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第8話 希望者だけ。と言われたのに枠が確保されている

玄関の隙間から、紙が刺さっていた。


いや、刺さっているように見えるだけだ。実際は、きっちり角をそろえて、丁寧に差し込まれている。

礼儀が、紙の形をしている。


私はしゃがんで、封筒を二通、引き抜いた。


「……二通?」


一通なら、まだ“お知らせ”で済む。

二通になると、だいたい“確定”だ。


封筒の表には、きれいな字でこう書いてある。


【救護運用研修 事前講習のご案内】

【仮参加 受理控え】


……受理控え。


「出してないのに、受理されてる」


声が、乾いていた。自分でも分かるくらいに。


肩の上で透明な気配が、ぴょこっと跳ねる。


「ミオ、いい匂いの紙!」


精霊スーリ。

声が大きい。声が風。風は余計なものまで運ぶ。


「小声で」


「こごえ!」


音量は下がった。たぶん。

ただ、内容が目立つのは変わらない。


私は封を、指先で慎重に開けた。

こういう紙は、雑に扱うと怒られる気がする。怒られると記録が増える。記録が増えると、人生が勝手に動く。


中身は想像以上に丁寧だった。


一通目。

【仮参加を受理しました。番号は47。集合場所は教会別館。】


二通目。

【事前講習の席次表(番号つき)】

【持参物一覧】

【注意事項】

【欠席の場合の連絡方法(窓口番号)】


……席がある。

席がある時点で、もう戻れない感じがする。


持参物一覧の最後に、さらっと書いてあった。


・煮沸消毒用の小鍋

・布(清潔なもの)

・灰(少量)


「灰……?」


スーリが封筒の口に顔を突っ込む。


「灰はね、きっとね、かっこいいやつ!」


「灰にかっこよさを求めないで」


封筒を閉じて、台所の椅子に座った。

座面が冷たい。

なのに頭の中は、変に熱い。


(落ち着け。準備は調律。調律)


