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「家族だから名はいらない」と言われた洗い張り令嬢は、十三個の洗濯挟みごと公爵様の唯一になる

作者: 冬野 しほ
掲載日:2026/09/07

「家族だから名はいらないの」


 ぱちん。


 お母様の指が、干し上がった布から私の洗濯挟みを外した。


 柳の葉を三本刻んだ木の挟み。布一反につき一個、十三個。朝から洗って糊を引き、張り板へ沿わせ、指の腹で一筋ずつ皺を追い出した者が誰かを示す、ささやかな印だ。


 ぱちん、ぱちん、ぱちん。


 十三度鳴ると、私の一日はなかったことになった。


 工房の表には、新しい札が掲げられている。


『テクレ 一日十八反仕上げ』


 すばらしい。お姉様は昨日まで五反で手首が震えていたのに、一晩で十三反も腕を増やしたらしい。腕が増えたのなら袖代が大変だ。


「お客様には、テクレ一人の仕事だと?」


「家の評判のためよ。姉の名が上がれば、お前も得をするでしょう」


 客の前では蜜漬けの果実のようだったお母様の声が、私だけになると乾いた豆を鍋へ投げる音になった。


「娘たちの共同作業でございます、と仰っていましたよね」


「そう言わなければ、お前が不満そうな顔をするからでしょう。共同作業でも、札に載せる名は一つでいいの。家族の仕事に自分の名を欲しがるなんて、強欲な娘」


 十三反に私の名はいらない。


 そう言われ続けると、自分の舌で言ってもさほど痛くない。さほど、というのは便利な言葉だ。指の爪を剥がされるよりは痛くない、くらいの広い範囲を覆える。


 お姉様は俯いていた。


 母の手が納品札へ伸びる。お姉様の唇も動く。けれど、出てきたのは息だけだった。


 私は作業台の端に積まれた十三個を拾った。麻袋へ入れると、木片のくせにずしりと重い。


「どこへ行くの」


「強欲なので、名前を置ける場所を探します」


「戻りなさい、マナナ」


「家族なら名はいらないのでしょう。でしたら呼ばなくても結構です」


 扉を閉める寸前、お母様が私の名をもう一度叫んだ。


 必要なときだけ、ちゃんとご存じなのだ。


 翌朝、お母様の工房から荷車が出た。


 積まれていたのは五反だけだった。


 布商人のオタリは、十三反分ぽっかり空いた荷台を見て、何も言わずにその空所を平手で叩いた。ばしん、とたいへん景気のいい音がした。


「十八反の注文だった」


 お母様は笑顔を崩さなかった。


「残りは乾燥が遅れておりますの。娘が少し体調を——」


「テクレが仕上げた五反は合格だ。で、残りは?」


 お姉様の肩が縮む。


 客用敷布は五反では揃わない。客は五反だけ受け取り、次の注文を別工房へ回した。


 十三反が消えた翌日、注文からも十三反が消えた。


 算術というものは、家族の情より容赦がない。


    *    *    *


 お母様は反省の代わりに、人を増やした。


 洗い場へ臨時雇いを詰め込み、再び十八反を請けたのである。担当の印は見栄えが悪いからと、洗濯挟みを一つも使わせなかった。


 誰がどの糊桶を使ったか分からない。先に洗った布が後ろへ追いやられ、薄色の家紋布が濃紺の布の下へ干された。張り板には反りがあり、布目を読まずに張れば端から縮む。人数だけ増やせば仕事も増えるという理屈なら、料理人を十八人集めた鍋は十八倍おいしいはずだ。たぶん台所が燃える。


 夕刻、オタリが濡れ布を抱えて私の借り部屋へ飛び込んできた。


「食べるなよ」


「まだ何も言っていません」


「その顔は糊を菓子にたとえる顔だ」


 家紋布の端には、隣から移った青い染みが雲のように広がっていた。糊は匙が立ちそうなほど濃い。葛菓子なら心が躍る固さである。


「布には災難です」


「食べ物の話をするな」


「していません。これはもう洗い直せません。乾きかけの繊維へ染料と糊が噛んでいます。剥がせば艶が死にます」


「ナヌーリは、お前なら元へ戻せると言った」


「お母様は私を職人として数えないのに、失敗したときだけ腕を数えるのですね。便利な算盤です」


 私は布を屋根の下へ移し、これ以上乾き割れしないよう湿らせた布で包んだ。損傷箇所と工程を紙へ書き、端切れを証拠として挟む。直せないものを直せると言えば、次に同じ布を預かる職人まで嘘つきになる。


