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あの海が見える街の丘で  作者: 平木明日香
第一章 ベッケンシュタイン境界
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一九九五年一月十七日



 一九九五年一月十六日の夜、神戸の海は黒かった。


 大学宿舎の二階、そのいちばん奥にある共同研究室の窓からは、港島の倉庫群と、海沿いに並ぶ街灯の明かりが見えた。風のない夜だった。岸壁の照明が、墨を流したような海面に細長く映り、貨物船の汽笛が鳴るたび、窓ガラスがかすかに震えた。


 共同研究室と呼ばれてはいたが、実際には使われなくなった談話室を、桐崎雄一郎と大坂友哉が半ば勝手に占拠しているだけだった。


 壁際には型の古いコンピューターが二台並び、机の上を、大学ノートや数式を書き込んだレポート用紙、コーヒーの空き瓶、読みかけの専門書が埋め尽くしていた。中古のプリンターは、一枚印刷するたびに苦しそうな音を立てる。床には穴を開けた連続用紙が蛇腹状に積み上がり、その上に友哉の紺色のセーターが無造作に投げ置かれていた。


 暖房は入っていたが、窓枠から冷気が入り込んでいた。


 雄一郎は、セーターの上に薄い白衣を羽織り、椅子の背にもたれたまま天井を見上げていた。眼鏡の奥にある目は赤く、顎には朝から剃っていない髭がうっすらと残っている。


 机の上のノートには、何度も書き直された同じ式が並んでいた。


 情報量。


 エネルギー。


 時間。


 その三つを結ぶ不等式。


 雄一郎は鉛筆を指先で回し、やがて小さく息を吐いた。


「やっぱり、おかしい」


 向かいの机でカップ麺を食べていた友哉が、顔を上げた。


「お前がそう言うときは、だいたい式やなくて世界のほうがおかしいことになっとるな」


「茶化すな」


「茶化してへん。長い付き合いから得た統計的な事実や」


 友哉は箸をくわえたまま、雄一郎のノートを覗き込んだ。


 今年で三十二歳になる友哉は、雄一郎より一つ年下だった。肩幅が広く、研究者というより、町工場の機械工に見えることがあった。髪はいつも少し跳ねており、白衣の袖にはボールペンの青い染みが付いていた。


 精密さを好む雄一郎とは対照的に、友哉の机は乱雑だった。計算用紙の余白には漫画のような似顔絵が描かれ、重要な数式の隣に「牛乳」「歯磨き粉」「明日香に電話」といった忘備書きが並んでいる。


 しかし、乱雑なのは見た目だけだった。


 友哉は一度見た数字をほとんど忘れず、複雑な計算の誤りを直感的に見つけ出すことができた。雄一郎が理論の骨格を作り、友哉がそれを現実の物理へ引き戻す。その関係は、大学院時代から変わっていない。


「境界の式は成立する」


 雄一郎は言った。


「有限の空間に、有限のエネルギーしか存在しないなら、そこに保存できる情報量にも上限がある。当たり前だ。だが問題は、情報を保存するために必要な時間だ。情報量の上界だけを定めても、プロセスに要する時間を切り離したら、物理的な意味がなくなる」


 友哉は麺をすすりながら頷いた。


「倉庫の大きさだけ測って、荷物を運び込む速度は考えへん、みたいな話か」


「乱暴に言えばな」


「ほな、運搬時間にも限界がある」


「時間に限界があるというより、与えられた情報量に対して、時間的なプロセス率の限界が等価的に存在する」


 友哉はしばらく黙った。


 それから箸を置き、雄一郎のノートを自分のほうへ引き寄せた。


「ここや」


 友哉は、数式の一部を指で叩いた。


「情報を一方向に送る前提になっとる。時間を一本の直線として扱うから、途中で破綻するんちゃうか」


「時間は一方向に進む」


「熱力学的にはな」


「それ以外に、どう扱う」


「輪っかにしたらええ」


「何を言ってる」


「せやから、時間を円にするんや」


 友哉はノートの余白に円を描いた。


 几帳面な雄一郎には耐えがたいほど、いびつな円だった。


「ここが現在。こっちが未来で、反対側が過去。情報が一周して、また現在に戻ってくる。そうしたら保存に使う時間は、単純な長さやなくなる」


「戻ってきた時点で、それは同一の情報じゃない」


「なんでや」


「通過した系との相互作用を受ける。情報が完全に保存されるなら、時間発展そのものが否定される」


「けど、お前が探しとるのは、その否定の方法やろ」


 雄一郎は口を閉じた。


 友哉は、時々そういうことを言った。


 雄一郎が何日もかけて積み上げた論理の、その中心にある欲望だけを、簡単に見抜いてしまう。


「お前は、情報が時間の中に保存できるかを調べたいんやない」


 友哉は言った。


「本当は、時間のほうを保存したいんやろ」


「意味が分からない」


「分かっとるくせに」


 友哉はカップの底に残った麺をすすり、空になった容器を丸めた。


「桐崎。お前、自分が死ぬの、怖いやろ」


 雄一郎は眉をひそめた。


「研究に関係のない話をするな」


「俺は怖いで」


 友哉は明るい声で言った。


「めちゃくちゃ怖い。死んだら明日香にも会えへんし、旨いもんも食えへん。阪神が優勝するところも見られへんかもしれん」


「それは当分見られないだろう」


「なんやと」


「事実を言っただけだ」


「科学者のくせに未来を断定するな」


 友哉は丸めたカップ麺の容器を雄一郎に投げた。雄一郎は片手で払い落とした。


 容器は床に転がり、書類の山にぶつかって止まった。


「片付けろ」


「明日やる」


「お前の明日は永遠に来ない」


「ほら。時間は保存されとる」


「詭弁だ」


 そう言いながら、雄一郎の口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。


 二人が知り合ったのは十年前だった。


 大学院の入学試験を終えた夜、構内の自動販売機の前で、友哉が雄一郎に百円を借りた。それが最初の会話だった。


 友哉は財布を研究室に忘れたと言ったが、実際には財布そのものを下宿に置いてきていた。翌日、返すはずだった百円をまた忘れ、その次の日には代わりに缶コーヒーを二本買ってきた。


