第5話 講習、受付番号に裏切られる
紙って、軽い。
薄い。折れる。燃える。
なのに、ときどき人生を決めにくる。こちらの同意なしで。
朝。玄関の隙間から、白い封筒が滑り込んだ。
さら。
封蝋はない。飾りもない。
でも、教会の印が「きっちり」押してある。
この「きっちり」が怖い。丁寧に逃げ道を潰す気配がする。
私は封を開ける前から、嫌な予感がしていた。
嫌な予感って、当たるために存在してる。
中身は「救護講習のご案内」。
文字は丁寧。行間も丁寧。
丁寧すぎて、逃げ道の場所が地図に載ってない。
日時。場所。持参物。注意事項。
そして、一番下。
「欠席の場合は理由をご記入のうえ、前日までに提出してください」
……欠席の手順まで用意されてる。
丁寧。丁寧すぎる。
欠席理由?
「生きていたいから」って書いていい? だめだよね。知ってた。
「ミオ」
背後から姉の声。レティア。
私は案内紙を差し出した。
レティアは目を走らせて、短く言った。
「出る」
「……行かない、は?」
「ある。消える、がそれ。だから無し」
正しい。いつも正しい。
正しいから怖い。正しいって、私の逃げ道を秒で消す。
肩の上で、透明な気配がむくっと起き上がった。
「講習? お勉強?」
精霊スーリ。今日も元気。
元気があると風が出る。風が出ると匂いが動く。つまり困る。
「スーリ、静かに」
「静かにする!」
宣言が元気。
……って思ったら、スーリは口に手を当てて、こくこく頷いた。
「……しー」
えらい。
今日は本当にえらい。何かの前触れでも、えらい。
私は机に案内紙を置いて、持参物を指で追った。
「布、手袋、紐、灰、薬草……」
レティアが頷く。
「匂いの管理。動線。帰り道」
「帰り道まで決まってる……」
「決める。迷うと顔が上がる」
顔が上がると見つかる。
見つかると確定する。確定すると、余計なものが増える。
増えると私は詰む。
私は髪をまとめた。
髪は整う。整うと安心する。安心すると呼吸が戻る。呼吸が戻ると手も落ち着く。
……心は整う、じゃない。心は調律。ここは統一。私の中のルール。
「調律……調律……」
小さく唱えると、スーリがきょとんとした。
「調律って、なに?」
「私が崩れないための合言葉」
「合言葉!」
精霊は「合言葉」が好き。
たぶん、秘密基地の感覚なんだと思う。
◇◇◇
教会は白かった。
白い壁。白い布。白い床。
白いのに空気が冷たい。冷たいのに匂いは濃い。
紙と蝋と香油の匂い。石の匂い。人の気配の匂い。
そして、足音がよく響く。
こつ、こつ。
響くと「ここにいます」って言ってるみたいで落ち着かない。
いや、入口で既に「ここにいます」なんだけど。
でも追加で言いたくない。できれば無言で生きたい。
受講者は多かった。
同年代っぽい子が目立つ。緊張した顔。背筋が硬い。手がそわそわ。
わかる。私も同じ。
違うのは、私は緊張が匂いになるところ。ほんと困る。
レティアは私の半歩前。歩幅が一定。肩がまっすぐ。
姉の背中は、いつも「段取り」の形をしている。
スーリは私の影にぴったり沿って、気配を薄くしていた。
えらい、二回目。
受付に近づくと、机の上に名簿が見えた。
羽ペン。インク壺。押印の台。
“記録”の道具が、整然と並んでいる。
……ああ、だめ。
見ただけで喉がきゅっとなる。
受付の修道女が、にこやかに笑った。
「おはようございます。救護講習ですね。受講者名の記入をお願いします」
来た。名前トラップ。
罠が丁寧。丁寧な罠って、いちばん嫌。
息が浅くなった瞬間、レティアが自然に前へ出た。
「番号で呼ぶ運用はできますか?」
修道女の笑顔が、ほんの一ミリ揺れて、すぐ戻った。
教会の人は戻るのが速い。怖い。
「はい。本日は受付番号でお呼びします」
……助かった。番号、君は味方。たぶん。
修道女は続ける。
「ただ、居住区と年齢帯だけ控えさせてくださいね。安全管理のためです」
安全管理。
強い言葉。反論しづらい形の強さ。
レティアが、柔らかく削る。
「居住区までで足りますよね。家名は不要で」
「もちろんです。家名は不要です」
「年齢帯も、幅で」
「はい、幅で」
姉が“記録の範囲”を最小に調律していく。
剣より強い交渉って、こういうやつ。
修道女が小さな紙片を差し出した。
「こちらが受付番号です。なくさないようにお願いしますね」
なくしたら?