「尻拭いはしません。被害を広げない処置と、記録だけです」


 オタリは早口で必要事項を確認し、最後に一度だけ頷いた。


「川下に空いた干し場がある。板は古い。持ち主は前金を欲しがっている」


「名前を出して借りられますか」


「家名じゃなく?」


「マナナという職人に貸す、と契約書へ書いてくれるなら」


「書かせる。書かなければ、あいつの空き干し場は永遠に空いたままだ」


 翌日、私は反った張り板と、屋根の半分抜けた小さな作業小屋を借りた。


 入口の札へ自分で名を書いた。たった三文字を書く手が、濡れ布より重かった。


 麻袋から十三個の挟みを出し、削り屑を払い、柳の刻みへ油を擦り込む。


 毎朝そうした。


 帰るつもりがないなどとは、一度も口にしなかった。


    *    *    *


「公爵家の大布を十八反、頼みたい」


 名より先に肩書を寄越す人は苦手だ。


 ところが、ギオルギ様は私の札を一瞥しただけで、干してあった布の耳へ指を滑らせた。次に張り具合を見て、最後に十三個の洗濯挟みを確かめる。


「この刻みが担当の印か」


「はい。一反に一個です。柳の葉が三本。数えやすく、他人が削り足しにくい形にしました」


「では、注文を分ける。テクレ名義で五反。マナナ名義で十三反」


 息を吸い損ねた。


 オタリが私の背中を軽く叩いた。咳を出すためである。たぶん。公爵様の前で固まった職人を出荷可能な状態へ戻す親切である。


「共同では、ないのですか」


「担当と責任を曖昧にする理由がない」


 ギオルギ様は注文書を作業台へ置いた。布の用途、受け渡し日、検分場所、損傷時の負担。テクレの五反と私の十三反は欄から分かれ、報酬も別々になっていた。控えには公爵家の印がある。


 紙の上に私の名があった。


 まだ何も仕上げていないのに、そこだけ何度も見た。見すぎて文字が擦り切れたらどうしよう。紙の文字は視線では減らない。知っている。知っているが、家では毎日減っていた。


「受けます」


「条件を確認してから返事を」


「確認しました」


「今、名前しか見ていなかったようだが」


「ギオルギ様は布の耳だけでなく、人の目の動きまで検分なさるのですか」


「必要なら」


 怖い。たいへん怖い。


 けれど、嘘が通じない人は、嘘をつかなくてよい相手でもある。


 私は注文書を最初から読み直した。支払い、納期、不合格の条件まで指で追い、自分の名の横へ署名する。


「十三反を私の名で納めます」


「頼む」


 それだけだった。


 求婚の気配など、糸くずほどもない。仕事である。まっとうな仕事。胸の内側で何かが跳ねたのは、公爵家の注文が大きいせいだ。そうに決まっている。大布だから跳ね方も大きい。心臓は律儀な荷運び人なのだ。


 まず、張り板を直した。


 古い板は中央が浮き、端が川側へねじれている。水を吸わせて布を張れば、その反りがそのまま皺になる。私は板を寝かせ、糸を張って浮きを測り、鉋で高いところだけ薄く削った。削りすぎれば板が負ける。欲張らず、手のひらで撫で、もう一度糸を見る。


 ギオルギ様は公爵家から運ばせた大布より、その作業を長く見ていた。


「新しい板を用意させよう」


「今回は間に合いません。それに、新品も最初から従順とは限りません」


「板にも性格があるのか」


「反る板、毛羽立つ板、見た目だけ立派で釘が甘い板。人と同じです」


「私なら?」


「まだ検品中です」


 オタリが帳面へ顔を伏せた。肩が揺れている。笑うなら代金を取ろう。


 大布は用途で糊を変えた。広間で垂らすものは光を柔らかく返す薄糊。卓を覆うものは形を保つ中糊。人の手が触れるものは硬くしすぎない。桶へ糊を溶き、指で掬い、落ちる筋を見る。


