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第7話 日の出前に集合。礼儀正しい鼻が同行する

日の出前の空気は、軽い。

軽いのに、喉の奥だけ妙に乾く。


私は布を一枚、指先でなぞった。畳み目がきれいだと、呼吸が戻る。

手袋は左右で一組。替えも二組。紐、灰袋、薬草布、水筒。

小さな鍋と金具も入れてある。煮沸消毒の手順が、頭の中で自然に並んだ。


準備は調律。

手を動かすと、心のざわつきが“順番待ち”になる。順番待ちになれば、黙らせられる。


「ミオ、忘れ物ない?」


肩の上で透明な気配が、ぴょこっと跳ねた。精霊スーリ。

声が大きい。声が風。風は余計なものを運ぶ。


「小声で」


「こごえ!」


……音量が下がってない。


私は小さく息を吐く。

今日は“余計なことをしない日”って決めたのに、開始三秒で余計なことが増えている。


「忘れ物はない。手順どおり。私は行って、やって、帰るだけ」


「“だけ”って、むずかしい!」


「難しいけど、やる」


言い切ると、胸の奥が少しだけ整列した。

顔を洗って、冷たい水で目を覚ます。髪に指を通す。髪は整う。整うと、よし。


背後でレティアが戸口に立った。


「時間」


姉の声は短い。短い声は助かる。匂いが増えない。


「うん」


荷物を背負って玄関を出る。

外はまだ暗い。暗いのに、道は白い。石畳が月明かりを拾っている。


白は好きだ。見落としが減る。

見落としが減ると、事故が減る。事故が減ると、記録が減る。

記録が減ると、平穏が増える。


……今日もそうなる予定。予定。


教会の東門が見えてきた。


人が集まっている。少人数。

誰も大声を出さない。それだけで空気が少し柔らかい。


門のそばでエステルが紙束を持って立っていた。横に護衛のライル。

後方には白い上着の記録係。紙束と羽ペン。

見ないふりが上手いのに、見ている人。


背中がぞわっとしたので、心の中で唱えた。


(調律、調律)


「番号で点呼します。番号票を出してください」


エステルの声は穏やかだ。穏やかなのに、逃げ道がきれいに塞がる音がする。

番号票。小さな紙。軽い紙。人生を押す紙。


私は番号票を指でつまんだ。

つまむだけで汗が出そうなので、つまみ方まで手順どおりにする。深呼吸して、落ち着いて、目を合わせずに、出す。


「……四十七」


「確認しました。次」


次。次がある。次があるだけで、集団は動く。

集団が動くと、個人の匂いは薄まる。薄まるのは助かる。


ライルが一歩前へ出て、明るく頭を下げた。


「護衛担当のライルです。危ない場所は避けます。困ったら言ってください」


困ったら言う。

言うと、記録の芽が増える。

だから私は、困らないように困りを潰す。潰す、じゃなくて……封じる。


(痕封)


