一九九五年一月十七日
一九九五年一月十六日の夜、神戸の海は黒かった。
大学宿舎の二階、そのいちばん奥にある共同研究室の窓からは、港島の倉庫群と、海沿いに並ぶ街灯の明かりが見えた。風のない夜だった。岸壁の照明が、墨を流したような海面に細長く映り、貨物船の汽笛が鳴るたび、窓ガラスがかすかに震えた。
共同研究室と呼ばれてはいたが、実際には使われなくなった談話室を、桐崎雄一郎と大坂友哉が半ば勝手に占拠しているだけだった。
壁際には型の古いコンピューターが二台並び、机の上を、大学ノートや数式を書き込んだレポート用紙、コーヒーの空き瓶、読みかけの専門書が埋め尽くしていた。中古のプリンターは、一枚印刷するたびに苦しそうな音を立てる。床には穴を開けた連続用紙が蛇腹状に積み上がり、その上に友哉の紺色のセーターが無造作に投げ置かれていた。
暖房は入っていたが、窓枠から冷気が入り込んでいた。
雄一郎は、セーターの上に薄い白衣を羽織り、椅子の背にもたれたまま天井を見上げていた。眼鏡の奥にある目は赤く、顎には朝から剃っていない髭がうっすらと残っている。
机の上のノートには、何度も書き直された同じ式が並んでいた。
情報量。
エネルギー。
時間。
その三つを結ぶ不等式。
雄一郎は鉛筆を指先で回し、やがて小さく息を吐いた。
「やっぱり、おかしい」
向かいの机でカップ麺を食べていた友哉が、顔を上げた。
「お前がそう言うときは、だいたい式やなくて世界のほうがおかしいことになっとるな」
「茶化すな」
「茶化してへん。長い付き合いから得た統計的な事実や」
友哉は箸をくわえたまま、雄一郎のノートを覗き込んだ。
今年で三十二歳になる友哉は、雄一郎より一つ年下だった。肩幅が広く、研究者というより、町工場の機械工に見えることがあった。髪はいつも少し跳ねており、白衣の袖にはボールペンの青い染みが付いていた。
精密さを好む雄一郎とは対照的に、友哉の机は乱雑だった。計算用紙の余白には漫画のような似顔絵が描かれ、重要な数式の隣に「牛乳」「歯磨き粉」「明日香に電話」といった忘備書きが並んでいる。
しかし、乱雑なのは見た目だけだった。
友哉は一度見た数字をほとんど忘れず、複雑な計算の誤りを直感的に見つけ出すことができた。雄一郎が理論の骨格を作り、友哉がそれを現実の物理へ引き戻す。その関係は、大学院時代から変わっていない。
「境界の式は成立する」
雄一郎は言った。
「有限の空間に、有限のエネルギーしか存在しないなら、そこに保存できる情報量にも上限がある。当たり前だ。だが問題は、情報を保存するために必要な時間だ。情報量の上界だけを定めても、プロセスに要する時間を切り離したら、物理的な意味がなくなる」
友哉は麺をすすりながら頷いた。
「倉庫の大きさだけ測って、荷物を運び込む速度は考えへん、みたいな話か」
「乱暴に言えばな」
「ほな、運搬時間にも限界がある」
「時間に限界があるというより、与えられた情報量に対して、時間的なプロセス率の限界が等価的に存在する」
友哉はしばらく黙った。
それから箸を置き、雄一郎のノートを自分のほうへ引き寄せた。
「ここや」
友哉は、数式の一部を指で叩いた。
「情報を一方向に送る前提になっとる。時間を一本の直線として扱うから、途中で破綻するんちゃうか」
「時間は一方向に進む」
「熱力学的にはな」
「それ以外に、どう扱う」
「輪っかにしたらええ」
「何を言ってる」
「せやから、時間を円にするんや」
友哉はノートの余白に円を描いた。
几帳面な雄一郎には耐えがたいほど、いびつな円だった。
「ここが現在。こっちが未来で、反対側が過去。情報が一周して、また現在に戻ってくる。そうしたら保存に使う時間は、単純な長さやなくなる」
「戻ってきた時点で、それは同一の情報じゃない」
「なんでや」
「通過した系との相互作用を受ける。情報が完全に保存されるなら、時間発展そのものが否定される」
「けど、お前が探しとるのは、その否定の方法やろ」
雄一郎は口を閉じた。
友哉は、時々そういうことを言った。
雄一郎が何日もかけて積み上げた論理の、その中心にある欲望だけを、簡単に見抜いてしまう。
「お前は、情報が時間の中に保存できるかを調べたいんやない」
友哉は言った。
「本当は、時間のほうを保存したいんやろ」
「意味が分からない」
「分かっとるくせに」
友哉はカップの底に残った麺をすすり、空になった容器を丸めた。
「桐崎。お前、自分が死ぬの、怖いやろ」
雄一郎は眉をひそめた。
「研究に関係のない話をするな」
「俺は怖いで」
友哉は明るい声で言った。
「めちゃくちゃ怖い。死んだら明日香にも会えへんし、旨いもんも食えへん。阪神が優勝するところも見られへんかもしれん」
「それは当分見られないだろう」
「なんやと」
「事実を言っただけだ」
「科学者のくせに未来を断定するな」
友哉は丸めたカップ麺の容器を雄一郎に投げた。雄一郎は片手で払い落とした。