 雄一郎は甘いコーヒーが嫌いだった。


 友哉が買ってきたのは、どちらも砂糖とミルクの入ったものだった。


 雄一郎は文句を言いながら飲み、それ以来、徹夜の夜には、二人分の缶コーヒーを買うようになった。


 性格は合わなかった。


 雄一郎は、食事の時間も、睡眠時間も、研究の進捗も、あらかじめ決めておきたい人間だった。ノートの日付は一日も欠かさず、使い終えた資料は分野別、著者別に分類していた。


 友哉は約束の時間に遅れ、資料をなくし、計算途中の紙の裏で電話番号をメモした。


 ただし、雄一郎が本当に困っているときだけは、一度も遅れなかった。


 大学院二年目の冬、雄一郎が高熱を出したとき、友哉は夜中に下宿へ来た。額に冷却シートを貼り、鍋で粥を作った。米を洗わずに煮込んだため、粥は糊のようになっていた。


 雄一郎は一口食べて、まずいと言った。


 友哉は「食えるだけありがたいと思え」と言い返した。


 結局、二人で深夜の救急外来へ行った。


 友哉の父親が倒れたときには、雄一郎が研究発表を代わった。友哉の発表用原稿はほとんど完成しておらず、渡されたのは乱雑なグラフと、数行のメモだけだった。


 雄一郎は徹夜で内容をまとめ、翌朝、何事もなかったように壇上に立った。


 友哉が戻ってきたのは三日後だった。


 土産として渡されたのは、病院の売店で売っていた饅頭だった。


 雄一郎は礼を求めなかったし、友哉も言わなかった。


 二人にとって、相手を助けることは、特別な出来事ではなかった。


 計算結果を確認することや、帰りに牛乳を買うことと同じだった。


 必要だからする。


 ただ、それだけのことだった。


「今日はもう終わりにせえへんか」


 友哉が言った。


 壁の時計は、午前一時四十分を指していた。


「まだ計算が残ってる」


「明日もある」


「さっき、明日は永遠に来ないと言ったのはお前だ」


「俺の明日は来んけど、お前の明日は来る」


「意味が分からない」


「天才の言葉は理解されにくいんや」


 友哉は立ち上がり、窓の近くへ行った。


 カーテンを開けると、冷気がいっそう強くなった。海の向こうに、神戸の市街地の光が広がっていた。山の斜面には家々の明かりが点在し、その上に、暗い六甲の稜線が横たわっている。