点呼が終わりかけた、その時だった。


門の外から足音。

靴音が軽い。軽いのに、ぴたりと合っている。歩き方が“調律済み”の人だ。嫌な予感しかしない。


現れたのは、白ではないけど白っぽい上着の男だった。

布がきれい。襟がきれい。髪も整っている。香りはほとんどない。

ないのに、そこにいるだけで空気が少しだけ変わる。


エステルが、ほんの少し姿勢を正した。


「本日、王都の救護監察よりユリウス様が同行視察されます」


ざわ、と空気が動いた。

“監察”という単語は、人の背筋を勝手に伸ばす。背筋が伸びると、息が浅くなる。浅い息は匂いになる。


ユリウスは丁寧に頭を下げた。


「本日はご負担を増やし恐縮ですが、手順の適正確認に参ります。どうぞよろしくお願いいたします」


丁寧。丁寧すぎる。

丁寧な人ほど、断りにくい言葉を丁寧に積む。


レティアが、すぐ間に入った。姉は強い。


「追加の個人情報の記録は?」


ユリウスは笑顔を崩さない。


「必要最小にいたします。必要がある範囲で」


必要は必要。つまり、やる。

丁寧なまま、やる。


私は目立たない位置に下がろうとした。

下がったはずなのに、ユリウスの視線が一瞬こちらを掠めた。


掠めただけなのに、鼻先がくすぐったい。


……嗅がれてる気がする。


スーリが肩の上で、ささやいた。


「ミオ。この人、嗅ぐ」


「小声で」


「こごえ……」


よし。今日はえらい。


ユリウスがエステルの紙束を見て言った。


「番号運用は良いですね。匿名性と安全の折衷です」


褒めた。褒めて囲うタイプ。

囲われると逃げられない。褒め言葉は紙を呼ぶ。紙は予定を増やす。


エステルがにこやかに頷く。


「では参りましょう」


一行が動き出す。

町の外へ向かう道は、石畳から土へ変わり、土から草へ変わる。


空が少しずつ白くなる。

白くなると見えるものが増える。見えるものが増えると、気になるものも増える。増えると、余計な事故が増える。


……増やしたくない。


歩きながら、同年代の参加者が隣で指を握りしめていた。手が白い。冷えている。


声をかけるべきか迷って、結論だけ出した。

“余計なことをしない”と決めた。でも、“何も言わない”せいで転ばれるのは嫌だ。転ばれたら記録が増える。


だから、最小。


「息、合わせよう。せーの」


「……せーの」


吸う。吐く。


「ふー」


肩が少し落ちた。歩幅が揃う。

歩幅が揃うと隊列が落ち着く。落ち着くと護衛が楽になる。楽になると余計な声が減る。声が減ると匂いが落ち着く。


……よし。いい循環。


ふと前方を見ると、ユリウスが少し離れた位置からこちらを見ていた。

話しかけてこない。だから怖い。

話しかけないのに見ている人は、結論を自分の中で作ってから話す。


後方で、記録係の羽ペンが紙を擦る音がした。

気のせいかもしれない。でも、気のせいのほうが怖い。


道中、小さな騒ぎが起きた。


荷車の近くで誰かが足を取られて転び、手のひらを擦った。

痛い、という声。周囲が一瞬寄る。


寄ると空気が濃くなる。濃くなると匂いが寄る。


救護係が動こうとした、その前に、私の足がもう動いていた。


やめて。勝手に動かないで、私。

でも動いたなら、最短で終わらせる。


「洗うだけ」


水筒の水を少し布に含ませ、手のひらをそっと拭く。

相手がびくっとした。


「息、合わせよう。せーの」


「……せーの……」


吐く。


「ふー」


「押さえるだけ」


布を当てて軽く押さえる。血はすぐ止まる。擦過傷。

「固定するだけ」


薄い布で巻いて、紐で留める。きつくしない。ほどけないようにだけ。


「終わり。歩ける?」


「……はい。ありがとうございます」


声が戻る。

戻ると周囲も散る。散ると空気が薄くなる。薄くなると心も軽くなる。


ライルが感心した顔で言った。


「動きが早いですね」


褒めないで。褒めないでください。

褒められると、紙が増える予感がする。


「手順どおりです」


私はさっと列へ戻った。戻るだけ。


ユリウスが近づいてくる。丁寧な距離の詰め方。怖い。


「今の処置。誰に教わりましたか」


声は柔らかいのに、芯がある。

柔らかい刃物は、よく切れる。


レティアが一歩入った。


「手順表に沿っているだけです」


「なるほど」


ユリウスはそれ以上追わず、空気を一度だけ吸った。

上品な吸い方で嗅がないでほしい。


私は心の中で念押しする。


(痕封。今日は痕を増やさない)