容器は床に転がり、書類の山にぶつかって止まった。
「片付けろ」
「明日やる」
「お前の明日は永遠に来ない」
「ほら。時間は保存されとる」
「詭弁だ」
そう言いながら、雄一郎の口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
二人が知り合ったのは十年前だった。
大学院の入学試験を終えた夜、構内の自動販売機の前で、友哉が雄一郎に百円を借りた。それが最初の会話だった。
友哉は財布を研究室に忘れたと言ったが、実際には財布そのものを下宿に置いてきていた。翌日、返すはずだった百円をまた忘れ、その次の日には代わりに缶コーヒーを二本買ってきた。
雄一郎は甘いコーヒーが嫌いだった。
友哉が買ってきたのは、どちらも砂糖とミルクの入ったものだった。
雄一郎は文句を言いながら飲み、それ以来、徹夜の夜には、二人分の缶コーヒーを買うようになった。
性格は合わなかった。
雄一郎は、食事の時間も、睡眠時間も、研究の進捗も、あらかじめ決めておきたい人間だった。ノートの日付は一日も欠かさず、使い終えた資料は分野別、著者別に分類していた。
友哉は約束の時間に遅れ、資料をなくし、計算途中の紙の裏で電話番号をメモした。
ただし、雄一郎が本当に困っているときだけは、一度も遅れなかった。
大学院二年目の冬、雄一郎が高熱を出したとき、友哉は夜中に下宿へ来た。額に冷却シートを貼り、鍋で粥を作った。米を洗わずに煮込んだため、粥は糊のようになっていた。
雄一郎は一口食べて、まずいと言った。
友哉は「食えるだけありがたいと思え」と言い返した。
結局、二人で深夜の救急外来へ行った。
友哉の父親が倒れたときには、雄一郎が研究発表を代わった。友哉の発表用原稿はほとんど完成しておらず、渡されたのは乱雑なグラフと、数行のメモだけだった。
雄一郎は徹夜で内容をまとめ、翌朝、何事もなかったように壇上に立った。
友哉が戻ってきたのは三日後だった。
土産として渡されたのは、病院の売店で売っていた饅頭だった。
雄一郎は礼を求めなかったし、友哉も言わなかった。
二人にとって、相手を助けることは、特別な出来事ではなかった。
計算結果を確認することや、帰りに牛乳を買うことと同じだった。
必要だからする。
ただ、それだけのことだった。
「今日はもう終わりにせえへんか」
友哉が言った。
壁の時計は、午前一時四十分を指していた。
「まだ計算が残ってる」
「明日もある」
「さっき、明日は永遠に来ないと言ったのはお前だ」
「俺の明日は来んけど、お前の明日は来る」
「意味が分からない」
「天才の言葉は理解されにくいんや」
友哉は立ち上がり、窓の近くへ行った。
カーテンを開けると、冷気がいっそう強くなった。海の向こうに、神戸の市街地の光が広がっていた。山の斜面には家々の明かりが点在し、その上に、暗い六甲の稜線が横たわっている。
「明日香から電話があってな」
友哉は窓の外を見たまま言った。
「またか」
「またって言うな」
「昨日もあっただろう」
「昨日は怒られた。今日は、まだ怒っとるか確認の電話や」
「何をした」
「誕生日を忘れた」
「最低だな」
「ちゃうねん。日付を忘れたんやない。曜日を間違えたんや」
「同じことだ」
「プレゼントは買うてある」
「何を買った」
「マフラー」
「一月に渡すには遅い」
「誕生日、十二月やからな」
雄一郎は眼鏡を外し、眉間を押さえた。
「よく婚約を解消されないな」
「俺もそう思う」
友哉は笑った。
片岡明日香とは、友哉が高校生のころから付き合っていた。
一度は別れ、大学時代に再会し、その後また付き合い始めたという。友哉は彼女について話すときだけ、普段より少し早口になる。
結婚は、研究が一段落してから。
それが友哉の口癖だった。
けれど研究が一段落したことなど、一度もなかった。
「春には籍を入れる」
友哉が言った。
その口調がいつもより真剣だったため、雄一郎は顔を上げた。
「決めたのか」
「決めた。もう延ばさん」
「明日香さんには話したのか」
「まだや」
「それは決めたとは言わない」
「指輪も買う」
「金はあるのか」
「ない」
「どうする」
「お前に借りる」
「断る」
「冷たいなあ」
「今まで貸した金を返してから言え」
「全部覚えとるんか」
「記録している」
「友人間の借金を帳簿につける人間は嫌われるで」
「返さない人間よりはましだ」
友哉は声を立てて笑った。
宿舎は古かった。
港島の再開発に合わせて建てられた施設ではなく、それ以前から別の場所で使われていた木造建築を、改修しながら研究者用の宿泊所として残していると聞いていた。
廊下を歩くと床が沈み、冬になると窓の隙間から風が入った。暖房を最大にしても室温はなかなか上がらず、風呂の給湯設備は時々止まった。
だが大学から近く、宿泊費が安い。
徹夜の多い二人にとっては、それで十分だった。