「明日香から電話があってな」


 友哉は窓の外を見たまま言った。


「またか」


「またって言うな」


「昨日もあっただろう」


「昨日は怒られた。今日は、まだ怒っとるか確認の電話や」


「何をした」


「誕生日を忘れた」


「最低だな」


「ちゃうねん。日付を忘れたんやない。曜日を間違えたんや」


「同じことだ」


「プレゼントは買うてある」


「何を買った」


「マフラー」


「一月に渡すには遅い」


「誕生日、十二月やからな」


 雄一郎は眼鏡を外し、眉間を押さえた。


「よく婚約を解消されないな」


「俺もそう思う」


 友哉は笑った。


 片岡明日香とは、友哉が高校生のころから付き合っていた。


 一度は別れ、大学時代に再会し、その後また付き合い始めたという。友哉は彼女について話すときだけ、普段より少し早口になる。


 結婚は、研究が一段落してから。


 それが友哉の口癖だった。


 けれど研究が一段落したことなど、一度もなかった。


「春には籍を入れる」


 友哉が言った。


 その口調がいつもより真剣だったため、雄一郎は顔を上げた。


「決めたのか」


「決めた。もう延ばさん」


「明日香さんには話したのか」


「まだや」


「それは決めたとは言わない」


「指輪も買う」


「金はあるのか」


「ない」


「どうする」


「お前に借りる」


「断る」


「冷たいなあ」


「今まで貸した金を返してから言え」


「全部覚えとるんか」


「記録している」


「友人間の借金を帳簿につける人間は嫌われるで」


「返さない人間よりはましだ」


 友哉は声を立てて笑った。


 宿舎は古かった。


 港島の再開発に合わせて建てられた施設ではなく、それ以前から別の場所で使われていた木造建築を、改修しながら研究者用の宿泊所として残していると聞いていた。


 廊下を歩くと床が沈み、冬になると窓の隙間から風が入った。暖房を最大にしても室温はなかなか上がらず、風呂の給湯設備は時々止まった。


 だが大学から近く、宿泊費が安い。


 徹夜の多い二人にとっては、それで十分だった。


 雄一郎の部屋は二階の突き当たりにあった。友哉の部屋は階段に近い反対側で、間に四つの空室を挟んでいる。


 宿泊者は二人だけだった。


 連休明けで、他の研究員たちは自宅へ戻っていた。管理人も夜間は常駐していない。


「明日の朝、六時に起こしてくれ」


 友哉が言った。


「自分で起きろ」


「目覚まし、壊れた」


「この前買っただろう」


「壊した」


「どうやって」


「止めようとして投げた」


「なぜ投げる」


「眠かったからや」


「知らん」


「明日の朝、明日香に電話する約束なんや。七時前には起きとかなあかん」


「自分で起きろ」


「六時やで」


「断る」


「五時五十分でもええ」


「悪化してる」


 雄一郎はそう言ったが、机の端に置いた腕時計のアラームを五時五十分に合わせた。


 友哉はそれを見ていたが、何も言わなかった。


 午前二時を過ぎるころ、二人は研究室を出た。


 廊下の電灯は半分が切れていた。友哉が先を歩き、雄一郎が照明を消して回った。


「なあ、桐崎」


 階段の前で友哉が振り返った。


「なんだ」


「さっきの式、名前つけようや」


「まだ証明できていない」


「証明できてからやと、誰かに先を越される」


「名前をつけても先取権にはならない」


「分かっとる。けど、名前があったほうが愛着が湧くやろ」


 雄一郎は少し考えた。


「情報境界」


「硬い」


「時間情報上界」


「もっと硬い」


「なら、お前が考えろ」


 友哉は唸りながら天井を見た。


「ベッケンシュタイン境界」


「そのままじゃないか」


「ちゃう。俺らのは、ベッケンシュタインのやつを時間に拡張した境界や。せやから、ちょっとだけ名前を変える」


「どう変える」


「ベッケンシュタイン境界」


「変わってない」


「よく聞け。ベッケンシュタインやなくて、ベッケンシュタイン」


「同じだ」


「発音が違う」


「違わない」


「ほな決まりや」


「決まってない」


「おやすみ」


 友哉は逃げるように階段を下りていった。


 雄一郎はその背中を見送り、小さく首を振った。


 部屋へ戻ると、室内は冷え切っていた。


 六畳ほどの和室に、机と本棚、布団が一組置いてある。押し入れには着替えよりも資料の箱が多く、枕元にも数冊の専門書が積まれていた。


 雄一郎は白衣を脱ぎ、机の上に置いた。


 暖房のスイッチを入れたが、温風が出るまで時間がかかった。窓の外では、遠くを走る車の音が途切れ途切れに聞こえていた。


 布団に入ってからも、雄一郎は友哉の描いた円について考えていた。


 時間を円にする。


 荒唐無稽な発想だった。


 時間発展を周期的に考える理論は存在する。宇宙そのものが収縮と膨張を繰り返すという考えもある。しかし、個人が保有する情報を、時間の一点から別の一点へ保存することは、それとは違う。


