忘れたい匂い。
私の好きな小説に、”懐かしい匂い”という表現が使われている。私には今までこの言葉の意味がわからなかった。
小説ではこう書かれていた。
その曲がり角を曲がると、懐かしい匂いと共に子供の頃の記憶がフラッシュバックの様によみがえった。
ついつい読み過ごしてしまいそうな一説だが、私は疑問に思う。
懐かしい匂いってなんだ?
子供の頃の記憶がフラッシュバックの様によみがえる?
そんな経験今まで味わったことない。
それに、私にとっての懐かしい匂いってなんだろう?
私は考えるよりまず行動を起こしてみる事にした。
まず、子供の頃に遊び回った近所を歩き回って見た。子供の頃に登って落ちた柵や、かくれんぼに使った竹やぶ。懐かしい気持ちになったがこれは違う。
柵はまず匂いではない。竹やぶは少しだけ懐かしい匂いらしき感じがしたがフラッシュバックはなかった。
次に秘密基地を作って遊んでいた山に足を踏み入れた。秘密基地ではいつしか遊ばなくなったが壊してはいなかったはずだ。
私は記憶を頼りに秘密基地を発見した。山の中ほどにある三メートルほどの崖の上に秘密基地はあった。
秘密基地はダンボールや木でできた小さな家の様な作りで、荒らされた様子はなかった。というか、ここには驚くほどに緑が生い茂り人の侵入を阻んでいた。見つけられたのは奇跡に近い。
そんな事を考えて秘密基地を眺めていると、崖の下を流れる小さな川の音と同時に、
──幼い頃、ここで遊んだ記憶がフラッシュバックした。
「おっ…おおっ」、思わずそんな声が漏れた。記憶は友人三人とお菓子を持ちあって笑っている記憶だった。
フラッシュバックは数秒で終わってしまったが、その数秒で私は満たされた。まさか懐かしい匂いではなく、懐かしい音を体験できるとは。しかも、川の音とは中々に風流ではないか、と一人で感傷に浸っていた。
その後、満たされた俺は秘密基地を携帯のカメラで撮ってから帰ることにした。
しかし、その前に崖の下の川を一目見よう、と崖の淵に立った瞬間だった。
私は足を滑らせ、崖から落ちた。
落ちる最中、なぜか私は秘密基地に行かなくなった理由を幼い記憶のフラッシュバックと共に断片的に思い出した。
私は前にも崖から落ちた事がある。
友達が騒いでいる。
枝で全身を擦りむいた。
沢の小石に頭をぶつけて出血した。
痛い。
青い苔の匂い。
近所の魚屋の前のより強い生臭さ。
目の前には青い顔。
首に縄で締めたような痣がある男が倒れている。
ああ、そうだ。秘密基地に行かなくなった理由を思い出した。
崖の下で殺人事件があったんだ。
崖の下に落ちた私は、岩に生えた苔の匂いと共にその事をフラッシュバックした。




