モタモタさん
「なぁ雪也、『モタモタさん』って知ってるか?」
授業の後の休み時間。次の授業の準備をしていた雪也に、勝が話しかけてきた。
眠たげに教科書を机から引き出していた雪也は、噂好きの友人が持ってきたネタに仕方なく反応する。
「ん? 何それ」
「最近ウワサになってる都市伝説だよ」
「都市伝説、ねぇ……」
都市伝説という言葉を聞いて、雪也は頬杖をつきながら勝に気だるい視線を向ける。
「お、何だその面倒そうな顔はよぉ」
「いやだって、作り話くさいし」
「別にいいじゃねえかよ~本物だったら困るだろ?」
「確かにそうだけど」
勝はわざとらしく咳払いをして本題に入った。
「それじゃ話すぞ。『モタモタさん』っていうのは人の姿をした妖怪で、人通りの少ない場所にいるらしい。そいつは一人で歩いてる人を見つけると追いかけてくるんだが、すっごく動きが遅い」
「それなら簡単に逃げられそうだね」
「そうは上手くいかないんだなこれが。何で『モタモタさん』って名前なのかわかるか?」
「それは……足が遅くてモタモタ動いてるから?」
「それもあるんだけど、本当の理由は逃げる人の足を遅くする力があるからなんだよなー」
「うわっ、チート臭いなそれ」
「だろ? で、『モタモタさん』に追い付かれたらどうなるか、知りたいか?」
勝はあからさまに声を潜めて雪也に問いかける。
しかし、こういった話のパターンを少なからず知っている雪也は、半目で視線を勝に向ける。
「何となくオチはわかる」
「テンション下がること言うなよ。ま、どうなるかは知らないんだけどな」
あまりに拍子抜けな結末ともいえない結末に、雪也は思わずガクリと頬杖を崩す。
「話すなら話すでもうちょっとちゃんとやりなよ。中途半端でスッキリしない」
「そんなこと言うなって。この『モタモタさん』の話にはオチなんてないんだから仕方ないだろ?」
「はぁ……時間を無駄にした気分」
雪也が溜め息を吐くと、チャイムの電子音が鳴り響いた。
「あ、もう授業じゃん。席に戻るわ」
「はいはい」
席に帰る勝を見送りながら、雪也は筆箱の中からシャーペンを取り出した。
「『モタモタさん』ねぇ……」
学校帰りの雪也は、勝が話していた都市伝説のことを考えながら歩いていた。
毒にも薬にもならない話ばかりを話す勝にしては珍しい話、というのが雪也の『モタモタさん』に対する評価だった。
それっぽい語感に合わせてそれっぽい話を繋ぎ合わせただけのなおざりな話。さらにオチも『モタモタさん』の対処法もない。
しかし、その中に不気味なリアリティが含まれている。
死に至る怪異ならば、その過程を第三者が見ていなければならない。一人しか遭遇していないにもかかわらず、その哀れな遭遇者が死ぬところまでの話が存在する場合は、十中八九作り話だろう。一人で死ぬことなく怪異から逃げ延びたのなら、その怪談は『恐ろしい何かに追われた話』になっているはずだ。
そういう意味では、『モタモタさん』は都市伝説としては不完全だが、怪異としては人殺しの可能性を秘めていた。
そんな益体のないことを考えながら鳥居の前を横切った時、雪也は視界の端に人の姿を捉えた。
「ん? 誰かいるのかな……」
それはほんのささいなことだったがどうしても気になり、鳥居の方に顔を向けた。
「え……嘘……」
そこには、たしかに人がいた。
しかし、その人は雪也の視界に映っているにも関わらず、人として認識することができなかった。
髪を生やしている。服を着ている。ズボンを穿いている。靴を履いている。
その事実だけは確実に捉えているはずなのに、どのような色、デザインをしているのか理解できない。
暗闇の中ならまだしも、今は夕暮れ時。
神社を囲う森があるとはいえ、日の光があってもなおその人を正確に知ることができない。
雪也は西日で目がおかしくなったのかと自分を疑い始めたが、次の瞬間、それが間違いだったことに気づく。
その人は笑っていた。
人でも斬れそうな逆三日月の如く唇の端を吊り上げて、嬉しそうに。
今までぼんやりとしてとらえどころのなかった人の顔に、驚くほどわかりやすく、喜悦が浮かび上がった。
ぞわり、と、彼の全身に悪寒が走り回る。
ムカデが身体中を這い回るようなおぞましさと、腐った下水の臭いのような不快感が同時に少年を襲う。
――あれはヤバい!