◇◇◇


リンド集落は、素朴だった。


井戸のそばに炊事場があり、畑が近い。

人が集まる場所が近いと便利だけど、軽い不調も集まりやすい。

腹の調子、手荒れ、擦り傷の治りの遅さ。生活の端っこに引っかかるもの。


「今日は軽傷対応と衛生指導が中心です」


救護係が言い、村人が頷く。


問題は、こういう時に“順番”が消えることだ。

順番が消えると声が大きくなる。声が大きくなると揉める。揉めると泣く。

泣くと空気が濃くなる。濃くなると匂いが寄る。寄ると……最悪。


だから、順番を作る。


私は小さな紙を出した。番号紙。印は付けない。軽いほうが使いやすい。


「ここに並ぶ人は、この番号紙を取ってください。呼ばれたら前へ。呼ばれるまで座っていいです」


村人が顔を見合わせた。


「そんな紙でいいのかい?」


「いいです。迷わないほうがいいので」


迷わない。

迷わないって、救護の半分だと思う。


番号紙を配ると、列が自然に整った。

整うと、村人の肩が落ちた。肩が落ちると声が下がる。声が下がると落ち着く。落ち着くと手が動く。手が動くと治る。


救護係が私を見て、目を丸くした。


「助かります……」


助かると言われると面倒が増える予感がする。

でも今は、助かるが勝つ。現場が一番。


私は衛生の手順を短く伝える。


「手を洗う。布は干す。傷は水で洗う。鍋と布は煮沸消毒。お湯は沸かしてから使う」


村人が頷いた。通じた。よし。


スーリが影で風を馴染ませている気配がした。

止めない。馴染ませる。今日はえらい。


後方で記録係が淡々と羽ペンを動かしている。

見ないふりが上手いのに、見ている。怖い。


ユリウスは村人に丁寧に話しかけていた。雑談の形。質問の形。匂いを追う形。


「最近、治療のあとに白い薄膜のようなものが残ることはありませんでしたか」


村人が首を傾げる。


「白い? 粉みたいなやつかい?」


「粉とは限りません。薄い膜です。光で見える程度の」


やめて。

私、該当者になりたくない。膜とか言わないで。


(痕封、痕封)


私は心の中で唱えながら、番号紙を回収し、次の人を呼ぶ。


◇◇◇


事件は畑の端で起きた。


鎌が滑った。

前腕に深めの切り傷。血が思ったより出て、村人が固まる。


「布を!」「水を!」

声が飛び、空気がざわつく。


ざわつくと匂いが膨らむ。膨らむと拾われる。


救護係が傷を見て、眉を寄せた。


「深い……縫合を――」


“縫合”の音が、背中を冷やした。

縫うと痕が残る。痕が残ると目立つ。目立つと嗅がれる。嗅がれると……。


だめ。考えるな。

考えると息が浅くなる。浅い息は匂いになる。


私は『だけ』を積む。


洗うだけ。押さえるだけ。固定するだけ。

声を落として、息を合わせるだけ。


「水、少し。ここに」


布を当てる。まず洗う。

血が流れる。流れるけど、慌てない。慌てないだけ。


「息、合わせよう。せーの」


怪我をした人の呼吸は荒い。

荒い呼吸は痛みを増やす。痛みが増えると動く。動くと血が増える。増えると騒ぎが増える。


だから、息。


「……せーの……」


吸う。吐く。


「ふー」


私は布をしっかり押さえた。押さえる位置は傷の上。

強く、でも乱暴じゃなく。押さえるだけ。


「痛い?」


「……痛い、けど……息が……」


「いい。息が戻れば、体は言うことを聞く」


固定のために布を巻き直す。

きつすぎない。緩すぎない。

ほどけないように紐で留める。


その時、ふっと思った。


(止まって)


ただそれだけ。

血が止まって、騒ぎも止まって、視線も止まって、記録も止まってほしい。


次の瞬間。


布の下で、熱がひとつ弾けた気がした。

熱いわけじゃない。熱の“気配”。

皮膚が、ほんの少しだけ、寄る。


「……え」


声が漏れた。最悪。

でも小さい。小さいなら、まだ間に合う。


布の外側から確かめると、血が減っていた。

止まりかけている。いや、止まっている。


「止まった……?」


村人が言い、救護係が息をのむ。


「押さえ方が的確です……」


そう。押さえ方。押さえ方のおかげ。

“別の理由”なんて、今ここにありません。


私は必死に頷いた。


「うん。押さえただけ」


言った瞬間、布の端に、うっすら白いものが見えた気がした。

白い薄膜。光でだけ分かる、薄い膜。


やめて。


スーリが影で、風をひとつ撫でた。

馴染ませる風。白さを薄くする風。

ゼロにはならない。でも薄くなる。


(痕封)