 保存された情報は、過去を変えるのか。


 過去を変えた瞬間、保存の原因となった未来は消失するのか。


 あるいは、未来と過去が同時に存在し、情報だけがその間を循環するのか。


 雄一郎は暗闇の中で目を閉じた。


 意識とは、脳に蓄積された情報なのか。


 人間は、自分という情報をどこまで失えば、自分でなくなるのか。


 もし記憶のすべてを保存できたなら、それは生きていることになるのか。


 その問いの先には、いつも同じ光景があった。


 幼いころ、病室のベッドに横たわっていた母親。


 白いシーツ。


 乾いた手。


 心電図の規則的な音。


 最後に呼ばれた自分の名前。


 人は死ぬ。


 死んだ人間の声は、二度と戻らない。


 記憶は、残された者の脳の中で少しずつ形を変え、やがて本物だったのか、作り直されたものなのか、区別できなくなる。


 雄一郎にとって研究とは、その不可逆性に抵抗する行為だった。


 死にたくないのではない。


 失われることが、許せなかった。


 友哉の言ったことは、半分だけ正しい。


 自分は時間を保存したい。


 だが、保存したいのは自分の時間ではなかった。


 誰かといた時間だった。


 午前三時を過ぎても眠れず、雄一郎は一度起き上がった。


 机の電気を点け、ノートを開く。


 友哉が描いた円の横に、新しい式を書いた。


 情報の発信点をA、受信点をBとする。


 AからBへ移動した情報が、別の系を通じてAへ帰還した場合、その情報は同一性を保つことができるか。


 鉛筆の先が紙を擦る音だけが、静かな室内に続いた。


 窓ガラスが、ごく小さく鳴った。


 雄一郎は顔を上げた。


 風だと思った。


 海沿いでは、夜中に風向きが変わることがある。


 再びノートへ目を落とす。


 いつの間にか、眠っていた。


     *


 最初に聞こえたのは、音ではなかった。


 腹の底を、巨大なものが通過するような感覚だった。


 畳の下から突き上げられ、雄一郎の身体が布団ごと浮いた。


 直後、地面の奥で、何かが裂けた。


 それは雷鳴より低く、工事現場の爆発よりも近かった。建物全体が内側から殴られたように跳ね、柱が軋み、天井の板が激しく鳴った。


 雄一郎は目を開けた。


 何が起きているのか理解する前に、二度目の衝撃が来た。


 部屋が横へ滑った。


 机が倒れ、本棚から本が一斉に飛び出した。電灯が大きく揺れ、白い光が明滅した。机の上にあったカップが壁へ飛び、割れた。


 雄一郎は布団から投げ出され、肩を畳に打ちつけた。


 起き上がろうとしたが、床そのものが波打っていた。


 右へ傾いたかと思うと、次の瞬間には左へ持っていかれる。平衡感覚が失われ、立つことはおろか、四つん這いになることさえできない。


 押し入れの戸が外れ、布団の上に倒れた。


 窓ガラスが割れた。


 冷たい空気が吹き込み、砕けた破片が畳を滑った。


 停電した。


 暗闇の中で、木材が悲鳴を上げていた。


 梁が擦れる音。


 釘が引き抜かれる音。


 壁の中で何かが崩れ、天井から土埃が降った。


 雄一郎は頭を両腕で覆い、畳に身体を押しつけた。


 揺れは終わらなかった。


 何十秒だったのか分からない。


 実際よりもはるかに長く感じられた。


 時間が引き延ばされ、ひとつひとつの音が別々に聞こえた。


 割れるガラス。


 倒れる棚。


 遠くから響く金属音。


 どこかで破裂した配管の音。


 そして建物の奥から聞こえた、友哉の声。


「桐崎!」


 雄一郎は顔を上げた。


「大坂!」


 叫んだつもりだったが、自分の声が聞こえなかった。


 揺れがわずかに弱まる。


 雄一郎は壁に手をつき、立ち上がろうとした。足の裏に鋭い痛みが走った。割れたガラスを踏んだらしい。


 しかし、痛みを確かめている余裕はなかった。


 室内は真っ暗だった。


 窓の外にも、いつも見えていた街灯の光がない。神戸の市街地を覆っていた明かりが、一瞬で消えていた。


 雄一郎は手探りで眼鏡を探した。


 布団の近くに落ちていたが、片方のレンズにひびが入っている。それをかけ、戸口へ向かった。


 襖ではなく、廊下へ通じる木製のドアだった。


 ノブを回す。


 動かなかった。


 もう一度、力を込めた。


 ノブは回ったが、扉が開かない。


 建物が歪み、枠に食い込んでいた。


「大坂!」


 雄一郎は扉を叩いた。


「大坂、聞こえるか!」


「聞こえとる!」


 廊下の向こうから返事があった。


 声が近い。


 友哉はすでに部屋を出ていた。


「ドアが開かない!」


「待っとれ!」


 友哉が扉の外からノブを引いた。


 木が軋む。


 しかし扉は動かなかった。


「肩で押せ!」


「押してる!」


「いったん下がれ!」


 雄一郎が離れると、外側から強い衝撃が加わった。


 どん、という鈍い音がした。


 二度、三度。


 友哉が身体をぶつけている。


「やめろ、怪我をする!」


「もうしとるわ!」


「何だと!」


「頭打った! けど問題ない!」


 その直後、再び大きな揺れが来た。


 余震だったのか、最初の揺れの続きだったのか、雄一郎には判断できなかった。


 建物が傾き、廊下で何かが倒れた。


「大坂!」


「ここや!」


「離れろ!」


 天井から木片が落ちた。


 雄一郎の肩をかすめ、畳へ突き刺さる。


 室内に土と木の匂いが充満した。


 揺れが収まると、外で友哉が咳き込んだ。


「階段は」


 雄一郎は尋ねた。


「途中まで見た。下りられそうや。玄関のほうは、よう分からん」


「他に人は」


「おらん。たぶん俺らだけや」


「窓から出られるかもしれない」


「二階やぞ」


「下に屋根がある」


「暗くて距離が分からん。待て。道具、探してくる」


「大坂」


「すぐ戻る!」


 足音が遠ざかった。


 雄一郎はドアに耳を当てた。