顔を洗って、髪に指を通す。髪は整う。整うと、よし。

……よしのはずなのに、紙の重さだけ増えていく。


戸口に気配がした。レティアだ。

姉の目は、もう封筒に向いている。


「増えた?」


「二通」


「二通は確定」


短い言い方なのに、真実だけが刺さる。


私は封筒を差し出した。

レティアは中身をざっと見て、ふっと息を吐く。


「“希望者のみ”って言い方は、だいたい希望を確認しない」


「やっぱりそうなんだ……」


「確認すると断られるから」


理屈がきれいで嫌だ。

きれいな理屈ほど、逃げ道が少ない。


「断る? 断っていいよね?」


私は思わず姉の顔を見た。

姉は首を横に振らなかった。代わりに、まっすぐこちらを見る。


「断り文は危ない」


「え」


「断り文は“意思表示”として受理される。丁寧にね」


怖い。紙の世界、怖い。


「じゃあ黙る」


「黙ると出席扱い」


「どうすればいいの……」


背もたれに沈む。背中がひんやりして、少しだけ冷静になる。


レティアは席次表を指で軽く叩いた。


「確認の形で延期を引き出す」


「延期?」


「日程調整。護衛都合。体調。家庭。理由は何でもいい。大事なのは、断らないこと。断らないで、動かす」


姉、怖い。

でも頼もしい。


スーリがぴょこぴょこ跳ねる。


「風で返事送る? すぐ届くよ!」


「やめて」


「え、なんで?」


「風は、余計なものも運ぶの」


「余計ってなに?」


「……全部」


スーリは首を傾げた。精霊に“全部余計”は難しい。

だから私は短く言う。


「今日は紙に触らない」


「紙、こわい?」


「軽いのに、押しが強い」


レティアが小さく頷いた。


「押されてるなら押し返す。記録が増えない押し返し方で」


◇◇◇


教会の窓口は、朝から静かに忙しい。


静かな忙しさは、余計な声が少ない。助かる。

ただし、静かでも紙は増える。紙は無音で増える。無音の紙が一番怖い。


窓口にいたのはエステルだった。

柔らかい笑顔、柔らかい声。柔らかいのに運用は固い。


「おはようございます。今日は何かご不明点が?」


レティアが一歩前へ出る。

私を前に出さない。盾の姿勢。ありがたい。


「事前講習について確認したい。目的、拘束時間、参加者の範囲、記録の保管」


エステルは笑顔のまま答える。


「研修は安全のためです。講習は短時間。参加者は少人数です」


「短時間は何時間」


「半日ほど。午前から昼過ぎです」


半日。短時間じゃない。


「記録の保管は」


「必要最小です。番号で運用しますのでご安心を」


番号。匿名。助かる。……はず。

でも番号が増えるほど、番号で覚えられる。覚えられると紙が増える。


胃が、きゅっと縮んだ。


エステルは持参物一覧を指さす。


「灰についてですが、最近、誤った手当てが流行っていまして。粉を傷に塗る方がいるんです。灰は、あくまで手順上の補助として、少量だけ」


「粉を傷に塗る……?」


思わず口に出た。

エステルが苦笑する。


「噂は早いです。だからこそ、正しい方法を共有したいんです」


共有。

共有されると目立つ。目立つと嗅がれる。


(落ち着け。調律)