直感でそう感じ取った雪也は、一目散に走り出した。
「何だよ、何だよあれ!」
得体の知れない『人のようなモノ』の笑みが残像となって、今も彼の脳裏にこびりついている。
普通ならば、笑いかけてきた人を見て逃げるのは失礼なことだ。しかし、雪也に笑顔を向けたモノは、人と呼ぶにはあまりにも不自然だった。
もはや人モドキと呼んでも大差ないモノの恐怖を振り払うかのように、彼はがむしゃらに走る。
だが、異変は突然起きた。
「あれ、何でこんなに、走ってるんだ?」
今まで必死に走っていた雪也が呆けた表情でそう言った。
なぜ走っていたのか。何のために走るのか。先ほどまで彼を突き動かしていた何かが、どこかで抜け落ちたかのようだった。
「こんなに疲れるのに、走ってたなんて、おかしいなぁ」
雪也は全力疾走の名残で乱れる息を整えながら首を傾げる。
先ほどまで錯乱寸前の状態だったとは思えないほど落ち着いていた。生存本能としてあるはずの恐怖のスイッチが切られ、何から逃げていたのかすらおぼろげになっていた。
「まぁいいか。帰ろう」
何事もなかったかのように右足を踏みだした瞬間、何かに左足を掴まれ――
翌日、鎮守の森で足のなくなった雪也の遺体が見つかった。
しかし、足を切り離した形跡――正確には、断面が存在しないという異様な状態だったため、警察は極秘裏に事件を処理した。
表向きは通り魔事件とされた雪也の死は、クラスメイトを悲しませた。
それは勝も例外ではなかった。
「雪也ぁ、何で突然死んじまうんだよ」
誰もいない田舎の帰り道で、勝はつぶやいた。
雪也の死を知らされて一週間経っても、その衝撃が和らぐことはなかった。
「あの日までいつも通り話してたのによぉ……」
声が震えそうになるのを抑えながら歩いていると、雪也の遺体が見つかった神社に通りがかった。
「……お参りすっか」
それは雪也のためか、それとも自分のためか。
勝は境内に足を踏み入れる。
夕日に照らされた無人の神社は、静寂と若葉の匂いだけが空間を満たしていた。参道は綺麗に掃除されており、その両脇には白い玉砂利が敷かれていた。
勝が本殿に向かって歩いていると、本殿の裏からゆらりと人が現れた。
その時、空気が一変した。
爽やかな木の匂いが淀み、清浄な空気が重々しく肌に纏わりつくような空気になっていく。
勝の視界が心なしか暗くなり、突然の空気の変化に動揺する。
「な、何だ……!?」
ゆっくりと歩いてくる人の姿を見た勝は、言葉を失った。
目に入っていても、焦点を合わせられない異形の存在。人の姿を借りた怪異。
さながら幻のようなその存在は、勝に顔らしきものを向けると、ニヤリと笑った。
逆三日月のような口元だけが鮮明に、勝の網膜に焼きつく。
その笑みは狂喜と表現しても遜色ないほどに狂的であり、勝が逃げる動機とするのに十分なほどの禍々しさだった。
「ひ、ひぃぁ」
喉から空気が漏れるようなか細い悲鳴を上げながら、勝は逃げ出した。
が、玉砂利に足を踏み込んだ拍子に前のめりに転んでしまう。
「いでっ!」
両手に走る痛みに顔を歪めるが、今はそれどころではない。
背後からは得体のしれないモノが近づいているのだから――
「くっそがぁああああああああ!!」
勝は己を奮い立たせるために大声で叫び、拳を握って立ち上がると全力で走り出した。
立ち上がる際に玉砂利を掴んでしまったが、そこに気をやる余裕などなかった。
胸を内側から焼くような恐怖に急き立てられ、勝は吐きそうになるのを抑えながら逃げる。
人通りの多い場所へ向かう道に人はおらず、勝は一人だけ世界に取り残されたかのような錯覚を覚える。
一瞬顔を覗かせた絶望を振り払い、がむしゃらに走る。
ひた、ひた、という足音が勝の後ろからやけに響く。
あの化け物が追ってきている。
あまりの音の大きさに、勝は思わず振り返った。
かなり距離を離されたのにも関わらず、ソレは慌てる素振りすらなく、悠々と、そして堂々と歩みを進める。
まるで蜃気楼のようにぼんやりとした怪異からは、先ほどのような感情を読み取ることはできない。