 廊下の向こうで、何かを引きずる音がする。


 自分も部屋の内側から、扉の周辺を調べた。蝶番は廊下側にある。蹴破るには厚すぎた。


 机の脚を外そうとしたが、金具が曲がって動かなかった。


 窓へ近づく。


 割れたガラスの向こうから、夜明け前の冷気が入ってきた。


 外は暗い。


 しかし完全な闇ではなかった。


 遠くの空が、薄く赤く染まっていた。


 朝焼けではない。


 低い位置から、不規則に明滅している。


 火だった。


 市街地のどこかで火災が起きている。


 耳を澄ませると、複数の警報音が聞こえた。非常ベル、車のクラクション、遠くから響く人の叫び声。


 海の方向から、焦げたような匂いが流れてきた。


「桐崎!」


 友哉の声が戻ってきた。


「バールがあった!」


「どこに」


「倉庫や!」


 鉄の先端が、扉と枠の隙間に差し込まれた。


「離れろ!」


 友哉が体重をかける。


 扉が軋んだ。


 一センチほど動いたが、すぐに戻った。


「もう一回や!」


「無理をするな!」


「黙っとれ!」


 金属が木を削る音が続いた。


 友哉の荒い息遣いが聞こえる。


「大坂、階段が使えるうちに外へ出ろ」


「何言うとんねん」


「建物がもたない」


「分かっとる」


「なら先に避難しろ。外から人を呼べ」


「呼んどる間に潰れたらどうすんねん」


「二人とも潰れるよりましだ」


「お前だけ潰れるんはええんか」


「そういう意味じゃない」


「ほな黙れ!」


 バールの先が、再び扉に食い込んだ。


「こういうときだけ合理的なこと言うな。普段は何日も寝んと、訳の分からん式ばっかり追いかけるくせに!」


「研究とこれは違う!」


「一緒や!」


「何がだ!」


「お前は、俺が助ける!」


 友哉の声が、扉一枚を隔てた向こうから響いた。


「それで終わりや! 理由なんか要らん!」


 雄一郎は答えられなかった。


 扉の向こうで、友哉が息を整えていた。


「なあ、桐崎」


「……なんだ」


「今、何時や」


 雄一郎は腕時計を見た。


 ガラスにひびが入り、針は五時四十七分を指したまま止まっていた。


「分からない。時計が止まった」


「俺のもや」


「そうか」


「時間、止まることあるんやな」


「時計が壊れただけだ」


「分かっとるわ」


 友哉は短く笑った。


「けど、今の式に使えるやろ」


「使えない」


「冷たいなあ」


 会話が途切れた。


 その静けさの中で、雄一郎は別の音に気づいた。


 ぱち、ぱち、と乾いた音。


 雨音に似ていた。


 しかし、雨ではない。


 何かが燃える音だった。


「大坂」


「分かっとる」


「どこだ」


「下やと思う」


 廊下の空気が変わった。


 扉の隙間から、黒い煙が細く入り込んできた。


 古い木材と、溶けた樹脂の匂い。


 雄一郎は咳き込み、袖で口を覆った。


「火元を見てこい」


「お前を出してからや」


「馬鹿を言うな! 火を確認しろ!」


 友哉の足音が遠ざかった。


 数十秒後、戻ってきたときには、声に余裕がなかった。


「一階の奥が燃えとる。厨房か、配電盤か分からん。階段にも煙が来とる」


「窓から出ろ」


「お前もな」


「だから、ここは開かない!」


「開ける!」


 友哉はバールを差し直した。


 力をかけるたび、扉の枠が砕けていく。


 だが同時に、火の音も近づいていた。


 廊下の向こうで、ガラスが割れた。


 空気が流れ込んだのか、火が唸り声を上げる。


 煙が一気に濃くなった。


「大坂!」


「下がっとれ!」


 扉の下から、灰が入り込んだ。


 部屋の床を黒い煙が這う。


 雄一郎は窓を大きく開けようとしたが、歪んだサッシが途中で止まった。残ったガラスを椅子で叩き割る。


 外気が入り込み、煙が窓のほうへ流れた。


 しかし、その空気が廊下の火を育てた。


 炎の音が大きくなる。


「明日香さんは」


 雄一郎は、扉の向こうへ呼びかけた。


「今それ聞くか!」


「春に結婚するんだろう」


「する!」


「なら出ろ!」


「お前も式に呼ぶ!」


「行かない!」


「来い!」


「断る!」


「ほな、祝儀だけ寄越せ!」


「自分で生きて取りに来い!」


「そのつもりや!」


 友哉が吠えるように答えた。


 金属音が響く。


 扉が数センチ開いた。


 隙間から煙が噴き込んでくる。


 その向こうに友哉の顔が見えた。


 額から血を流し、目を細めている。シャツの袖で鼻と口を覆っていた。


「桐崎、見えるか!」


「見える!」


「もう少しや!」


 友哉がバールを差し込み、身体ごと下へ押した。


 木枠が裂けた。


 だが、扉の上部がまだ引っかかっている。


「蝶番の側だ!」


「分かっとる!」


 廊下の天井に火が回った。


 友哉の背後が橙色に照らされた。


「大坂、上だ!」


 友哉が振り返る。


 燃えた天井板が落ちてきた。


 友哉は横へ跳んだ。板は肩をかすめ、廊下に落ちた。


 火の粉が散る。


 友哉のシャツの背中に燃え移った。


「火が!」


 友哉は床に転がった。


 雄一郎は隙間から腕を伸ばしたが、届かない。


「脱げ! 上着を脱げ!」


 友哉は転がりながらシャツを引き裂いた。


 火は一度消えた。


 だが、廊下の温度は急激に上がっていた。


 壁の木材から、細い炎が立ち始めている。


「もういい!」


 雄一郎は叫んだ。


「窓から逃げろ!」


「あと一回や!」


「やめろ!」


「あと一回!」


 友哉はバールを拾った。


 両手の皮膚が赤くなっている。金属が熱を持っているのだろう。


 それでも握り直し、扉の上部へ差し込んだ。


「いくで!」


 雄一郎は内側から扉を引いた。


 友哉が外側から、バールを押し下げる。


 木枠が鳴った。


 一度。


 二度。