雄一郎の部屋は二階の突き当たりにあった。友哉の部屋は階段に近い反対側で、間に四つの空室を挟んでいる。
宿泊者は二人だけだった。
連休明けで、他の研究員たちは自宅へ戻っていた。管理人も夜間は常駐していない。
「明日の朝、六時に起こしてくれ」
友哉が言った。
「自分で起きろ」
「目覚まし、壊れた」
「この前買っただろう」
「壊した」
「どうやって」
「止めようとして投げた」
「なぜ投げる」
「眠かったからや」
「知らん」
「明日の朝、明日香に電話する約束なんや。七時前には起きとかなあかん」
「自分で起きろ」
「六時やで」
「断る」
「五時五十分でもええ」
「悪化してる」
雄一郎はそう言ったが、机の端に置いた腕時計のアラームを五時五十分に合わせた。
友哉はそれを見ていたが、何も言わなかった。
午前二時を過ぎるころ、二人は研究室を出た。
廊下の電灯は半分が切れていた。友哉が先を歩き、雄一郎が照明を消して回った。
「なあ、桐崎」
階段の前で友哉が振り返った。
「なんだ」
「さっきの式、名前つけようや」
「まだ証明できていない」
「証明できてからやと、誰かに先を越される」
「名前をつけても先取権にはならない」
「分かっとる。けど、名前があったほうが愛着が湧くやろ」
雄一郎は少し考えた。
「情報境界」
「硬い」
「時間情報上界」
「もっと硬い」
「なら、お前が考えろ」
友哉は唸りながら天井を見た。
「ベッケンシュタイン境界」
「そのままじゃないか」
「ちゃう。俺らのは、ベッケンシュタインのやつを時間に拡張した境界や。せやから、ちょっとだけ名前を変える」
「どう変える」
「ベッケンシュタイン境界」
「変わってない」
「よく聞け。ベッケンシュタインやなくて、ベッケンシュタイン」
「同じだ」
「発音が違う」
「違わない」
「ほな決まりや」
「決まってない」
「おやすみ」
友哉は逃げるように階段を下りていった。
雄一郎はその背中を見送り、小さく首を振った。
部屋へ戻ると、室内は冷え切っていた。
六畳ほどの和室に、机と本棚、布団が一組置いてある。押し入れには着替えよりも資料の箱が多く、枕元にも数冊の専門書が積まれていた。
雄一郎は白衣を脱ぎ、机の上に置いた。
暖房のスイッチを入れたが、温風が出るまで時間がかかった。窓の外では、遠くを走る車の音が途切れ途切れに聞こえていた。
布団に入ってからも、雄一郎は友哉の描いた円について考えていた。
時間を円にする。
荒唐無稽な発想だった。
時間発展を周期的に考える理論は存在する。宇宙そのものが収縮と膨張を繰り返すという考えもある。しかし、個人が保有する情報を、時間の一点から別の一点へ保存することは、それとは違う。
保存された情報は、過去を変えるのか。
過去を変えた瞬間、保存の原因となった未来は消失するのか。
あるいは、未来と過去が同時に存在し、情報だけがその間を循環するのか。
雄一郎は暗闇の中で目を閉じた。
意識とは、脳に蓄積された情報なのか。
人間は、自分という情報をどこまで失えば、自分でなくなるのか。
もし記憶のすべてを保存できたなら、それは生きていることになるのか。
その問いの先には、いつも同じ光景があった。
幼いころ、病室のベッドに横たわっていた母親。
白いシーツ。
乾いた手。
心電図の規則的な音。
最後に呼ばれた自分の名前。
人は死ぬ。
死んだ人間の声は、二度と戻らない。
記憶は、残された者の脳の中で少しずつ形を変え、やがて本物だったのか、作り直されたものなのか、区別できなくなる。
雄一郎にとって研究とは、その不可逆性に抵抗する行為だった。
死にたくないのではない。
失われることが、許せなかった。
友哉の言ったことは、半分だけ正しい。
自分は時間を保存したい。
だが、保存したいのは自分の時間ではなかった。
誰かといた時間だった。
午前三時を過ぎても眠れず、雄一郎は一度起き上がった。
机の電気を点け、ノートを開く。
友哉が描いた円の横に、新しい式を書いた。
情報の発信点をA、受信点をBとする。
AからBへ移動した情報が、別の系を通じてAへ帰還した場合、その情報は同一性を保つことができるか。
鉛筆の先が紙を擦る音だけが、静かな室内に続いた。
窓ガラスが、ごく小さく鳴った。
雄一郎は顔を上げた。
風だと思った。
海沿いでは、夜中に風向きが変わることがある。
再びノートへ目を落とす。
いつの間にか、眠っていた。
*
最初に聞こえたのは、音ではなかった。
腹の底を、巨大なものが通過するような感覚だった。
畳の下から突き上げられ、雄一郎の身体が布団ごと浮いた。
直後、地面の奥で、何かが裂けた。
それは雷鳴より低く、工事現場の爆発よりも近かった。建物全体が内側から殴られたように跳ね、柱が軋み、天井の板が激しく鳴った。
雄一郎は目を開けた。
何が起きているのか理解する前に、二度目の衝撃が来た。
部屋が横へ滑った。