 空腹の腹が鳴った。


「今の音は?」


「板です」


「板は腹を空かせない」


「まだ検品中なのに断定が早いです」


 昼になると、公爵家の使用人が籠を置いていった。黒パン、肉、塩漬け野菜、それに小さな焼き菓子。


「公爵様から、作業中断命令です」


「食事にそのような権限が?」


「職人が倒れれば納期に響く、とのことです」


 まっとうな工程管理だった。


 焼き菓子だけ二つ入っていたことについては、工程管理が甘党なのだろう。


 私は布を洗い、濁った水を替え、繊維を傷めぬよう押して水を切った。絞らない。急ぐときほど絞らない。重い布を肩と両腕へ分けて載せ、板まで運ぶ。上端を留め、布目を縦へ通し、中央から外へ掌を滑らせた。


 一反。


 柳の挟みを一個。


 また一反。


 また一個。


 十三個すべてが板の上で並んだとき、指先は赤くふやけ、腰は人間のものではなくなっていた。腰だけ先に老後を迎えたらしい。


 ギオルギ様は完成した面より先に、挟みを数えた。


「十三個」


「はい」


「全部、あなたの仕事だな」


 簡単な確認だ。検分に必要な質問。それなのに返事が喉で引っかかった。


「……はい。私の仕事です」


 布の耳を確かめていた指が止まる。


「何か不具合が?」


「ない。よく仕上がっている」


 その言葉だけで、夕食の煮込みを一鍋食べられそうだった。


 実際には半分で止められた。ギオルギ様が使用人へ「急に食べさせるな」と命じていたからだ。公爵家は人の胃まで検分対象にするらしい。油断ならない。


 お姉様の五反も届いた。


 五個の挟みには、花弁を一枚だけ彫った印がある。端の一反にわずかな張りむらがあったが、布を使う位置にはかからない。お姉様は自分でそこへ印をつけ、検分で申告すると言った。


「十三反は、すごいわ」


「お姉様の五反も、お姉様のものです」


 背後でお母様の足音がすると、お姉様の顎が下がった。


「明日の公開乾燥では、余計なことを言わないで」


 お母様は客へ向ける笑顔のまま、私たちにだけ聞こえる声で命じた。


「十八反は家の実績よ。公爵様の前で恥をかかせたら、家族とは思いません」


「私はもう、家の工房におりません」


「誰が育てたと思っているの」


「育てた分を娘の成果で回収する契約でしたら、署名した覚えがありません」


 お母様の口角が落ちた。


 お姉様の指が、五個の挟みを包む。白くなるほど握って、それでも離さなかった。


    *    *    *


 公開乾燥の日、川風は朝から機嫌が悪かった。


 大布を張った板は、低いものを風上、高いものを風下へ置く。綱を斜めに渡し、板脚を杭へ結ぶ。風が抜ける隙間を残さなければ、一枚が受けた力を隣へ押しつけ、まとめて倒れる。


 私は板の反りをもう一度確かめた。結び目を引き、十三個の挟みを撫でる。


 ギオルギ様は検分台にいた。オタリ、公爵家の係、組合の職人、注文に関わった者たちも並んでいる。


 お母様は誰より上品に笑った。


「娘たちの共同作業でございます。十八反すべて、当工房のテクレが取りまとめました」


 言いながら、私の板へ近づいた。


 指が柳の挟みを外す。


「何をなさるのです」


「公爵家の前よ。家の印へ揃えなさい」


 ぱちん。


 一個。


「やめてください」


「口答えしない」


 二個、三個。


 私が腕を掴むと、お母様は振り払い、残りも端から外した。十三個の挟みを籠へ放り込み、臨時雇いへ板を詰めさせた。干し順を整えるための隙間が消える。


「この方が十八反、見栄えよく並ぶでしょう」


 見栄え!


