時間葬
アスファルトを擦る甲高いブレーキ音と鈍く重い衝撃音が交差点の空気を一瞬にして凍らせた。
数秒の沈黙の後、悲鳴とも怒号ともつかない声があがり、黒い血溜まりを中心に人だかりが形成されてゆく。
戸惑いながらも足早に立ち去る者。震える手でスマホを取り出し、慌てて119番を押す者。血を流し倒れた人に駆け寄り、懸命に声をかける者。そして最も多いのは、遠巻きにそれを取り囲む野次馬たちだった。
野次馬の大半は心配そうに顔を歪め、いくらかは残酷な現実に眉をひそめている。その群衆の輪の縁には、倒れたそれに向かってスマホのカメラレンズを向ける人影が確かに存在した。
彼女もその一人だった。手元の画面にピントを合わせながら、彼女の口元には場違いな、ひどく軽薄な笑みが浮かんでいた。
無機質なシャッター音がサイレンの遠音に混じって小さく鳴る。彼女は満足げに保存された画像を確認すると、現場が黄色いテープで封鎖される前にふらふらとその場を離れていった。
僅か一時間もすると事故のニュースがネットの速報を駆け巡った。彼女はただ一つだけ気になったことを確認するためにSNSを開いた。
“撥ねられた――さんは即死、車両を運転していた――さんは搬送先の病院で死亡が確認され……”
その一文を見て彼女は安堵の息を吐く。どちらもが亡くなったのであれば、それでよかった。あちこちで叫ばれている過失の在処に興味はなかった。
その後、SNSのタイムラインはいつものように正義の言葉で埋まり始める。
『またスマホで写真撮ってるやつがいたよ。信じられない』
『頑張って生きようとしてる人にカメラ向けるとか神経が理解できん』
『頭おかしいよ。どういう教育受けてんの』
『人の心ないんか』
『同じ人間として許せない』
画面をスクロールしながら彼女は少し笑ってしまった。同じ人間として許せない。怒りに満ちたテキストの羅列を眺めながら彼女は静かに思う。
そう。人の心、そんなもの、ない。
目を閉じれば広がる光景は、記憶と呼ぶには生々しい鮮度を保っていた。
幼い頃、母と手を繋いで駅のホームに立っていた。何の用で出かけたのかは忘れてしまった。電車が入ってくる時に突風を浴びた。
風の中に、血飛沫と肉片が混じった。
悲鳴が聞こえた。母が慌てて彼女の目を両手で覆い隠してくれたけれど間に合うはずもなかった。
頭部から弾けるように飛び出した目玉が空中で弧を描きながら、確かに最後に彼女を見ていた。
その強烈な瞬間の画は彼女の脳の最も深い場所にこびりついて離れなくなった。
忘れようと必死に努めた。心療内科に通いつめ、カウンセリングを受け、慎重な催眠療法から藁にもすがる思いで胡散臭い素人の催眠術まで、何から何まで試した。けれど一つも効果はなかった。
ちぎれた肉塊と虚ろな瞳は決して彼女の瞼から離れてくれなかった。目を閉じればいつでも血の匂いが蘇り、暗闇の中に目玉が浮かび上がるのだ。
ある日を境に、彼女は死体の写真や映像をインターネットの深淵で探し求めるようになった。今日のように不運にも現実で事故に出くわすことは時々あった。そのたびに嬉々としてスマホを構えた。
刻まれてしまったトラウマを、恐怖の源泉を、新しい画で埋める。それでようやく息ができる。より新しくより鮮明な死体を上書きすることでしか、あれを記憶の向こうに追いやることができないのだった。
一度、事故現場でスマホを持つ手を強く叩かれ、見知らぬ他人に「やめろ」と怒鳴られたことがある。その声は彼女には「死ね」と聞こえた。
人の心がない。人間として許せない。死の外側で叫ばれる正しい言葉に、彼女は素直に頷く。確かに、と。
画面の向こう側に生きた人間がいることも忘れ、誰とも知れない相手に石を投げ、容易く他者の心を言葉で殺してゆく彼らと同じくらいには、自分が壊れていることを彼女は知っていた。
また言葉が流れてきた。
『痛ましい。亡くなった方のご冥福をお祈りします。この日を忘れてはいけない』
彼女は他者の言葉を閉ざして、息も絶え絶えに写真フォルダを開いた。
今日手に入れたばかりの新しい死体。あの時よりもグロテスクであの時よりもおぞましくて、あの時よりもずっと怖い。
これでまた少しだけ、あの日の死体を埋められる。
彼女が生きてゆくにはそれくらいしか術がなかった。