机が倒れ、本棚から本が一斉に飛び出した。電灯が大きく揺れ、白い光が明滅した。机の上にあったカップが壁へ飛び、割れた。
雄一郎は布団から投げ出され、肩を畳に打ちつけた。
起き上がろうとしたが、床そのものが波打っていた。
右へ傾いたかと思うと、次の瞬間には左へ持っていかれる。平衡感覚が失われ、立つことはおろか、四つん這いになることさえできない。
押し入れの戸が外れ、布団の上に倒れた。
窓ガラスが割れた。
冷たい空気が吹き込み、砕けた破片が畳を滑った。
停電した。
暗闇の中で、木材が悲鳴を上げていた。
梁が擦れる音。
釘が引き抜かれる音。
壁の中で何かが崩れ、天井から土埃が降った。
雄一郎は頭を両腕で覆い、畳に身体を押しつけた。
揺れは終わらなかった。
何十秒だったのか分からない。
実際よりもはるかに長く感じられた。
時間が引き延ばされ、ひとつひとつの音が別々に聞こえた。
割れるガラス。
倒れる棚。
遠くから響く金属音。
どこかで破裂した配管の音。
そして建物の奥から聞こえた、友哉の声。
「桐崎!」
雄一郎は顔を上げた。
「大坂!」
叫んだつもりだったが、自分の声が聞こえなかった。
揺れがわずかに弱まる。
雄一郎は壁に手をつき、立ち上がろうとした。足の裏に鋭い痛みが走った。割れたガラスを踏んだらしい。
しかし、痛みを確かめている余裕はなかった。
室内は真っ暗だった。
窓の外にも、いつも見えていた街灯の光がない。神戸の市街地を覆っていた明かりが、一瞬で消えていた。
雄一郎は手探りで眼鏡を探した。
布団の近くに落ちていたが、片方のレンズにひびが入っている。それをかけ、戸口へ向かった。
襖ではなく、廊下へ通じる木製のドアだった。
ノブを回す。
動かなかった。
もう一度、力を込めた。
ノブは回ったが、扉が開かない。
建物が歪み、枠に食い込んでいた。
「大坂!」
雄一郎は扉を叩いた。
「大坂、聞こえるか!」
「聞こえとる!」
廊下の向こうから返事があった。
声が近い。
友哉はすでに部屋を出ていた。
「ドアが開かない!」
「待っとれ!」
友哉が扉の外からノブを引いた。
木が軋む。
しかし扉は動かなかった。
「肩で押せ!」
「押してる!」
「いったん下がれ!」
雄一郎が離れると、外側から強い衝撃が加わった。
どん、という鈍い音がした。
二度、三度。
友哉が身体をぶつけている。
「やめろ、怪我をする!」
「もうしとるわ!」
「何だと!」
「頭打った! けど問題ない!」
その直後、再び大きな揺れが来た。
余震だったのか、最初の揺れの続きだったのか、雄一郎には判断できなかった。
建物が傾き、廊下で何かが倒れた。
「大坂!」
「ここや!」
「離れろ!」
天井から木片が落ちた。
雄一郎の肩をかすめ、畳へ突き刺さる。
室内に土と木の匂いが充満した。
揺れが収まると、外で友哉が咳き込んだ。
「階段は」
雄一郎は尋ねた。
「途中まで見た。下りられそうや。玄関のほうは、よう分からん」
「他に人は」
「おらん。たぶん俺らだけや」
「窓から出られるかもしれない」
「二階やぞ」
「下に屋根がある」
「暗くて距離が分からん。待て。道具、探してくる」
「大坂」
「すぐ戻る!」
足音が遠ざかった。
雄一郎はドアに耳を当てた。
廊下の向こうで、何かを引きずる音がする。
自分も部屋の内側から、扉の周辺を調べた。蝶番は廊下側にある。蹴破るには厚すぎた。
机の脚を外そうとしたが、金具が曲がって動かなかった。
窓へ近づく。
割れたガラスの向こうから、夜明け前の冷気が入ってきた。
外は暗い。
しかし完全な闇ではなかった。
遠くの空が、薄く赤く染まっていた。
朝焼けではない。
低い位置から、不規則に明滅している。
火だった。
市街地のどこかで火災が起きている。
耳を澄ませると、複数の警報音が聞こえた。非常ベル、車のクラクション、遠くから響く人の叫び声。
海の方向から、焦げたような匂いが流れてきた。
「桐崎!」
友哉の声が戻ってきた。
「バールがあった!」
「どこに」
「倉庫や!」
鉄の先端が、扉と枠の隙間に差し込まれた。
「離れろ!」
友哉が体重をかける。
扉が軋んだ。
一センチほど動いたが、すぐに戻った。
「もう一回や!」
「無理をするな!」
「黙っとれ!」
金属が木を削る音が続いた。
友哉の荒い息遣いが聞こえる。
「大坂、階段が使えるうちに外へ出ろ」
「何言うとんねん」
「建物がもたない」
「分かっとる」
「なら先に避難しろ。外から人を呼べ」
「呼んどる間に潰れたらどうすんねん」
「二人とも潰れるよりましだ」
「お前だけ潰れるんはええんか」
「そういう意味じゃない」
「ほな黙れ!」
バールの先が、再び扉に食い込んだ。
「こういうときだけ合理的なこと言うな。普段は何日も寝んと、訳の分からん式ばっかり追いかけるくせに!」
「研究とこれは違う!」
「一緒や!」
「何がだ!」
「お前は、俺が助ける!」
友哉の声が、扉一枚を隔てた向こうから響いた。