 布は晩餐会の貴婦人ではない。肩を寄せ合えば仲良くなると思うな。濡れた大布は重く、風を食べる。仲良く倒れるだけだ。


 臨時雇いが追加の糊を持ってくる。表面を硬くして張りむらを隠すつもりらしい。匙どころか、小さな果物なら載りそうな濃さだった。


 私は桶を奪った。


「布には災難です」


「マナナ!」


 最初の突風が来た。


 高い板が鳴り、綱が弓弦のように張った。詰められた板列の中央が持ち上がる。


 誰かがギオルギ様の名を呼んだ。


 救援を待てない。


 私は糊桶を蹴り退け、風上の綱へ飛びついた。結び目は荷重を受けて硬い。爪を差し込み、腰を落とす。解けない。なら切る。


 作業台の小刀を抜き、綱を一本だけ断った。


 板列が川側へ傾く。


 立て直しては駄目だ。風へ正面を向ければ、次で全部持っていかれる。


 私は一番端の自分の布を上から外した。挟みはもうない。濡れた端を腕へ巻き、肩で重さを受け、泥の手前へ引く。裾が地面を擦る前に膝を差し込む。抱えたまま板を蹴り倒す。


 板は地面へ寝て、風をその背へ逃がした。


 一反。


 次。


 風上から外す。上端、中央、下端。順番を違えれば布が自重で裂ける。


 二反。三反。


 腕の内側が擦れた。濡れた布は冷たいのに、指は焼けるようだった。


 四反、五反、六反。


「押さえます!」


 公爵家の人たちが駆けてくる。


「まだ入らないで! 中央の綱が生きています!」


 人が増えれば助かるとは限らない。洗い場を人で詰まらせたお母様が、すでに実証済みだ。


 七反、八反。


 板脚が浮いた。私は倒れ込むように体重をかけた。頬の横を木枠が掠める。


 九反。


 十反。


 息を吸うたび、喉に川の冷気が刺さる。


 十一反、十二反。


 最後の一反が大きく膨らんだ。両手で上端を掴む。風に持ち上げられ、靴底が泥を滑った。


 離せば私だけは転ばない。


 離した布には、私の名も残らない。


「離しません!」


 誰への返事か分からないまま叫び、肘へ布を巻きつけた。空いた足で板脚を蹴る。


 板が倒れる。


 十三反目を胸へ抱え込んだ。泥はすぐ横で跳ねたが、布には届かなかった。


 私の十三反。


 全部ある。


 次の風を、空になった板ごとギオルギ様の腕が押さえた。


 そこで終われなかった。


 隣では、お姉様の五反を張った板が、順番を崩されて互いへ噛み込んでいる。一枚を乱暴に抜けば、花の挟みが食い込み、布耳から裂ける。


「そちらは任せろ」とギオルギ様が言った。


「外す順を知っているのは私です」


 私は立った。膝が笑っている。今は笑う場面ではない。体の部品は空気が読めない。


 高い板の下を抜き、横綱を緩める。お姉様の五反は、中央の一枚を残し、風下から外す。端を丸め、挟みへ重さを掛けない。


 お姉様も反対側へ回った。


「ここ?」


「もう少し下。そう、そのまま」


 語尾は消えなかった。


 一反をお姉様が抱え、次を私が受ける。公爵家の人たちが寝かせた板を足で押さえる。ギオルギ様は綱を切らず、緩めた分だけ巻き取った。


 五反目が外れた直後、空の板列が風に煽られ、派手な音を立てて倒れた。


 布は一枚も下になかった。


 オタリが長く息を吐き、空いた荷台を叩いたときと同じ手で自分の胸を叩いた。


「寿命を荷台一台分使った」


「請求はお母様へお願いします」


 勝った。


 何に、と訊かれれば困る。風か、板か、それとも私の仕事をまた消せると思った誰かに。全部でいい。欲張りなので。


 けれど、腕の中の布は濡れ、張り直しが必要だった。


 私は笑う膝を叱りつけた。


「作業台を空けてください。糊を薄く作り直します」


    *    *    *


 十三反を一反ずつ張り直した。


 泥跳ねを確かめ、布目を通し、皺を掌で外へ送る。ギオルギ様の手に擦り傷があった。私が頼む前に板を運び、私が触る前に反りを確かめている。


「ギオルギ様のお仕事ではありません」