レティアが淡々と続ける。


「欠席の連絡をしないとどうなる」


「再案内が届きます」


「再案内」


「丁寧に」


丁寧。丁寧は怖い。


私は窓口の柱のそばで、なるべく“そこにいない顔”を作った。

いるのにいない。これが一番難しい。


その時、回廊の向こうから足音が近づいた。

靴音が整っている。整っている足音は、紙の匂いがする。


現れたのは、見覚えのない青年だった。

上着がきれい。留め具が光る。目線が低い。声が落ち着いている。

礼儀が厚いタイプだ。


彼は一礼した。


「失礼いたします。王都救護監察、ユリウス様の補佐官を務めております、セシルと申します」


名乗りが丁寧。

丁寧な人は、話が長い。


セシルは紙束を抱えていた。分厚い。嫌な予感しかしない。


「手続き上、確認だけです」


確認だけ。

確認だけって言い方は、一番怖い。


レティアがすっと前へ出る。


「確認は私が受ける。本人は現場優先」


セシルはにこやかに頷いた。


「もちろんです。では、番号と集合場所の再確認を」


番号。集合。紙の確定。


セシルは淡々と読み上げる。


「参加番号、47。集合場所、教会別館。持参物、煮沸消毒セット、布、灰。緊急連絡窓口は……」


聞きながら、私は小さく呟いた。


「番号、増える……」


スーリが耳元で囁く。


「ミオ、人気」


「人気じゃない。手順が都合いいだけ」


セシルは拾わない顔をして、拾っていそうだった。

上品な人ほど、上品に拾う。


レティアが最後に釘を刺す。


「個人情報は最小。記録は番号だけ」


セシルは笑顔で答えた。


「承知いたしました。必要最小にいたします」


必要は必要。

丁寧に、必要な分だけ、確実に。


セシルが去ったあと、私は柱にもたれた。


「……確認だけで、息が減った」


エステルが申し訳なさそうに笑う。


「丁寧な方ほど、確認が多いですから」


レティアが私の肩を軽く叩いた。


「帰る。噂が動く前に」


「噂……?」


「動いてる。灰が持参物に入った時点で」


嫌な予感しかしない。


◇◇◇


予感は当たった。


町の広場で、人が集まっていた。

集まると空気が濃くなる。濃くなると匂いが寄る。


「おい、これだろ? 白いの!」


若者が得意げに腕を見せる。

白い粉がべったり。しかも、赤く腫れている。


隣の友人が言う。


「効くって聞いたんだよ。薄い膜みたいになるって」


薄い膜。

その単語が、背中を冷やした。


止まりたくないのに、足が止まった。

余計なことをしない日だったはずなのに、現場が勝手に寄ってくる。


レティアが小さく言う。


「見るだけ。最短で終わらせる」


最短。

よし、最短。


私は人混みの端から声を落とした。


「まず、洗って」


若者が振り向く。


「え?」


「粉は落とす。こすらない。水で流す」


「でもこれ、効くって」


「効いてない。赤い」


赤い腕は説得力が強い。

若者は渋々、井戸へ向かった。


周囲がぞろぞろついていこうとしたので、私は止める。


「見物しない。距離」


距離を取るだけで空気が薄くなる。

薄くなれば匂いも落ち着く。落ち着けば記録も増えにくい。


私は布を一枚取り出した。

煮沸消毒する前の布は本当は使いたくない。だからこれは、今日限り。


「水、ここ。腕、ここ。流して」


若者が井戸の水を手ですくい、腕を流す。

白い粉が落ちて、赤みが目立つ。


見物人が「うわ」と言いそうになったので、私は短く言った。


「静かに」


叱られるのは嫌らしく、空気が一段静かになる。


スーリがふわっと風を起こしかけた。

粉が散る。散った粉が別の人に付く。付いたら騒ぎが増える。最悪。


私は即、肩の上を軽く押さえた。


「馴染ませる、だけ」


「だけ!」


スーリの声は小さい。偉い。


私は布を当てて、赤い部分をそっと押さえた。


「こすらない。押さえるだけ」


若者が顔をしかめる。


「痛い」


「痛いのは今だけ。深呼吸。せーの」


「……せーの」


吸って、吐く。


「ふー」


呼吸が戻ると、腕の力が抜ける。

力が抜けると皮膚が引っ張られない。引っ張られないと痛みが減る。


私は小鍋を取り出し、炊事場を借りた。火を起こす。

手順は体が覚えている。迷わない。


「煮沸消毒します。布と金具。近寄らないで」


「煮るの?」


「煮る。消毒。火傷しないように距離」


距離は安全。距離は平穏。距離は匿名。


お湯が沸く。

沸いたら布をくぐらせ、絞る。

熱い。でも慌てない。


若者の腕を軽く拭うと、赤みが少し落ち着いた。


「……あれ?」


若者が驚いた顔をする。


「ほら。粉が原因。だから粉は塗らない」


「でも、白い膜ができるって」


「できない。作らない」


作らない。

“作らない”って言うと、誰かが作りたがる。

だから私は結論だけ言って、終わらせる。


「布は清潔。傷は洗う。煮沸消毒。乾かす。終わり」


終わり。終わりは大事。

終わりと言うと、人は散る。


……散りかけたのに、また空気がざわっとした。


「見た? 今、白いの……」


誰かの小声。

白いの。何。やめて。


私は若者の腕を見る。


赤みが引いている。その周りに、ほんの少しだけ、うっすら白いものが見える気がした。

薄い膜。光でだけ分かる程度。


(違う。布の繊維。光のせい。たぶん)


スーリが必死に風を撫でる気配がした。

馴染ませる。馴染ませる。

でも、きれいにしすぎると不自然になる。

不自然は目立つ。目立つと嗅がれる。


「スーリ、やりすぎない」


「え、でも、消す!」


「消すじゃなくて、薄くする」


「うすく!」


私は若者の腕を布で軽く覆った。


「乾かす。今日は水をよく飲んで。肌は休ませる」


若者が頷く。


「わかった……ありがとう」


見物人の一人がまた囁く。


「やっぱり、あの白い膜……」


やめて。

お願いだから、やめて。


私は顔を上げずに、短く切った。


「違う。粉の話は終わり」


終わり。

終わりと言った。これで終わる。


……はずだった。


広場の端、少し離れたところに白い上着が見えた。

紙束と羽ペン。視線を上げないのに、そこにいる。


記録係。

教会の外にいるのは、見たくない種類の事実だった。


背中が冷たくなる。私はレティアの袖を引いた。


「……いる」


レティアは視線を動かさず答える。


「見せる情報は手順だけ」


「……うん」


「見せたくないものは、痕を隠す。……痕封」


“痕を封じる”。そういう意味の合図。

私は喉の奥で小さく頷いた。


(痕封。痕封)