勝はすぐに視線を前に戻し、さらに速く走ろうとした。
しかし、そうしようと思った瞬間、思考が霧散した。
「あれ……?」
それは今まで考えていたことを根こそぎ奪われたかのような感覚だった。
自分が走っている理由すら忘れた勝は、自然と足を止める。
痛いほどに脈打つ心臓も、酸素を求めてあえぐ肺も、全て走ったからという理由に結び付けるが、何故走っていたのか思い出せない。
ひた、ひた、という音が聞こえる。
少し前ならば、確実に恐怖したであろう足音。
だが、勝は呆然と誰かが歩いているとしか思わなかった。
致命的な危機感の欠落。
しかし、それでも勝は、頭の片隅に残った違和感を握りしめていた。
握り拳に力を入れると、手の中に何かあることに気づく。
手の中の物を確認すると、それは神社の玉砂利だった。
「何でこれが……ああっ!」
玉砂利を見た瞬間、勝は神社で遭遇した『人のようなモノ』の存在を思い出した。
それをきっかけに、今までの記憶が瞬く間に蘇る。
さながら走馬灯のように流れる記憶を見終わった勝の背後で、ひた、と足音が響き、思わず凍りつく。
気配の塊が、手を伸ばしているような錯覚。
肌が、恐怖で一斉に粟立つ。
「やばい、やばいってやばいやばいやばい!!」
勝は追い付かれたと理解する前に命の危機を感じ、反射的に駆け出した。
すると、気配は途端に薄くなり、例の足音も聞こえなくなった。
それをチャンスと受け取った勝は、脇目も振らずにひたすら逃げた。
晩ご飯の買い出しで賑わう商店街まで走った勝は、あの化け物が付いてきていないことを確認すると、街灯の下でへたり込んだ。
茜色から群青に変わりつつある空を塗りつぶすかのような強い光が灯り、それを見た勝はやっと人心地ついた。
「た、助かったぁ……」
胸いっぱいに広がる安堵感。
先ほどまでの出来事が現実であったのかさえ疑うほど、商店街の様子はいつも通りだった。
痛む脇腹を押さえながら、全力疾走で酷使した両足をさする。
そうしながら、どうやってもはっきり見れなかった謎の化け物について考える。
「あいつ、間違いなく俺より遅かったし、普通に最初の時に逃げ切れた。なのに、突然逃げてた理由がわからなく……わからなくなった?」
普通ならば起こりえない異常な心境の変化に気づいた勝は、記憶の中に、少しでも共通した情報がないか思考する。
目当ての情報は思いのほかあっさり浮かんできた。
「もしかして、あれが『モタモタさん』なのか」
勝が知りうる情報の中で、最も共通点の多いものが『モタモタさん』だった。
「確かに足は遅かったし、こっちの足も遅くなった。人っぽい姿だった。だけど、あんなヤバいやつだったのかよ……」
勝の脳裏には、今も恐怖の残り香が染みついていた。
追われる恐怖もさることながら、思考を歪められる体験は純粋に心を壊すに値するほどの凶器足りえた。
「もしかして、雪也は『モタモタさん』に殺されたのか」
そんな考えが、スッと浮かび上がった。
勝が『モタモタさん』に遭遇した神社の鎮守の森で、雪也の遺体は見つかった。雪也が『モタモタさん』に遭遇していても不思議ではなかった。
「……はぁ。それじゃ、話の内容変えないとなぁ」
薄雲に覆われてぼんやりとした東の空の三日月を眺めながら、勝はそうつぶやいた。
次の日から、学校で新しい『モタモタさん』の話が流れるようになった。
『モタモタさん』は人の姿をしているが、はっきり見ることはできないということ。
『モタモタさん』から逃げ切るには、砂利などの『石』を持っていなければいけないということ。
何故『石』がいるかという質問に対して、勝はこう答えた。
「それはほら、言葉遊びだよ。『石』と『意思』を掛けてるんだ。『モタモタさん』から逃げ切るには曲がらない『意思』が必要だからな!」
今回の作品は部活の原稿を改稿したものになります。
一つの都市伝説が形を成し、それに対する対処法が作られる流れを書いてみました。
怖がってもらえれば幸いです。