫌と言うほど覚えがあった。

 シドの『不幸』は自分が幸せだと幸運を感じた後に起こることが多い。だからこそ、普段からあまり喜び過ぎないように気をつけているのだが、『不幸』で散々な目にあっているせいか、人の優しさに助けられたりすると、ふっと気が緩んで嬉しさがこみあげてしまう。そうすると、『不幸』がほぼ確実に起きる。


 その悪循環がシドのこれまでの人生の多くを占めていると言っても過言ではなかった。

 そんな変わった『不幸』を持っているシドは、もしかして早いうちから現れる早熟な『紋章』を持っているのではないか。そう『紋章』研究者の両親は考えたが、シドの身体のどこにも、これまで『紋章』は確認されていない。そのため、研究者の両親はシドの『不幸』は変わった体質か何かしらの呪いではないかと考えているが、答えは未だに出ていない。そもそもシドは年齢から言って、『紋章』が現れる頃なのだが、その兆候は未だにない。


 そんな答えの出ないシドの『不幸』だが、呪いに効くといった護符やお守りがあると聞けば、研究の合間に両親は買ってきてくれるし、心配もしてくれる。シドはこんな面倒な体質の子供に、他の子供と変わらず愛情を注いでくれる両親を尊敬していた。

 この『不幸』は周りの人間に迷惑を殆どかけないのが救いだ。被害者は主にシド本人と周りの環境だけなのだから。

「く、来るならこい!」

 弱小な兵士が怪物に向かってはき捨てるような台詞を小声で囁き、シドはびくびくと辺りを見回した。


 ここは、周りは住宅が点在し、早い家では夕食の下準備が始まっている時間帯。我が家に帰ろうと歩いている通行人や野菜を生活用水を利用して洗っている人がいるような往来。そんな中、青年になりかけた男の子が突然、意味不明な行動を始めれば、ご通行中の皆様に不審がられるのは必須で。


「ままー。あのおにいちゃん変だよー?」

 そう言って指差す女の子に、手をつないでいた母親は当然の反応として、

「しっ! 見ちゃだめよ」

 と、鋭い声でわが子をたしなめ、手を引っ張って早足でシドの真横を去っていく。


「なんだい。あの子は、突然可笑しなことを言い出したよ」

「幻覚でも見てるのかね?」

 危ない薬を使っているのかと生活用水を挟んだ向こう側にいた男性達は噂する。


 シドの町から離れている場所だったため、周りは『不幸少年』の奇行を知らない人間達ばかり。

 危ない少年だと疑われていても、シドは弁解する余裕はなかった。なぜなら、シドの耳には聞き慣れてしまった、不吉な音を捕らえていた。


……ドドドドドドッ。


 何かが、すごい勢いで向かってくる。シドは音の発信源を探るように、耳を澄ませ顔を動かす。

 怒涛の勢いの音は、次第に大きくなっていく。シドは、その音が背後から来ることに気づき、ギッギッとぎこちない動作で首を後ろに回した。


「………」

(ああ、やっぱり……)

 半分泣きそうな表情で、シドは音の正体を確認した。

「よ、用水路に波が起こったぞー!」

「川が氾濫したわけでもないのに、なぜだ!」

 慌てた声が当たりに響き渡り、道を歩いていた通行人達は我先にと、生活用水路の傍から離れていく。

 シドも逃げようと前を向いて走ろうと足を動かそうとした。

「うっ!」

 途端、なにかがシドの足を引きとめた。


「おい兄ちゃん! 早く逃げろー」

 近くの家の窓から身を乗り出した住人の一人が、未だに生活用水路近くに取り残されているシドに気がつき声をかける。

「なんで……」

 動かない足を慌てて視線を下げて確認するシドの目には、どういうわけだか、靴紐が石畳の丁度出っ張っていた石の角に引っかかっていた。

 シドは慌てて外そうとしゃがみこむ。波はすぐ近くまで迫ってきていた。

「見ろ! アレは波じゃないぞ!」

 高い所に逃げた誰かが指を指して言った。


「魚の遡上か!」

「新型の魔道具がついた船の暴走か!」

「いや、水鳥の大群だ!」


「……へ?」

 なかなか外せない靴紐と格闘していたシドはその言葉に、指を靴紐に引っ掛けたまま後ろを振り返る。


 ガアガアガア!


 首が長く、薄い水色の大型の水鳥がいた。普段なら、レーネ川の川辺でよく優雅に泳いでいるのを見かける鳥達のはずなのに、黒曜石のような円らな瞳を爛々と輝かせ、せわしなく嘴を開閉し、羽根を広げて水の上を走るように迫ってくる。数は三十羽位だろうか。中には用水路からはみ出して道にを爆走してくるものもいる。どう考えても、真直ぐにシドのほうに向かってきていた。


 シドは走馬灯のように数日前の鳥の足跡被害を思い出していた。

(……仕事着が全滅したら、だめだよなやっぱ)

 明日の仕事初日から着ていく服が無いのは少々問題がありそうだ。そんなことを妙に冷静に考えた。

 ちら、と胸に抱えている書類と服を見て、シドは意を決したかのようにぐっと表情を引き締める。


 立ち上がり、書類を仕事着が包まれている布の中に入れて、思いっきり横上に投げる。荷は放物線を描き、家の軒の上に乗った。

「よしっ……」

 小さくガッツポーズをしたシドに上から声が降ってくる。

「あ、危ない! しょうねーん」


「…………あ!」

 後ろを振り返ったら、水鳥独特の水掻きのある足がシドの眼前に見えた。

「ぎゃあああああああ!」

 最初の一撃でシドはその場に仰向けになって倒れた。それからは水鳥の独断場だった。


 水鳥たちはシドを獲物と見做したのか、わざわざ用水路から羽ばたいて上がり、シドめがけて突くもの。親の敵とばかりに水掻きで蹴飛ばすもの。しきりにガアガア鳴いて羽を羽ばたかせて叩くものもいる。