たぶん名前を書く羽目になる。最悪。
私は紙片を握りしめた。
「……番号で呼ぶなら匿名」
レティアが横目で言う。
「匿名は味方じゃない時もある」
やめて。希望を先に殺さないで。
受付の横で配布資料が渡された。救護の手順表。薄い紙。
「これに沿って進めます。講義のあと実技がありますので」
にこやかな声。
にこやかな手順。
にこやかに逃げ道が消えていく。
◇◇◇
講義室は静かだった。
静かなのに、人の気配が多い。
多いと異物が紛れる。紛れた異物は、後から刺さる。ほんとに刺さる。
前に立つ修道女は、さっきの人。エステルと名乗った。
「本日は、救護の基本を確認します」
声が柔らかい。言葉も柔らかい。
でも内容は硬い。硬いのは安心の形でもある。
洗浄。止血。固定。
器具の煮沸消毒。
怪我人の恐怖への声かけ。
「慌てない。手順を飛ばさない。声を落とす。呼吸を合わせる」
……それ、私が普段やってるやつ。
普通だよね? 普通だよね?(確認したい)
エステルが、さらっと言った。
「一定の手順を身につけた方には、実地研修……巡回救護のご案内があります」
巡回救護。
軽い言葉に見えて、内容が重い。
町の外。人が少ない。匂いが広がる。逃げ道が細い。
背中が冷えた。
レティアは表情を変えない。変えないのが怖い。
スーリが影の中で囁いた。
「ミオ、白い人、見てる」
「白い人?」
私は視線を動かして、後方を見た。
白い上着の人がいる。修道服じゃない。
手元に紙束。ペン先が音もなく動く。
視線は受講者の手元を追っている。呼吸も追っている。たぶん、風も。
記録係。
見ないふりが上手いのに、見ている。
……やだな。
講義が進むほど、「やれる」と「やりたくない」が同時に膨らむ。
やれる。
でも、やれると案内される。
案内されると外へ引っ張られる。
……上手くできるのが罠って、人生が意地悪すぎる。
◇◇◇
実技の時間になった。
机が並べ替えられて、布と包帯と道具が配られる。
煮沸消毒の説明用に鍋と小さな炉。準備が良すぎる。逃げる理由が消える。
私はペアを組むよう指示され、同年代の女の子と向き合った。
栗色の髪。目が泳いでいる。手が小さく震える。
「……わ、私、リナ」
「ミオ」
短く名乗った。
名乗りたくないけど、ここで名乗らないと不自然。
不自然は目立つ。目立つのは匂いより危険。
リナは手順表を握りしめている。
「これ、間違えたら怒られるかな……」
怒られるより記録される方が嫌、とは言えない。
「怒られない。たぶん。……手順通りにやれば大丈夫」
「手順通り……」
「うん。『だけ』でいく」
「だけ?」
「洗うだけ。押さえるだけ。固定するだけ。余計なことしないだけ」
リナの眉が少し下がった。困った顔のまま、ちょっと安心した顔。
よし。効いた。
魔法じゃない。声かけだけ。なのに効く。ありがたい。
エステルの合図で実技開始。
想定は「手のひらの切り傷」。赤い液で再現。匂いはほぼない。
でも“血っぽい空気”って、それだけで胸がざわつく。
私は手袋をはめた。
手袋だけで落ち着く。落ち着くと呼吸が戻る。呼吸が戻ると匂いが暴れにくい。
「まず、洗うだけね」