◇◇◇


家に戻ったあと、私たちは裏庭へ出た。


人に見られない場所。

見られない場所でも油断はできない。油断すると、余計なものが出る。


私は小さな布を一枚取り出し、角を少し湿らせた。

そして、ほんの少しだけ白さが見える角度で置く。


「スーリ。馴染ませる練習」


スーリが真剣な顔になる。

精霊が真剣な時は、善意が強い。


「ミオの平穏、守る!」


「守るのはいいけど、やりすぎない」


「やりすぎない!」


スーリが風をそっと撫でた。

空気が揺れて、白さが薄くなる。


……と思ったら、次の瞬間。


白さが“きれいに”消えすぎた。

消えすぎたせいで、その部分だけ不自然に“何もない”感じになる。


「うわ」


「できた!」


「できてない。きれいすぎる」


「きれい、だめ?」


「だめ。きれいは目立つ」


スーリが首を傾げる。


「目立つの、なんでだめ?」


「……紙が増える」


「紙、きらい?」


「紙は軽いのに、押しが強い」


スーリは少し考えて、手をぱんっと叩いた。


「じゃあ、押しを押し返す!」


その言い方、どこで覚えた。

私はレティアを見る。姉は何も言わないが、少しだけ口角が上がっていた。影響が強い。


私は深呼吸して言い直す。


「自然が最強。消すんじゃなくて、馴染ませる」


「なじませる」


今度は控えめに風を撫でる。

白さが“ちょうどよく”薄くなる。


「……七割」


レティアが呟いた。


「え?」


「成功率。七割。残り三割で目立つ」


「三割、怖い」


「だから練習」


練習は嫌いじゃない。手順が増えると落ち着く。


その時、玄関の方で軽い音がした。

郵便受け。紙の音。


私は固まった。


「……また?」


レティアが先に取りに行き、戻ってきた。

手には封筒が一通。封の印が、さっきの紙よりさらに丁寧だ。


署名がある。ユリウス。


胃が、きゅっと縮む。


レティアが封を開け、読み上げた。


「事前講習は安全のため、短時間。欠席の場合は別日を用意します」


別日。欠席にも枠がある。

欠席すら丁寧に管理される。


次の行。


「精霊契約者には、風の管理の講義もあります」


私は声が出た。


「……私のこと名指しじゃない? 名指しじゃないよね?」


「名指しじゃない。条件が一致してるだけ」


「それが一番怖い」


スーリが嬉しそうに跳ねる。


「風の話! スーリ、得意!」


「得意を出さないで」


「え、なんで?」


「得意が出ると、紙が増える」


「紙、こわい!」


ようやく通じた。遅い。


レティアが紙を折り、机に置く。


「明日。講習」


「……行くの?」


「行かないと別日が用意される。丁寧に」


詰み。


私は布を握りしめた。


「丁寧って、最悪」


「丁寧は味方にもなる」


「どうやって」


レティアは淡々と言った。


「丁寧に、手順だけを見せる」


◇◇◇


教会別館の入口は、ひとつだった。


扉がひとつ。受付がひとつ。出口もひとつ。

逃げ道が少ない建物は、空気が濃くなる。濃くなると匂いが寄る。寄ると拾われる。


受付にはエステルがいた。

机の上には番号票。番号票の横に受理控えの紙束。

軽い紙が重ねられている。


「番号をお願いします」


私は番号票を出した。47。

数字だけ。匿名。助かる。……はず。


エステルが微笑む。


「はい、47番。席はこちらです」


席の机にも、番号票が置かれていた。

番号で固定。番号で覚えられる。覚えられると紙が増える。やめてほしい。


椅子に座ると、背筋が勝手に伸びた。

伸びると息が浅くなる。浅い息は匂いになる。


(調律)