「それで終わりや! 理由なんか要らん!」
雄一郎は答えられなかった。
扉の向こうで、友哉が息を整えていた。
「なあ、桐崎」
「……なんだ」
「今、何時や」
雄一郎は腕時計を見た。
ガラスにひびが入り、針は五時四十七分を指したまま止まっていた。
「分からない。時計が止まった」
「俺のもや」
「そうか」
「時間、止まることあるんやな」
「時計が壊れただけだ」
「分かっとるわ」
友哉は短く笑った。
「けど、今の式に使えるやろ」
「使えない」
「冷たいなあ」
会話が途切れた。
その静けさの中で、雄一郎は別の音に気づいた。
ぱち、ぱち、と乾いた音。
雨音に似ていた。
しかし、雨ではない。
何かが燃える音だった。
「大坂」
「分かっとる」
「どこだ」
「下やと思う」
廊下の空気が変わった。
扉の隙間から、黒い煙が細く入り込んできた。
古い木材と、溶けた樹脂の匂い。
雄一郎は咳き込み、袖で口を覆った。
「火元を見てこい」
「お前を出してからや」
「馬鹿を言うな! 火を確認しろ!」
友哉の足音が遠ざかった。
数十秒後、戻ってきたときには、声に余裕がなかった。
「一階の奥が燃えとる。厨房か、配電盤か分からん。階段にも煙が来とる」
「窓から出ろ」
「お前もな」
「だから、ここは開かない!」
「開ける!」
友哉はバールを差し直した。
力をかけるたび、扉の枠が砕けていく。
だが同時に、火の音も近づいていた。
廊下の向こうで、ガラスが割れた。
空気が流れ込んだのか、火が唸り声を上げる。
煙が一気に濃くなった。
「大坂!」
「下がっとれ!」
扉の下から、灰が入り込んだ。
部屋の床を黒い煙が這う。
雄一郎は窓を大きく開けようとしたが、歪んだサッシが途中で止まった。残ったガラスを椅子で叩き割る。
外気が入り込み、煙が窓のほうへ流れた。
しかし、その空気が廊下の火を育てた。
炎の音が大きくなる。
「明日香さんは」
雄一郎は、扉の向こうへ呼びかけた。
「今それ聞くか!」
「春に結婚するんだろう」
「する!」
「なら出ろ!」
「お前も式に呼ぶ!」
「行かない!」
「来い!」
「断る!」
「ほな、祝儀だけ寄越せ!」
「自分で生きて取りに来い!」
「そのつもりや!」
友哉が吠えるように答えた。
金属音が響く。
扉が数センチ開いた。
隙間から煙が噴き込んでくる。
その向こうに友哉の顔が見えた。
額から血を流し、目を細めている。シャツの袖で鼻と口を覆っていた。
「桐崎、見えるか!」
「見える!」
「もう少しや!」
友哉がバールを差し込み、身体ごと下へ押した。
木枠が裂けた。
だが、扉の上部がまだ引っかかっている。
「蝶番の側だ!」
「分かっとる!」
廊下の天井に火が回った。
友哉の背後が橙色に照らされた。
「大坂、上だ!」
友哉が振り返る。
燃えた天井板が落ちてきた。
友哉は横へ跳んだ。板は肩をかすめ、廊下に落ちた。
火の粉が散る。
友哉のシャツの背中に燃え移った。
「火が!」
友哉は床に転がった。
雄一郎は隙間から腕を伸ばしたが、届かない。
「脱げ! 上着を脱げ!」
友哉は転がりながらシャツを引き裂いた。
火は一度消えた。
だが、廊下の温度は急激に上がっていた。
壁の木材から、細い炎が立ち始めている。
「もういい!」
雄一郎は叫んだ。
「窓から逃げろ!」
「あと一回や!」
「やめろ!」
「あと一回!」
友哉はバールを拾った。
両手の皮膚が赤くなっている。金属が熱を持っているのだろう。
それでも握り直し、扉の上部へ差し込んだ。
「いくで!」
雄一郎は内側から扉を引いた。
友哉が外側から、バールを押し下げる。
木枠が鳴った。
一度。
二度。
三度目で、梁の一部が砕けた。
扉が大きく動いた。
雄一郎は隙間に肩を入れ、全身で押した。
蝶番が外れる。
扉が廊下側へ倒れた。
開いた。
「大坂!」
雄一郎は煙の中へ出た。
すぐ目の前に、友哉が立っていた。
バールを握り、背を向けている。
「開いたぞ!」
呼びかけた瞬間、廊下の奥で炎が爆ぜた。
熱風が吹き抜けた。
友哉の身体が炎に包まれた。
一瞬だった。
髪が燃え、破れたシャツに火が走った。
友哉は声を上げなかった。
振り返ろうとして、膝から崩れた。
「大坂!」
雄一郎は友哉へ飛びついた。
自分の上着を脱ぎ、燃えている背中へ叩きつける。炎は消えず、袖へ移った。
雄一郎は上着ごと友哉の身体を包み、床へ押し倒した。
二人で転がった。
熱が皮膚を刺した。
髪の焼ける匂いと、肉の焦げる匂いがした。
雄一郎は叫びながら、何度も上着を叩いた。
ようやく炎が消えたとき、友哉は動かなくなっていた。
「大坂」
返事はない。
「大坂、聞こえるか」
雄一郎は友哉の頬を叩いた。
皮膚が熱い。
呼吸は浅く、喉の奥から、かすかな音がしている。
「起きろ」
友哉の瞼は開かなかった。
「おい、起きろ!」
炎が廊下を塞ぎ始めていた。
階段の方向は黒煙に覆われている。天井から燃えた破片が次々に落ちてくる。