喉が乾くほど唱える。


怪我をした人が呟いた。


「……痛みが、引いた……」


ざわっとした。

でも怖さのざわつきじゃない。驚きのざわつき。


驚きも匂いになる。


だから私は、結論だけ言う。


「今日は動かないで。布は替える。鍋と布は煮沸消毒。水分を取る。終わり」


終わり。終わりは大事。

終わりって言うと、人は終わらせてくれる。

終わったら空気が散る。散ってほしい。散れ。


後方で、記録係の羽ペンが一拍止まった。


……止まった。

今、止まった。


心臓も止まりそうになったので、私は息を整えた。

深くしすぎない。浅くもしない。調律。


ユリウスが遠くからこちらを見ていた。

礼儀正しい笑顔のまま。

でも目が、ほんの少しだけ細い。


嗅いでる。

嗅いでるのに言わない。言わないのが怖い。


ライルが小声で言った。


「すごいですね……」


すごくない。

怖いだけ。


「手順どおり……」


それしか言えなかった。


◇◇◇


休憩時間。木陰。


水を飲む。喉が乾いていた。

乾きすぎて、白い薄膜のことを思い出してしまう。最悪。


レティアが隣に座った。

姉は私を見ない。見ないで周囲を見る。盾の姿勢。


そこへユリウスが来た。丁寧な距離を保って、丁寧に頭を下げる。


「先ほどの処置。手順に忠実でありながら効果が高い。教会の救護運用として好ましい」


褒めた。褒めて囲う。

囲われると、紙が増える。


ユリウスは私ではなく、レティアへ言葉を向けた。

直接詰めない。詰めないのが怖い。逃げ道が消えるまで待つタイプ。


「手技の指導者は?」


レティアが即答する。


「独学です」


「独学でこの安定感は珍しい。訓練歴は?」


「話すほどのことではない」


ユリウスは笑顔のまま、懐から一枚の紙を出した。

軽い紙。嫌な予感しかしない紙。


「王都の救護運用研修のご案内です。希望者のみで結構です」


希望者のみ。

希望者のみと言う人は、希望じゃない状況を丁寧に作る。


紙がレティアの手に渡る。

渡った瞬間、胃のあたりに重さが落ちた。紙なのに。


ユリウスはさらに丁寧に言う。


「精霊契約は珍しくありません。隠す必要はありません」


……そこは当ててくるんだ。

礼儀正しいのに、刺すところは刺す。


私は口を開きかけて閉じた。

言葉は匂いになる。匂いは拾われる。拾われたくない。


ユリウスが続ける。


「ただ、聖癒の痕は消えにくい。丁寧に扱いましょう」


聖癒。

その単語が、背中をもう一段冷やした。


笑わないと不自然になる。

不自然は目立つ。目立つと嗅がれる。


だから、最小で返す。


「……気をつけます」


ユリウスは礼儀正しく頷いた。


「ええ。では、また」


“また”。

また、が紙の上で確定した音がした。


◇◇◇


帰路。


集落の人たちは手を振ってくれた。

「助かった」「分かりやすかった」「迷わなかった」


言葉は温かい。温かいのに胃が少し縮む。

褒め言葉は紙を呼ぶ。紙は予定を増やす。


夕方の風が向きを変える。

スーリが肩の上で囁いた。


「ミオ。あの人、まだ嗅いでる」


「小声で」


「こごえ……」


よし。今日のスーリ、優秀。


レティアが紙束を握り直した。研修の案内。軽いのに重い。


私は空を見上げた。

白く始まった一日が、薄い朱に変わっていく。

空はきれい。きれいなのに、安心できない。


「明日、早起きするだけ」


口に出して軽くする。軽くするために言う。


でも手は、紙が入っていないはずの自分のポケットを無意識に押さえていた。

紙が怖い。紙は軽いのに、人生を押す。


軽い紙が増えるほど、私の平穏は忙しくなる。

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