 三度目で、梁の一部が砕けた。


 扉が大きく動いた。


 雄一郎は隙間に肩を入れ、全身で押した。


 蝶番が外れる。


 扉が廊下側へ倒れた。


 開いた。


「大坂!」


 雄一郎は煙の中へ出た。


 すぐ目の前に、友哉が立っていた。


 バールを握り、背を向けている。


「開いたぞ!」


 呼びかけた瞬間、廊下の奥で炎が爆ぜた。


 熱風が吹き抜けた。


 友哉の身体が炎に包まれた。


 一瞬だった。


 髪が燃え、破れたシャツに火が走った。


 友哉は声を上げなかった。


 振り返ろうとして、膝から崩れた。


「大坂!」


 雄一郎は友哉へ飛びついた。


 自分の上着を脱ぎ、燃えている背中へ叩きつける。炎は消えず、袖へ移った。


 雄一郎は上着ごと友哉の身体を包み、床へ押し倒した。


 二人で転がった。


 熱が皮膚を刺した。


 髪の焼ける匂いと、肉の焦げる匂いがした。


 雄一郎は叫びながら、何度も上着を叩いた。


 ようやく炎が消えたとき、友哉は動かなくなっていた。


「大坂」


 返事はない。


「大坂、聞こえるか」


 雄一郎は友哉の頬を叩いた。


 皮膚が熱い。


 呼吸は浅く、喉の奥から、かすかな音がしている。


「起きろ」


 友哉の瞼は開かなかった。


「おい、起きろ!」


 炎が廊下を塞ぎ始めていた。


 階段の方向は黒煙に覆われている。天井から燃えた破片が次々に落ちてくる。


 雄一郎は友哉の腕を自分の肩へ回した。


 引きずろうとしたが、力が入らない。


 熱と煙で視界が歪んでいた。


 肺が焼けるように痛む。


 それでも、友哉を置いていくという選択肢はなかった。


 雄一郎は友哉の前にしゃがみ、背中へ担ぎ上げた。


 重かった。


 力の抜けた人間の身体は、起きているときよりはるかに重い。


 友哉の腕が肩からずり落ちる。


 雄一郎は手首を握り直し、一歩進んだ。


 畳敷きの廊下が燃えていた。


 足の裏に熱が伝わる。


 階段の手前で梁が落ち、道を塞いでいた。


 雄一郎は向きを変えた。


 共同研究室の先に、非常用の外階段がある。普段は錆びつき、ほとんど使われていない。


 そこまで行けるか分からない。


 だが他に道はなかった。


 雄一郎は一歩ずつ進んだ。


 煙の下を通るため、身体を低くする。


 友哉の重さで膝が折れそうになる。


「大坂」


 雄一郎は歩きながら呼びかけた。


「春に結婚するんだろう」


 返事はない。


「明日香さんに電話するんだろう」


 友哉の腕が揺れる。


「六時に起こせと言ったじゃないか」


 燃えた壁が崩れた。


 雄一郎は友哉を庇い、背中で破片を受けた。


 熱が突き抜けた。


 皮膚が焼け、思わず膝をつく。


 眼鏡が床に落ちた。


 視界がぼやけた。


 炎と煙と暗闇が、ひとつの赤黒い塊になった。


「起きろ、大坂」


 雄一郎は床に手をつき、立ち上がった。


「お前の明日は来ないんじゃなかったのか」


 共同研究室の前を通る。


 開いた扉の向こうで、二人のノートが燃えていた。


 友哉が描いた円も、数式も、積み上げてきた計算結果も、火の中で黒く縮れていく。


 紙は情報を保存できない。


 人間の記憶も保存できない。


 時間はすべてを奪う。


 そんな当たり前の事実が、炎の向こうから雄一郎を見ているようだった。


「ふざけるな」


 雄一郎は呟いた。


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


 友哉を背負い直す。


「勝手に終わらせるな」


 外階段の扉へ辿り着いた。


 押す。


 動かない。


 まただった。


 建物の歪みで、扉が枠に挟まっている。


 雄一郎は肩をぶつけた。


 一度。


 二度。


 扉は開かない。


 背後で炎が近づく。


 友哉が使っていたバールは、先ほどの廊下に落としたままだ。


 雄一郎は友哉を床へ下ろした。


 扉のノブを両手で握り、引き、押し、何度も体当たりした。


「開け」


 肩に痛みが走る。


「開け!」


 木枠が軋む。


「開け!」


 三度目の衝撃で、錆びた留め金が外れた。


 扉が外側へ開いた。


 冷たい空気が流れ込む。


 外階段があった。


 暗闇の中に、細い鉄の階段が続いている。


 雄一郎は友哉を再び背負い、外へ出た。


 裸足で鉄板を踏む。


 凍えるように冷たかった。


 すぐ後ろでは宿舎が燃えていた。窓から炎が噴き出し、屋根の一部が崩れ落ちた。


 外階段も歪んでいた。


 手すりにつかまり、一段ずつ下りる。


 地面が近づく。


 しかし一階付近で、階段の接合部が外れていた。最後の数段が傾き、地面との間に隙間がある。


 雄一郎は止まった。


 友哉を背負ったままでは、飛び降りるしかない。


 下には、倒れた柵やガラス片が散乱していた。


「大坂」


 雄一郎は、友哉の腕を強く握った。


「少し痛いぞ」


 返事はない。


「我慢しろ」


 雄一郎は手すりを越えた。


 友哉を抱え込むようにして、地面へ飛び降りた。


 衝撃で足首が捻れた。


 二人は地面に倒れた。


 雄一郎の肘と膝が裂けた。


 それでも、友哉の頭だけは地面に打ちつけなかった。


 宿舎から距離を取らなければならない。


 雄一郎は友哉の両脇に腕を入れ、後ろ向きに引きずった。


 地面には水が浮いていた。


 配管が破裂したのか、それとも海に近い軟らかな地盤から水が噴き出したのか、泥と砂が混じり合い、足を取られた。


 周囲の建物から人々が出てきていた。


 寝間着のままの者。


 毛布を肩にかけた者。


 血を流している者。


 裸足で立ち尽くしている者。


 誰もが何が起きたのか理解できず、暗い空と崩れた建物を交互に見ていた。


「人がいる!」


 雄一郎は叫んだ。


「誰か! 救急車を!」