「注文主の損失を防いでいる」


「袖が糊だらけです」


「洗い張り職人がいる」


「高くつきますよ」


「名のある職人へ正しく払う」


 返す言葉がなくなった。


 ずるい。実務の顔で、私が一番欲しかった言葉を置いていく。


 日が傾くころ、十八反は再び用途どおりの順で並んだ。私の十三個と、お姉様の五個。今度は一つも外れていない。


 公開検分が始まった。


 お母様は先ほどより少しだけ声を張った。


「騒ぎはありましたけれど、家族で完成させた十八反です。札はテクレ一人の名で——」


 お姉様が前へ出た。


 掌を開く。花弁を一枚刻んだ五個の挟みが載っていた。


「この五反だけが私です」


 お母様の笑顔が固まった。


「テクレ。何を言っているの」


「私が洗い、糊を引き、張ったのは五反です。残りはマナナが仕上げました」


「家族の仕事でしょう。妹を庇って嘘をつくなんて」


「嘘ではありません」


 お姉様は籠から柳の挟みを拾った。一個ずつ数え、私の掌へ返す。十三個目を置いたあと、指が震えた。


「お母様が外しました。前の注文でも、毎日、こうして」


「黙りなさい!」


 娘だけへ向けた命令形が、検分台までよく響いた。


 お母様ははっとして客向けの笑みを戻したが、もう遅い。愛想は糊と違って、剥がれたあとから塗っても艶が戻らない。


 ギオルギ様が注文書と納品札を並べた。


「テクレの五反は、テクレの名で受け取る。張りむらの申告も記載済みだ」


 お姉様が唇を結び、深く頭を下げた。


「マナナの十三反は、マナナの名で受け取る」


「公爵様、当工房の実績が——」


「虚偽の札を掲げた工房の実績は受け取らない」


 係の者が、工房名の入った納品札を台から外した。


 紙一枚の音は小さい。


 お母様の顔から、客へ向けた笑みが消えるには十分だった。


 ギオルギ様は十八反を見渡したあと、私を見た。


「十八反から、姉君が仕上げた五反を引けば十三反。その十三反は毎日、あなたから消されていた」


 一度だけの計算だった。


 難しいところは何もない。幼い子でもできる引き算だ。


 なのに私は、ずっと間違えていた。


 十三を欲しがる私は強欲で、家族から何かを奪おうとしているのだと思っていた。


 ギオルギ様は、お姉様の五を一つも減らさなかった。


 私の十三も、一つも家へ戻さなかった。


「納品は完了です」


 声が震えた。ひどい。職人の返事として不合格だ。もう一度言おうとして、息だけが細く漏れた。


「いや。まだ、申し込みが残っている」


「次のご注文ですか」


「注文ではない」


 ギオルギ様が私の前へ膝をついた。


 公爵が。


 川べりの干し場で。


 糊だらけの袖のまま。


 オタリが口を開けた。組合の職人が隣の腕を掴み、公爵家の係は持っていた検品札を落とした。拾う者はいない。


「結婚の申し込みにも検品札が必要だろうか」


「……不合格条件は書いていただきたいです」


 周りから、堪え損ねた声が漏れた。


 ギオルギ様だけは笑わなかった。


「必要なら書く。だが、先に口で伝える」


 私の柳の挟みを一個、掌から取る。刻みを親指でなぞり、壊さないよう私へ戻した。


「私は、十三反を仕上げる腕だけが欲しいのではない。反った板を削るあなたも、濃い糊を菓子にたとえるあなたも、直せない布を直せると偽らず、それでも屋根の下へ運ぶあなたも欲しい」


 軽口が、胸の奥から消えた。


「自分の十三反を守ったあと、姉君の五反へ戻ったあなたを見た。誰かの成果を奪わず、自分の成果も渡さない。その手を、この先も私の隣で使ってほしい」


 彼の指も傷だらけだった。


 布を押さえ、板を運び、綱を巻いた手だ。


「家族だから名はいらないとは言わない。家族になるからこそ、あなたの名を呼ぶ。仕事を取り上げて公爵家へ閉じ込めるつもりもない。マナナという職人の契約も、干し場も、十三個の挟みも、すべてあなたのものだ」