水で布を濡らして、リナの手のひらをそっと拭く。
圧は弱く。痛みが出ないように。
でも手順は外さない。
リナが息を止めた。
「息、合わせよう。せーの」
「……せ、せーの」
吸う。吐く。
「ふー」
リナの肩が落ちた。
落ちると手の震えも落ちる。人間はわかりやすい。助かる。
「次、押さえるだけ。ここに布。自分の手、添えて」
「こ、こう?」
「うん、上手い」
上手いって言うと上手くなる。
この世界、単純で助かる。たまに。
固定。包帯を巻く。きつくしない。ほどけないようにだけ。
巻き終わりを結ぶ前に手順表を指で確認する。
リナが小声で言った。
「……ちゃんと見てる」
「見ないと飛ぶから」
「飛ぶ?」
「手順。緊張すると飛ぶ。飛ぶと、後で困る」
本当に困るのは匂いが増えることだけど、そこは胸にしまう。
リナが小さく笑った。
「ミオ、真面目だね」
「……普通」
普通のつもり。
なのに周囲の視線が寄ってくるのが嫌だ。
ひそひそ声が聞こえる。
「手順、きれい……」
「落ち着かせ方、上手くない?」
「え、あの子、教会の人?」
違う。私は“名前を書きたくない人”なだけ。
その瞬間。
別の班で赤い液の容器が倒れた。
どばっ。
床に赤が広がって、ざわっと空気が動く。
人が動く。声が上がる。呼吸が乱れる。
乱れると、匂いが動く。
私の胸が熱くなる。
だめ。
この熱は、漏れる。
「ミオ」
スーリの囁き。
「風、暴れそう」
声に出すと余計なものが混じる。だから心の中だけ。
(痕封)
スーリが空気の揺れを抑えた。止めるんじゃない。馴染ませる。
教会の空気を、教会の空気のままに保つ。
ほんの数秒。
でもその数秒で、匂いの広がりは遅くなる。遅くなるなら、十分。
後方の記録係が、こちらを見た気がした。
目が合ったわけじゃない。けど、視線の角度が変わった。ペン先が一拍止まった。
リナが小声で言う。
「今、空気……落ち着いた?」
「気のせい」
即答。気のせい最強。
実技は再開され、赤い液は拭き取られ、煮沸消毒の説明へ移った。
エステルが鍋に水を張り、火を点ける。
「器具は煮沸消毒。十分に沸騰させてから一定時間」
お湯が沸く音が、ことり、ことりと響いた。
白い部屋で、沸騰の音だけが妙に大きい。
この音、落ち着く。
落ち着くと、また余計なことをやってしまいそうで怖いけど。
◇◇◇
実技が終わった。
受講者たちがほっと息を吐き、少し笑い声が戻る。
空気が明るくなる。明るいと匂いが薄まる気がする。気がするだけでも救い。
エステルが前に立った。
「皆さん、お疲れさまでした。とても良い動きでした」
褒めるのも丁寧。
丁寧は油断を呼ぶ。油断すると、囲いが刺さる。
エステルは、にこやかに続けた。
「本日の中で、手順が特に安定していた方には、次回の実地研修……巡回救護の参加案内をお渡しします」
来た。
来る。やっぱり来る。丁寧に来る。
「お名前ではなく、受付番号でお呼びしますね」
番号。君は匿名の味方だったよね?
……ね?
エステルが紙を見て淡々と読み上げる。
「受付番号、二十七番」
別の子が立ち上がる。
「受付番号、三十九番」
次。
お願い。飛ばして。見落として。番号って見落とされるためのものだよね?