 近くにいた男が駆け寄ってきた。


「大丈夫ですか!」


「友人が、火傷を」


 声が続かなかった。


 咳き込む。


 黒い痰が口から出た。


「呼吸がある! 毛布を持ってきて!」


 別の誰かが叫んだ。


 友哉の身体が地面に寝かされる。


 女性が上着を脱ぎ、友哉の頭の下へ敷いた。


「救急車は」


「電話がつながらへん!」


「消防署へ走ってる人がおる!」


「道路が割れとる!」


「水をかけたらあかん、布を!」


 声が入り乱れた。


 雄一郎は友哉のそばに座り込んだ。


 自分の手が震えていた。


 皮膚が赤く腫れ、水疱ができている。顔の右側が熱を持ち、感覚が鈍かった。


 しかし痛みは遠かった。


 友哉の胸だけを見ていた。


 わずかに上下している。


 生きている。


 まだ、生きている。


「大坂」


 雄一郎は友哉の手を握った。


 指の皮膚が焼け、ところどころ剥がれていた。


 あのバールを握り続けた手だった。


「聞こえるか」


 返事はない。


 空が少しずつ明るくなっていった。


 夜明けが来ていた。


 だが、朝の光は街を救わなかった。


 明るくなるほど、被害の全体が見えてきた。


 傾いた建物。


 道路へ倒れた塀。


 折れ曲がった電柱。


 地面を覆う泥と砂。


 遠くの市街地から立ち上る、いくつもの煙。


 六甲の山並みの下で、神戸が燃えていた。


 いつもなら車の音が聞こえる時間だった。


 港へ向かうトラック。


 始発の電車。


 新聞配達のバイク。


 人々の一日が始まる音。


 その朝、聞こえたのは、崩れた家の中から家族を呼ぶ声と、止むことのない警報音だった。


 やがて誰かが、小型のトラックを連れてきた。


 救急車を待っていては間に合わない。荷台に負傷者を乗せ、診療所まで運ぶという。


 友哉は、木の板を代わりにした担架へ乗せられた。


 雄一郎も乗るよう促された。


 荷台には、他にも負傷者がいた。


 額から血を流した老人。


 腕を折った少年。


 幼い子供を抱く母親。


 誰も話さなかった。


 トラックが動き出す。


 道路は至るところで隆起し、亀裂が走っていた。瓦礫を避けるたび車体が揺れ、その振動で雄一郎の火傷が痛んだ。


 友哉の呼吸は、さらに弱くなっていた。


 雄一郎は隣に座り、手を握り続けた。


「大坂」


 揺れる荷台の上で呼びかける。


「研究はまだ終わってない」


 友哉の瞼は閉じたままだ。


「お前が言い出したんだ。時間を円にするって」


 道路脇では、人々が瓦礫を素手で掘っていた。


 救助を求める声が聞こえる。


 火の手が上がっている場所もあった。


 だが消防車は来ない。


 来られないのだ。


 道路が塞がれ、消火栓が壊れ、水が足りない。


 それぞれの場所で、それぞれの人間が、自分の手の届く命を助けようとしていた。


「式の名前も決まってない」


 雄一郎は続けた。


「勝手に決めたつもりになっていただけだ」


 友哉の指が、かすかに動いた気がした。


 雄一郎は顔を近づけた。


「大坂?」


 反応はなかった。


 車の揺れだったのかもしれない。


「聞こえているなら返事をしろ」


 声が震えた。


「六時に起こせと言っただろう」


 雄一郎は腕時計を見た。


 止まったままの針。


 五時四十七分。


「もう六時を過ぎている」


 友哉の手を握る。


「起きろ」


 朝日が、煙の向こうから昇っていた。


 赤く濁った光が、破壊された街を照らしている。


「起きろ、友哉」


 雄一郎が彼を名前で呼んだのは、そのときが初めてだった。


     *


 友哉は病院へ搬送された。


 正確には、最初に運ばれた診療所では処置ができず、さらに別の病院へ移された。院内は負傷者で溢れ、廊下にも玄関にも人が横たわっていた。


 医師も看護師も休むことなく動いていた。


 誰もが誰かの名前を呼んでいた。


 雄一郎自身も、顔、背中、両腕、足に広範囲の火傷を負っていた。煙を吸い込み、右足首を痛め、足の裏には複数のガラス片が刺さっていた。


 治療を受けながらも、雄一郎は友哉の行方を尋ね続けた。


 何度目かの問いに、看護師が答えた。


 大坂友哉は生きている。


 ただし意識がない。


 気道に深刻な熱傷があり、全身の火傷も重い。


 予断を許さない。


 雄一郎は、処置台の上で目を閉じた。


 生きている。


 それだけを繰り返した。


 生きているなら、まだ時間はある。


 時間があるなら、情報は失われていない。


 友哉の記憶も、声も、明日香という名前を呼ぶときの表情も、いびつな円を描いた指先の動きも、脳のどこかに残っている。


 戻る可能性はある。


 そう信じた。


 信じる以外になかった。


 雄一郎の入院は二か月に及んだ。


 友哉の意識は戻らなかった。


 病室を訪れるたび、彼は機械につながれていた。


 呼吸を補助する装置。


 心拍を示すモニター。


 規則的に落ちる点滴。


 友哉の身体が、まだこの世界の時間に接続されていることを示す、いくつもの線。


 片岡明日香は、毎日、ベッドのそばに座っていた。


 誕生日に渡されるはずだったマフラーを、友哉の私物の中から見つけたという。


 包装もされていなかった。


 値札も付いたままだった。


「大坂さんらしいですね」


 雄一郎が言うと、明日香は泣きながら笑った。


「ほんまに、最後までしょうもない人」


 それから彼女は、眠る友哉の手を握った。


「春に結婚するって、決めてたらしいです」


 雄一郎は言った。


 明日香は、驚いたように顔を上げた。


「聞いてない」


「私も、あの夜に初めて聞きました」


「勝手な人」


「はい」


「何でも勝手に決めて」


「はい」


「勝手に人を助けて」


 明日香は言葉を詰まらせた。


「勝手に、戻ってこない」


 雄一郎は答えられなかった。