 名前を呼ばれた。


 頬が濡れた。拭っても次が落ち、せっかく洗った大布へ落としそうになる。職人としては止めたい。止まらない。塩分は布によくないのに。


「そのうえで、私の唯一の伴侶になってほしい」


 喉が閉じて、返事が出なかった。


 お母様に呼ばれた名は、命令の前触れだった。


 札から外された名は、欲しがってはいけないものだった。


 今、彼の声の中にある私の名は、何も奪わない。


 ようやく声にすると、最後はひどく掠れた。


「お姉様の五反まで奪わず、私の十三反も消さなかった。だから私は、あなたに選ばれたいのです。私も、あなたを選んでよいのですか」


「選んでくれ」


「仕事を続けても?」


「あなたの仕事を奪う者と結婚するのか」


「食事を忘れることがあります」


「知っている」


「糊を見ると、お菓子を思い出します」


「それも知っている」


「公爵家の礼儀は、ほとんど知りません」


「覚える必要のあるものだけでいい。残りは私が追い払う」


「では——」


 息を吸った。


「お受けします、ギオルギ様」


 彼の肩が初めて揺れた。


「もう一度」


「お受けします」


「名前を」


 求婚を受けたあとなので、許されるはずだ。


「ギオルギ」


 立ち上がった彼に、そのまま抱き上げられた。


「待ってください、布が」


「係が見ている」


「挟みが」


「十三個、あなたが握っている」


「人が見ています!」


「見せている」


 簡潔で実務的な公爵様は、どうやら検品を終えると遠慮まで終わるらしい。


 オタリが両手で顔を覆った。


「大仕事のあとに、さらに重いものを抱えるな」


「私は布より軽いです!」


「そこじゃない」


 組合の職人たちが笑い、公爵家の係が拍手を始めた。お姉様も口元を押さえながら手を叩く。


 私はギオルギの胸へ顔を押しつけた。


 名前を呼ばれるたび、返事の代わりに彼の上着を濡らした。


    *    *    *


 ナヌーリの工房は虚偽表示によって大口の取引を失った。


 お母様から、家族なのだから戻れという手紙が届いた。私は契約書の控えだけを返した。そこには、借りた干し場の契約者として私の名がある。返事は書かなかった。


 同居も、仕事も、婚姻後の生活も、二度と重ならない。


 お姉様にはオタリが中立の組合工房を紹介した。


「五反から学び直します」


 そう言ったお姉様の作業棚には、花を刻んだ五個の挟みが並んでいる。十三へ増やすか、五の精度を磨くかは、お姉様が決めればいい。


 私は公爵家専属にはならなかった。


 マナナ名義の職人として公爵家と契約し、そのうえでギオルギの婚約者になった。契約書と婚約の書類は別々である。ギオルギがそうした。たいへん話の分かる公爵である。


 十三個の柳の挟みも、公爵家の備品にはならなかった。


 干し場に作られた専用棚には、『職人マナナ所有』と札がついている。大げさだと思ったが、ギオルギは外させてくれない。


「家族なのに?」


 試しに訊くと、彼は私の腰を抱き寄せた。


「家族だから、誰のものかを明らかにする」


 これはずるい。


 傷だった言葉へ、勝手に薬を塗ってくる。しかも毎回よく効く。


 仕事を終えて屋敷へ戻ると、湯と着替えと食事が用意されていた。菓子皿には焼き菓子が並んでいる。


 公爵家の菓子皿は逃げない。そう教わったのに、ギオルギは私が一つ取るたび、なぜか嬉しそうに皿を近づけてくる。


「もう届きます」


「知っている」


「全部食べませんよ」


「食べてもいい」


「甘やかしすぎでは?」


「まだ足りない」


 書類を届けに来たオタリが、菓子皿とギオルギの腕の中にいる私を見比べた。


「どちらを食べる話だ」


「オタリ!」


「食べるなとは言わん。仕事へ戻れる程度にしろ」


 ギオルギが無言で扉を閉めた。


 私は十三反なら一人で守れる。


 十三個の挟みも、自分の名も、もう手放さない。


 ただし仕事を終えた私自身については、検品済みだから返品不可だと、ギオルギがまったく手放してくれなかった。

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