肩の力を抜く。抜きすぎない。抜かなさすぎない。

普通。普通が最強。


参加者は少人数だった。

数人。誰も大声を出さない。

でも視線は落ち着かない。落ち着かない視線が集まると空気が揺れる。


後方に、白い上着の記録係。

紙束と羽ペン。

見ないふりが上手いのに、見ている。


そして扉が開いた。


ユリウスが入ってくる。

丁寧に頭を下げ、丁寧に笑う。丁寧な空気。


「本日はお集まりいただきありがとうございます。皆さんを守るための講習です」


守る。

守るはずなのに、逃げ道が減る言葉。


スーリが小声で囁いた。


「守るって言う人は、近いところにいるよ」


「小声で」


「こごえ……」


今日は優秀。


ユリウスの隣にはセシル。前にはエステル。後ろには記録係。

運用担当が揃っている。揃うと、決まる。


講義が始まった。


内容は真面目だ。

でも言い方が優しい。優しい言い方は、逃げ道を消しても優しく聞こえる。怖い。


「軽傷の基本は、洗う、押さえる、固定する。順番を変えない。焦らない。声を下げる」


私はうっかり頷きかけ、途中で止めた。

止めるのも目立つ。もうだめ。


「煮沸消毒は、必ず沸騰したお湯を使う。布は清潔に。乾燥は重要です」


布の乾かし方を頭の中で確認する。

確認すると落ち着く。落ち着くのは良い。


ユリウスは少し間を置いて、さらっと言った。


「そして最近、“白い薄膜”の噂が出ています」


空気が、ぴくっと動いた。


「白い薄膜は、良い兆候とは限りません。誤った手当てによる炎症、薬品、粉、灰の付着。場合によっては危険な反応の兆しにもなり得ます」


直接言い切らない。

直接言い切らないのが、一番怖い。


ユリウスは参加者を見回した。


「質問します。現場で止血が早い人は、何を意識していますか」


全員が目を伏せた。

目を伏せるのは安全。答えたくない。


……なのに。


セシルが紙をめくりながら言った。


「47番の方、差し支えなければ」


来た。番号で来た。匿名なのに来た。


私は立ち上がらず、座ったまま小さく答える。


「洗う、押さえる、固定する。順番どおりです」


それだけ。

それ以上は匂いになる。


ユリウスが微笑む。


「良い答えです。順番は人を守ります」


講義の最後に、“ミニ実技”になった。


布が配られ、腕の模型が置かれる。

巻き方、留め方、強さ。声かけ。呼吸合わせ。


「実際にやってみましょう」


参加者が順番に前へ出る。

ぎこちない。緊張している。緊張は空気を濃くする。


私は前に出たくない。

出たら目立つ。目立つと嗅がれる。嗅がれると紙が増える。


でも順番が来る。順番は逃げない。


「47番」


番号で呼ばれ、前へ出た。


手は勝手に動いた。

位置。角度。押さえ。紐。留め。

最短の手順が、体から出る。


「痛みを減らす声かけも」


エステルが言う。


私は模型に向かって言った。模型に向かって言うのは変だが、手順だ。


「息、合わせよう。せーの」


会場が少し笑った。

軽い笑いは助かる。空気が重くならない。


「吐く。ふー。力を抜く。動かない。終わり」


終わり。終わりは大事。終わりと言うと空気が散る。


散ってほしい。


……散らなかった。


後方で、羽ペンが一拍止まる音がした気がした。

気のせいかもしれない。

でも、気のせいのほうが怖い。


ユリウスの目が、ほんの少しだけ細くなった。

礼儀は崩さない。笑顔も崩さない。

でも、嗅いでいる。


私はすぐに席へ戻った。戻るだけが安全だ。


講習は終わりかけた。

エステルがまとめる。


「救護は手順が命です。焦らない。声を下げる。煮沸消毒。乾燥」


よし。終わる。


……はずだった。


セシルが紙束を持って前に出た。

紙束は終わりの合図じゃない。紙束は始まりの合図だ。


「最後に、短いご案内です」


短いと言いながら紙を配るのは、だいたい短くない。


「実地研修の協力者候補として、番号○○番の方は、明日、短時間の同行をお願いいたします」


……候補。

候補と言いながら、紙が手元に来た時点で、候補じゃない。


私の机にも、紙が置かれた。


【47番 実地研修 協力のお願い】

【集合場所】

【時間】

【持参物】


また。

軽い紙が増える。


私は紙を見つめたまま固まった。


スーリが小声で囁く。


「ミオ、人気」


「人気じゃないってば……」


声が震えそうで、喉の奥で調律した。


ユリウスが静かに言った。


「安心してください。あなたを危険に近づけるつもりはありません」


守る。保護。

保護は、丁寧に囲う言葉にもなる。


私は笑顔を作るのに失敗しそうになって、最小で返す。


「……はい」


それしか言えなかった。


講習は終わった。

椅子が鳴り、人が立ち、空気が散っていく。


散るのは助かる。

でも手元の紙は散らない。散らない紙が、明日を確定させている。


帰り道、レティアが隣を歩く。

姉はいつもの顔で、いつもの声で言った。


「大丈夫。明日も手順だけ」


「……手順だけで終わるかな」


「終わらせる」


短い。強い。


私はポケットの上から、無意識に紙を押さえていた。

紙は軽いのに、人生を押す。


スーリが肩の上で、小さく、でもはっきり言う。


「ミオ、逃げない予定、がんばって」


私は空を見上げた。

夕方の光が薄い朱になって、町の白い壁をなでている。


「……軽い紙が増えるほど、私は“逃げない予定”から遠ざかる」


口に出すと、少しだけ楽になった。

少しだけ。ほんの少しだけ。


明日は番号で呼ばれる。

呼ばれたら動く。

動いたら手順。手順だけ。


そうやって私はまた、軽い紙に押されながら歩く。

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