雄一郎は友哉の腕を自分の肩へ回した。
引きずろうとしたが、力が入らない。
熱と煙で視界が歪んでいた。
肺が焼けるように痛む。
それでも、友哉を置いていくという選択肢はなかった。
雄一郎は友哉の前にしゃがみ、背中へ担ぎ上げた。
重かった。
力の抜けた人間の身体は、起きているときよりはるかに重い。
友哉の腕が肩からずり落ちる。
雄一郎は手首を握り直し、一歩進んだ。
畳敷きの廊下が燃えていた。
足の裏に熱が伝わる。
階段の手前で梁が落ち、道を塞いでいた。
雄一郎は向きを変えた。
共同研究室の先に、非常用の外階段がある。普段は錆びつき、ほとんど使われていない。
そこまで行けるか分からない。
だが他に道はなかった。
雄一郎は一歩ずつ進んだ。
煙の下を通るため、身体を低くする。
友哉の重さで膝が折れそうになる。
「大坂」
雄一郎は歩きながら呼びかけた。
「春に結婚するんだろう」
返事はない。
「明日香さんに電話するんだろう」
友哉の腕が揺れる。
「六時に起こせと言ったじゃないか」
燃えた壁が崩れた。
雄一郎は友哉を庇い、背中で破片を受けた。
熱が突き抜けた。
皮膚が焼け、思わず膝をつく。
眼鏡が床に落ちた。
視界がぼやけた。
炎と煙と暗闇が、ひとつの赤黒い塊になった。
「起きろ、大坂」
雄一郎は床に手をつき、立ち上がった。
「お前の明日は来ないんじゃなかったのか」
共同研究室の前を通る。
開いた扉の向こうで、二人のノートが燃えていた。
友哉が描いた円も、数式も、積み上げてきた計算結果も、火の中で黒く縮れていく。
紙は情報を保存できない。
人間の記憶も保存できない。
時間はすべてを奪う。
そんな当たり前の事実が、炎の向こうから雄一郎を見ているようだった。
「ふざけるな」
雄一郎は呟いた。
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
友哉を背負い直す。
「勝手に終わらせるな」
外階段の扉へ辿り着いた。
押す。
動かない。
まただった。
建物の歪みで、扉が枠に挟まっている。
雄一郎は肩をぶつけた。
一度。
二度。
扉は開かない。
背後で炎が近づく。
友哉が使っていたバールは、先ほどの廊下に落としたままだ。
雄一郎は友哉を床へ下ろした。
扉のノブを両手で握り、引き、押し、何度も体当たりした。
「開け」
肩に痛みが走る。
「開け!」
木枠が軋む。
「開け!」
三度目の衝撃で、錆びた留め金が外れた。
扉が外側へ開いた。
冷たい空気が流れ込む。
外階段があった。
暗闇の中に、細い鉄の階段が続いている。
雄一郎は友哉を再び背負い、外へ出た。
裸足で鉄板を踏む。
凍えるように冷たかった。
すぐ後ろでは宿舎が燃えていた。窓から炎が噴き出し、屋根の一部が崩れ落ちた。
外階段も歪んでいた。
手すりにつかまり、一段ずつ下りる。
地面が近づく。
しかし一階付近で、階段の接合部が外れていた。最後の数段が傾き、地面との間に隙間がある。
雄一郎は止まった。
友哉を背負ったままでは、飛び降りるしかない。
下には、倒れた柵やガラス片が散乱していた。
「大坂」
雄一郎は、友哉の腕を強く握った。
「少し痛いぞ」
返事はない。
「我慢しろ」
雄一郎は手すりを越えた。
友哉を抱え込むようにして、地面へ飛び降りた。
衝撃で足首が捻れた。
二人は地面に倒れた。
雄一郎の肘と膝が裂けた。
それでも、友哉の頭だけは地面に打ちつけなかった。
宿舎から距離を取らなければならない。
雄一郎は友哉の両脇に腕を入れ、後ろ向きに引きずった。
地面には水が浮いていた。
配管が破裂したのか、それとも海に近い軟らかな地盤から水が噴き出したのか、泥と砂が混じり合い、足を取られた。
周囲の建物から人々が出てきていた。
寝間着のままの者。
毛布を肩にかけた者。
血を流している者。
裸足で立ち尽くしている者。
誰もが何が起きたのか理解できず、暗い空と崩れた建物を交互に見ていた。
「人がいる!」
雄一郎は叫んだ。
「誰か! 救急車を!」
近くにいた男が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!」
「友人が、火傷を」
声が続かなかった。
咳き込む。
黒い痰が口から出た。
「呼吸がある! 毛布を持ってきて!」
別の誰かが叫んだ。
友哉の身体が地面に寝かされる。
女性が上着を脱ぎ、友哉の頭の下へ敷いた。
「救急車は」
「電話がつながらへん!」
「消防署へ走ってる人がおる!」
「道路が割れとる!」
「水をかけたらあかん、布を!」
声が入り乱れた。
雄一郎は友哉のそばに座り込んだ。
自分の手が震えていた。
皮膚が赤く腫れ、水疱ができている。顔の右側が熱を持ち、感覚が鈍かった。
しかし痛みは遠かった。
友哉の胸だけを見ていた。
わずかに上下している。
生きている。
まだ、生きている。
「大坂」
雄一郎は友哉の手を握った。