 三十羽近い水鳥に囲まれた挙句、攻撃されるような不幸な人間はそうはいないだろう。水鳥たちは何故だかシドを散々度つきまわし、つつきまわしたあと、気が済んだのか羽根を嘴で整えてから、普段レーネ川で見せる優雅さを取り戻し、生活用水路に次々に入って行って、来た道を戻っていく。

 最後まで残っていた一匹が止めとばかりにシドの額を嘴でつつき、ガア、と一言鳴いて去って行った。この間、周りにいた人間は、あまりのありえない出来事に呆然と事態を見ていることしか出来なかった。


 暫くの間、人が存在しているはずの場所からは水のせせらぎしか聴こえなかった。

 喧騒が遠くから風に流れてきたことにより、少しずつ通りは騒がしさを取り戻し始めた。

「……お、おい。大丈夫か兄ちゃん」

 倒れているシドを覗き込むように男性が声をかけた。

「………だ、大丈夫れふ」

 陸揚げされて、命の灯火が消えかかった魚のようにピクピクと身体を痙攣させていたシドは、弱弱しくも答えを返した。


 うめき声を上げながらも、上半身を起こそうと石畳に肘をついた。

「無理しないほうがいいよ?」

「急に起きちゃいかん」

 いつの間にか、数名の男女が取り囲むようにしながらも心配げな表情でシドの動向を見守っていた。

 そんな、労わりの言葉を聞きながらも、シドはゆっくりと身体を動かす。傍にいた誰かがそんなシドの背に手を回して起きる介助をしてくれた。

「あ、ありがとうございます。……ところで、僕の荷物は……」

 後ろの人に軽く頭を下げ、軒に飛ばした荷物がどうなったか聞くと、少し遠くのほうから声がした。

「これのことかい?」

 声がした方を向くと、ふくよかな体型のおばちゃんが近づいて来るところだった。さっと、近くにいた人がどいて、おばちゃんがシドの横で立ち止まる。


「ほら、これ、お兄さんのだろ? よく咄嗟に投げられたもんだね。汚れ一つついてないけど、さっき落とすのに棒で叩いちまったんだ。割れ物は入ってないかい? 一応、確認しといてくれないかい?」

「あ、中に割れ物はないんで、大丈夫です。ありがとうございます」

 怪我がないのを確かめて立ち上がり、シドはおばちゃんから荷物を受け取ってぺこりと頭を下げた。


 おばちゃんはそんなシドに訝しげな視線を向けてくる。

「あんた。あんな変な目にあって、なんだか妙に冷静だね」

「あ、はは……。その、なれていて……」

 荷物を片手で抱え込むように持ち、空いている手で頭をかきながら尻すぼみに話すと、おばちゃんはさらに疑わしそうな眼でシドを見る。

「慣れているって今言ったのかい? まさか、鳥に良く襲われるのかい? ……ああ。お前さんくらいの歳ならもう『紋章』は出てても可笑しくないね。もしかして、鳥に関する『紋章』でも持っているのかい?」

 その『鳥に関する紋章』が暴走でもしたのかと、おばちゃんの疑いの目は心配げな表情に変わった。


「若いうちは、『紋章』の魔法がうまく使えないことは間々あることだからね。そういう時は、早めに学校の先生に相談したほうがいいよ。町の学校でも『紋章』の制御に関しての先生はいるんだからね?」

 おばちゃんの心配は嬉しかったが、シドはまだ『紋章』が発動していない。学校の先生に聞いても、きっと制御の仕方はわからないだろう。


 フェリス国では七歳から十六歳までは義務教育で、歴史や算数、読み書きなど基礎的知識を学び、また『紋章』が現れた子は『紋章』の簡単な制御法を学ぶことが出来た。これも数代前の国王が民には学問が必要だという当時からすれば革新的な考えから始まったことで、今ではほぼ無償で受けられる。

 他にも『紋章』を更に極めようとするものや『紋章』の研究機関など高度な専門的知識に関しては北の学術院地区で学ぶことが出来るが、高額な授業料がかかるので、そこまで学業に進む庶民は少ない。ちなみに、シドの両親もこの研究機関に属している。


「だ、大丈夫です。問題はありません。ちょっと、その、まあ……」

 解明されていない『不幸少年』の本領がちょっと発揮されただけです。なんて、知らない町の人に言ったところで、頭は大丈夫かと別の心配をかけてしまいそうだ。


 シドはうまい言い訳が見当たらず、曖昧な笑顔を顔に貼り付けつつ、円に囲まれている場所から少しずつすり足で離脱し、横目で人一人分通れそうな隙間を見つけた瞬間脱兎のごとく走り出す。

「お騒がせしましたー!」

 悲鳴のように辺りに木霊するほどの大きな声を置き見上げに、シドはその場から逃げ出した。

「……なんだったんだ、一体」

 シドの背後を見送りつつ、おばちゃんが一連の騒動を見ていた人たちの気持ちを代弁するかのように呟いた。

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