 病室の窓の外には、冬の神戸が広がっていた。


 あちこちから煙が上がり、道路には救援車両が行き交っている。街は少しずつ動き始めていたが、その下には、失われた無数の時間が埋まっていた。


 友哉はその後も目を覚まさなかった。


 心臓は動き続けた。


 呼吸は機械に支えられた。


 しかし意識だけが、どこにも戻ってこなかった。


 雄一郎は何度も考えた。


 友哉の意識は消えたのか。


 それとも、脳の中に残っているのか。


 呼びかける声を認識しながら、身体へ命令を送れないだけなのか。


 現在という地点から切り離され、過去のどこかを漂っているのか。


 あの朝、扉を開いたとき、友哉は確かにそこにいた。


 バールを握り、炎の前に立っていた。


 その事実を保存できるものは、雄一郎の記憶しかない。


 だが記憶は変わる。


 薄れる。


 失われる。


 友哉が何を言ったのか。


 どんな顔をしていたのか。


 声の高さ。


 手の温度。


 時間が経つほど、それらは少しずつ不確かになっていく。


 だから雄一郎は、すべてを書いた。


 一月十六日の夜に交わした会話。


 カップ麺の匂い。


 窓の向こうの海。


 友哉が描いた円。


 五時台で止まった腕時計。


 扉を叩く音。


 バールが木枠を割る音。


 炎の中で倒れた友哉の姿。


 何度も書き直した。


 ひとつの言葉も失われないように。


 ひとつの時間も消えないように。


 ノートの最後に、雄一郎は一行だけ記した。


 ――与えられた情報量Iの上界には、時間的なプロセス率の限界が等価的に存在する。


 その下に、境界の名前を書いた。


 友哉が冗談のように口にした名前だった。


 『ベッケンシュタイン境界』


 雄一郎はしばらく、その文字を見つめていた。


 やがて、さらに一行を書き加えた。


 ――時間の限界が存在するなら、その境界を越える方法もまた、必ず存在する。


 病室の機械音が、一定の間隔で鳴っていた。


 友哉の時間を刻む音だった。


 雄一郎はベッドのそばに椅子を置き、眠る友人へ向かって静かに言った。


「お前を、ここには置いていかない」


 返事はなかった。


「時間が一方向にしか進まないというなら、その向きを変える」


 モニターの線が上下する。


「情報が失われるというなら、失われる前に保存する」


 友哉の閉じた瞼は動かない。


「世界に限界があるというなら、その限界を見つける」


 雄一郎は、包帯に覆われた自分の手を見た。


 その手に、まだ友哉の重さが残っていた。


 炎の中で背負った身体。


 肩から落ちかけた腕。


 焼けた指。


 助けられたのは、自分だった。


 扉を開いたのは友哉だった。


 ならば次は、自分が扉を開かなければならない。


 それがどれほど厚くても。


 世界そのものが歪み、開かなくなっていたとしても。


「待っていろ、友哉」


 雄一郎は言った。


「必ず、迎えに行く」


 その日から、桐崎雄一郎は大学の自室に籠もるようになった。


 机の上には、一冊の焦げたノートが置かれていた。


 表紙の半分は焼け落ち、ページの端は黒く炭化している。


 震災の数日後、宿舎の焼け跡から見つかったものだった。


 開くことのできた最後のページには、友哉が描いた、いびつな円が残っていた。


 円の上には、二つの点がある。


 ひとつはA。


 もうひとつはB。


 二点の間を結ぶ線の横に、友哉の字で、短い言葉が書かれていた。


 ――帰ってこられる経路。


 雄一郎はそのページを透明な袋に入れ、机の正面に置いた。


 朝も、夜も、研究を続けた。


 世界中から論文を集めた。


 時間とエネルギー。


 情報と重力。


 熱力学と量子力学。


 脳と意識。


 記憶の保存。


 有限の空間に蓄積できる情報量の限界。


 計算の途中で眠り、目を覚ますと、また数式を書いた。


 食事を忘れた。


 季節の移り変わりにも気づかなかった。


 窓の外では、壊れた神戸の街が再建されていった。


 道路が直り、建物が建ち、電車が走り始める。


 失われたものを抱えながら、人々は生活を取り戻していった。


 しかし雄一郎だけは、あの朝から動かなかった。


 正確には、動くことを拒んでいた。


 一九九五年一月十七日。


 午前五時四十六分。


 世界の時間が一方向に進み続けても、雄一郎の一部は、あの燃える廊下に残っていた。


 開かない扉の内側。


 友人がバールを握っている。


 炎が迫っている。


 時間がなくなる。


 何度思い返しても、出来事の順番は変わらない。


 友哉が扉を開ける。


 火に包まれる。


 倒れる。


 意識を失う。


 未来は、その結末から逃れられない。


 だから雄一郎は、未来を変えようとは考えなかった。


 変えるべきなのは、過去だった。


 いつの日か、彼は情報を時間の中へ送り込む。


 記憶を、数式を、警告を。


 地震が起きる前の自分へ。


 友哉がバールを握るより前へ。


 扉が歪むより前へ。


 炎が上がるより前へ。


 五分だけでいい。


 たった五分、早く知ることができればいい。


 午前五時四十一分二十二秒。


 その時刻に、自分の記憶を届ける。


 友哉を起こす。


 宿舎を出る。


 外へ行く。


 二人で、生き残る。


 その計画が世界に何をもたらすのか、このときの雄一郎はまだ知らなかった。


 ひとりの人間を救うために過去へ送られた情報が、無数の世界を生み出すことも。


 本来は存在しなかった命が誕生することも。


 時間の境界に、ひとりの少女が立つことも。


 何も知らなかった。


 ただ、机の前で数式を書き続けた。


 友哉が描いた円を見ながら。


 帰ってこられる経路を、探しながら。

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