指の皮膚が焼け、ところどころ剥がれていた。
あのバールを握り続けた手だった。
「聞こえるか」
返事はない。
空が少しずつ明るくなっていった。
夜明けが来ていた。
だが、朝の光は街を救わなかった。
明るくなるほど、被害の全体が見えてきた。
傾いた建物。
道路へ倒れた塀。
折れ曲がった電柱。
地面を覆う泥と砂。
遠くの市街地から立ち上る、いくつもの煙。
六甲の山並みの下で、神戸が燃えていた。
いつもなら車の音が聞こえる時間だった。
港へ向かうトラック。
始発の電車。
新聞配達のバイク。
人々の一日が始まる音。
その朝、聞こえたのは、崩れた家の中から家族を呼ぶ声と、止むことのない警報音だった。
やがて誰かが、小型のトラックを連れてきた。
救急車を待っていては間に合わない。荷台に負傷者を乗せ、診療所まで運ぶという。
友哉は、木の板を代わりにした担架へ乗せられた。
雄一郎も乗るよう促された。
荷台には、他にも負傷者がいた。
額から血を流した老人。
腕を折った少年。
幼い子供を抱く母親。
誰も話さなかった。
トラックが動き出す。
道路は至るところで隆起し、亀裂が走っていた。瓦礫を避けるたび車体が揺れ、その振動で雄一郎の火傷が痛んだ。
友哉の呼吸は、さらに弱くなっていた。
雄一郎は隣に座り、手を握り続けた。
「大坂」
揺れる荷台の上で呼びかける。
「研究はまだ終わってない」
友哉の瞼は閉じたままだ。
「お前が言い出したんだ。時間を円にするって」
道路脇では、人々が瓦礫を素手で掘っていた。
救助を求める声が聞こえる。
火の手が上がっている場所もあった。
だが消防車は来ない。
来られないのだ。
道路が塞がれ、消火栓が壊れ、水が足りない。
それぞれの場所で、それぞれの人間が、自分の手の届く命を助けようとしていた。
「式の名前も決まってない」
雄一郎は続けた。
「勝手に決めたつもりになっていただけだ」
友哉の指が、かすかに動いた気がした。
雄一郎は顔を近づけた。
「大坂?」
反応はなかった。
車の揺れだったのかもしれない。
「聞こえているなら返事をしろ」
声が震えた。
「六時に起こせと言っただろう」
雄一郎は腕時計を見た。
止まったままの針。
五時四十七分。
「もう六時を過ぎている」
友哉の手を握る。
「起きろ」
朝日が、煙の向こうから昇っていた。
赤く濁った光が、破壊された街を照らしている。
「起きろ、友哉」
雄一郎が彼を名前で呼んだのは、そのときが初めてだった。
*
友哉は病院へ搬送された。
正確には、最初に運ばれた診療所では処置ができず、さらに別の病院へ移された。院内は負傷者で溢れ、廊下にも玄関にも人が横たわっていた。
医師も看護師も休むことなく動いていた。
誰もが誰かの名前を呼んでいた。
雄一郎自身も、顔、背中、両腕、足に広範囲の火傷を負っていた。煙を吸い込み、右足首を痛め、足の裏には複数のガラス片が刺さっていた。
治療を受けながらも、雄一郎は友哉の行方を尋ね続けた。
何度目かの問いに、看護師が答えた。
大坂友哉は生きている。
ただし意識がない。
気道に深刻な熱傷があり、全身の火傷も重い。
予断を許さない。
雄一郎は、処置台の上で目を閉じた。
生きている。
それだけを繰り返した。
生きているなら、まだ時間はある。
時間があるなら、情報は失われていない。
友哉の記憶も、声も、明日香という名前を呼ぶときの表情も、いびつな円を描いた指先の動きも、脳のどこかに残っている。
戻る可能性はある。
そう信じた。
信じる以外になかった。
雄一郎の入院は二か月に及んだ。
友哉の意識は戻らなかった。
病室を訪れるたび、彼は機械につながれていた。
呼吸を補助する装置。
心拍を示すモニター。
規則的に落ちる点滴。
友哉の身体が、まだこの世界の時間に接続されていることを示す、いくつもの線。
片岡明日香は、毎日、ベッドのそばに座っていた。
誕生日に渡されるはずだったマフラーを、友哉の私物の中から見つけたという。
包装もされていなかった。
値札も付いたままだった。
「大坂さんらしいですね」
雄一郎が言うと、明日香は泣きながら笑った。
「ほんまに、最後までしょうもない人」
それから彼女は、眠る友哉の手を握った。
「春に結婚するって、決めてたらしいです」
雄一郎は言った。
明日香は、驚いたように顔を上げた。
「聞いてない」
「私も、あの夜に初めて聞きました」
「勝手な人」
「はい」
「何でも勝手に決めて」
「はい」
「勝手に人を助けて」
明日香は言葉を詰まらせた。
「勝手に、戻ってこない」
雄一郎は答えられなかった。
病室の窓の外には、冬の神戸が広がっていた。
あちこちから煙が上がり、道路には救援車両が行き交っている。街は少しずつ動き始めていたが、その下には、失われた無数の時間が埋まっていた。
友哉はその後も目を覚まさなかった。
心臓は動き続けた。
呼吸は機械に支えられた。
しかし意識だけが、どこにも戻ってこなかった。