ない? そう。
エステルが少しだけ顔を上げた。
「受付番号、十二番」
私の指が紙片を握りしめたまま固まった。
……番号、裏切った。
レティアが私の背中を軽く押す。軽いのに逃げられない押し。
私は立ち上がった。
足元だけ見て歩いた。変な音を立てたくない。
前に出ると、エステルが笑った。
「とても落ち着いた手順でした。声かけも上手でしたね」
声かけ。
ただの「息を合わせよう」なのに。
上手って言われると、上手い人扱いになって、面倒が増える。やめてほしい。
エステルは紙を差し出した。
「こちらが、実地研修の参加案内です」
薄い紙。軽い紙。
さっきと同じ紙なのに、手に乗ると重い。
「参加をご希望でしたら、当日こちらを受付に提出してください。仮参加票も兼ねています」
仮。
仮って言うと安心する。安心すると出す。出したら確定する。
教会、言葉の使い方が上手すぎる。
レティアが一歩前へ出た。
「確認です。危険度、範囲、同行者、手順。判断材料をください」
エステルは笑顔のまま、きちんと答える。
「危険度は低めの巡回です。町外の集落で軽傷対応が中心。同行は救護係と護衛が付きます」
「日程は」
「来週。午前集合、夕方解散予定です」
「持参物は」
「本日と同じで構いません。詳細はこの紙に」
丁寧。丁寧に逃げ道が細くなる。
私は紙を受け取り、頭を下げた。
「……ありがとうございます」
声は震えなかった。
たぶん姉が横にいるから。姉の背中が、私の調律を支えてる。
◇◇◇
講習が終わり、受講者たちが外へ流れた。
入口で配布物の確認と、番号紙の返却。
「返却」という単語だけで緊張する。
返却の瞬間にミスると、名前を書く羽目になりそうだから。
私はレティアの後ろにぴったり付いた。
一ミリでも離れると、空気に嗅がれそう。
スーリも影の中で静か。えらい、三回目。
外へ出た瞬間、風が頬を撫でた。
……風は境界を知らない。
さっきの言葉が、嫌な形で浮かぶ。
風上。
そこに黒い外套が立っていた。
カイル。
指の香袋。鼻先の銀具。
空気だけを見ている目。
私は足を止めかけて、止めなかった。
止まると「見てます」って言ってしまう。できれば黙って通り過ぎたい。
カイルが軽い口調で言った。
「番号で逃げたのに、参加案内もらったね」
……なんで知ってるの。
嗅いだ? 見た? 両方? 欲張りすぎ。
私は『だけ』で返す。
「帰るだけ」
カイルは笑った。笑い方は軽いのに目が軽くない。
「巡回救護は匂いが増える日だ。買い手が動く」
買い手。
その言葉が嫌いだ。人に値段を付ける人の言葉だから。
「俺は教えるだけ。匂いの管理手順、欲しいだろ?」
私は口を開きかけて閉じた。
余計な言葉は匂いになる。匂いは拾われる。
だから、これだけ。
「今は話さない」
カイルの眉が少し上がった。
「偉い」って言いたそうな顔。腹が立つ。
レティアが一歩前に出る。
「ここは教会の敷地。取引を持ち込むな」
カイルは肩をすくめた。
「風は境界を知らない」
またそれ。上手いのが腹立つ。
カイルは私の手元を見た。
参加案内。仮参加票。薄い紙。
「それ、君の価値が上がる紙だよ」
私は紙を握りしめた。
しわになると現実になる。現実は増える。
「……紙だよ」
カイルは笑う。
「紙は軽い。でも記録は重い」
それだけ言って、踵を返した。
去り方が“去ってない”。風上を取り直す歩き方だ。
私は息を吐いた。吐けた。
吐けたのに胸が軽くならない。
レティアが私の肩に手を置く。
「帰る」
「……うん」
スーリが影の中で小さく言った。
「ミオ、がんばった」
「がんばってない。『だけ』でやっただけ」
「それが、がんばった、ってこと」
精霊の言葉は、たまに真っ直ぐで困る。
真っ直ぐすぎると胸が熱くなる。熱は漏れる。漏れたくない。
私は笑って誤魔化した。
「帰ったらノートに書く。紙に負けないために」
「紙に負けない!」
スーリが拳を握る。静かに握る。えらい。
帰り道、風が少しだけ優しくなった。
でも私は知っている。
優しい風ほど、匂いを運ぶ。
手の中の参加案内が、軽いまま重かった。
私の平穏、また忙しくなる。