雄一郎は何度も考えた。
友哉の意識は消えたのか。
それとも、脳の中に残っているのか。
呼びかける声を認識しながら、身体へ命令を送れないだけなのか。
現在という地点から切り離され、過去のどこかを漂っているのか。
あの朝、扉を開いたとき、友哉は確かにそこにいた。
バールを握り、炎の前に立っていた。
その事実を保存できるものは、雄一郎の記憶しかない。
だが記憶は変わる。
薄れる。
失われる。
友哉が何を言ったのか。
どんな顔をしていたのか。
声の高さ。
手の温度。
時間が経つほど、それらは少しずつ不確かになっていく。
だから雄一郎は、すべてを書いた。
一月十六日の夜に交わした会話。
カップ麺の匂い。
窓の向こうの海。
友哉が描いた円。
五時台で止まった腕時計。
扉を叩く音。
バールが木枠を割る音。
炎の中で倒れた友哉の姿。
何度も書き直した。
ひとつの言葉も失われないように。
ひとつの時間も消えないように。
ノートの最後に、雄一郎は一行だけ記した。
――与えられた情報量Iの上界には、時間的なプロセス率の限界が等価的に存在する。
その下に、境界の名前を書いた。
友哉が冗談のように口にした名前だった。
『ベッケンシュタイン境界』
雄一郎はしばらく、その文字を見つめていた。
やがて、さらに一行を書き加えた。
――時間の限界が存在するなら、その境界を越える方法もまた、必ず存在する。
病室の機械音が、一定の間隔で鳴っていた。
友哉の時間を刻む音だった。
雄一郎はベッドのそばに椅子を置き、眠る友人へ向かって静かに言った。
「お前を、ここには置いていかない」
返事はなかった。
「時間が一方向にしか進まないというなら、その向きを変える」
モニターの線が上下する。
「情報が失われるというなら、失われる前に保存する」
友哉の閉じた瞼は動かない。
「世界に限界があるというなら、その限界を見つける」
雄一郎は、包帯に覆われた自分の手を見た。
その手に、まだ友哉の重さが残っていた。
炎の中で背負った身体。
肩から落ちかけた腕。
焼けた指。
助けられたのは、自分だった。
扉を開いたのは友哉だった。
ならば次は、自分が扉を開かなければならない。
それがどれほど厚くても。
世界そのものが歪み、開かなくなっていたとしても。
「待っていろ、友哉」
雄一郎は言った。
「必ず、迎えに行く」
その日から、桐崎雄一郎は大学の自室に籠もるようになった。
机の上には、一冊の焦げたノートが置かれていた。
表紙の半分は焼け落ち、ページの端は黒く炭化している。
震災の数日後、宿舎の焼け跡から見つかったものだった。
開くことのできた最後のページには、友哉が描いた、いびつな円が残っていた。
円の上には、二つの点がある。
ひとつはA。
もうひとつはB。
二点の間を結ぶ線の横に、友哉の字で、短い言葉が書かれていた。
――帰ってこられる経路。
雄一郎はそのページを透明な袋に入れ、机の正面に置いた。
朝も、夜も、研究を続けた。
世界中から論文を集めた。
時間とエネルギー。
情報と重力。
熱力学と量子力学。
脳と意識。
記憶の保存。
有限の空間に蓄積できる情報量の限界。
計算の途中で眠り、目を覚ますと、また数式を書いた。
食事を忘れた。
季節の移り変わりにも気づかなかった。
窓の外では、壊れた神戸の街が再建されていった。
道路が直り、建物が建ち、電車が走り始める。
失われたものを抱えながら、人々は生活を取り戻していった。
しかし雄一郎だけは、あの朝から動かなかった。
正確には、動くことを拒んでいた。
一九九五年一月十七日。
午前五時四十六分。
世界の時間が一方向に進み続けても、雄一郎の一部は、あの燃える廊下に残っていた。
開かない扉の内側。
友人がバールを握っている。
炎が迫っている。
時間がなくなる。
何度思い返しても、出来事の順番は変わらない。
友哉が扉を開ける。
火に包まれる。
倒れる。
意識を失う。
未来は、その結末から逃れられない。
だから雄一郎は、未来を変えようとは考えなかった。
変えるべきなのは、過去だった。
いつの日か、彼は情報を時間の中へ送り込む。
記憶を、数式を、警告を。
地震が起きる前の自分へ。
友哉がバールを握るより前へ。
扉が歪むより前へ。
炎が上がるより前へ。
五分だけでいい。
たった五分、早く知ることができればいい。
午前五時四十一分二十二秒。
その時刻に、自分の記憶を届ける。
友哉を起こす。
宿舎を出る。
外へ行く。
二人で、生き残る。
その計画が世界に何をもたらすのか、このときの雄一郎はまだ知らなかった。
ひとりの人間を救うために過去へ送られた情報が、無数の世界を生み出すことも。
本来は存在しなかった命が誕生することも。
時間の境界に、ひとりの少女が立つことも。
何も知らなかった。
ただ、机の前で数式を書き続けた。
友哉が描いた円を見ながら。
帰ってこられる経路を、探しながら。




