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第4話 匂いの追跡者が教会より先に来る

匂いって、言い訳がきかない。


「気のせい」で流せない。

「たまたま」で誤魔化せない。

目に見えないのに、見つける側だけはやたら正確だ。


朝。井戸端で顔を洗う水音が、いつもより大きく聞こえた。


ぱしゃ。ぱしゃ。


水は冷たい。冷たいのはいい。冷たいと落ち着く。

落ち着くと指先の熱が引く。指先が熱くなると調律が漏れる。漏れると痕が残る。


……全部つながってて嫌になる。


私は袖をまくって、手首のあたりを見た。

布の繊維の奥に、ほんのり赤茶が残っている。落ちた“つもり”の血。


「……残ってる」


小声で言った瞬間、肩口がふわりと温かくなった。


「残ってる!」


即答。元気。やめてほしい元気。


「スーリ、声」


「小さくする!」


小さくする宣言が、もう小さくない。


井戸の周りの空気がくるりと回って、透明な輪郭が浮かぶ。

精霊スーリ。透明な髪に、きらきらの目。足は地面につけない。つける気もない。


スーリが鼻をひくひくさせた。

精霊の鼻って何、と思うけど、今は突っ込まない。突っ込むと余計な風が立つ。


「ミオの匂い、昨日より薄い」


「……薄くしたから」


自分に言い聞かせるみたいに答える。

薄くした。散らした。収束した。やった。やったはず。


スーリが首をかしげた。


「でもね、他の匂いが混ざった」


「……他?」


スーリは空気を抱えるみたいに両手を広げる。


「鉄と獣と、焦げた革。狩る匂い」


狩る匂い。


教会の白い匂いじゃない。

丁寧な紙とインクの匂いでもない。


もっと、生々しい。

獲物を見る目の匂いだ。


背中が冷たくなったところで、家の戸が開いた。


「ミオ。顔、上げて」


姉の声。レティア。


レティアは剣を腰に下げたまま、井戸端まで出てきた。

目が、いつもより少しだけ鋭い。


「町の方、変な空気が流れてる」


「……スーリが「狩る匂い」って」


レティアは短く息を吐いた。


「買い出しは私が行く」


「……私、行かない」


言ってから気づく。言い方が子どもっぽい。最悪。


レティアは即答した。


「行く。守る」


「守る、って、目立つ」


「人目の少ない道を通る。手順は私が組む」


短い。迷う余地がない。


私は顔を拭いて、袖を下ろした。

血の匂いを隠すために袖を下ろすって逆だと思う。

でも、見えるものを隠すと安心する。安心は必要。


スーリが私の肩口にぴたりと寄った。


「わたし、静かにする」


「お願い」


「嗅ぐのはする」


「……嗅ぐのは、して」


嗅ぐのは情報。

情報は命。いまの私は、情報がないとすぐ転ぶ。


◇◇◇


市場は、いつも通り賑やかだった。


野菜の山。干し肉の匂い。パンの焼ける匂い。

人の声。笑い声。喧嘩の声。値切りの声。


この“いつも通り”が、逆に怖い。

いつも通りの中に、異物は混ざる。


私はレティアの半歩後ろ。目線は低め。

スーリは私の影に隠れるみたいに気配を薄くしている。


……えらい。今日は本当にえらい。

このまま、ずっとえらくいてほしい。


「ミオ。足元」


レティアが小さく言う。


「石畳の目地。踏むところ、決めろ」


「踏むところ……?」


「迷うと、顔が上がる」


顔が上がると見つかる。

見つかると匂いの主だって確定する。

確定したら終わる。


私は頷いて、目地を選んで歩いた。

目地の上を歩く人生。細い。私の平穏、細すぎる。


その時。


市場の端、風上に立つ人影が見えた。


黒い外套。

指に小さな香袋。

鼻先に銀色の具。鼻輪みたいで一瞬だけ笑いそうになるのに、笑えない。


その男は地面を見ていない。

人も見ていない。

空気だけを見ている。


嗅いでいる。


男が空気を吸った。

その瞬間だけ、周囲の匂いが全部引いていく気がした。

私の胸が勝手に浅くなる。


男が、ぽつりと言った。


「……甘い。血に混ざった甘さ」


私は袖を握りしめた。


血。

私の血。

私の“残り”。


「ミオ、息」


スーリが耳元で囁く。


「痕封?」


「……まだ」


ここで痕封を使うと風が止まりすぎる。止まりすぎると不自然。

不自然は、匂いより目立つ。


レティアが一歩、男の導線に入った。

自然に。肩をぶつけない距離で。

でも確実に、風上を塞ぐ位置。


「迷子か?」


レティアの声は軽い。軽いのに逃げ道がない。


男は薄く笑った。目だけ笑ってない笑い。


「迷子じゃない。匂いが面白くて」


「香水でも探してるの?」


「香水じゃない。命が濃い匂い」


命が濃い。

言い方が上手いのが、嫌だ。


レティアが声を落とした。


「町で狩りをするな」


男は肩をすくめる。


「狩らないよ。値札を付けるだけ」


値札。

人に。

値札。


胃の底がきゅっと縮んだ。


レティアは表情を変えずに言った。


「値札を付けたいなら、まず自分の名前を出せ」


男は笑う。今度は口角だけ。


「名前? 名乗ったら、逆に値札が付く」


言い返しが軽いのに、理屈が冷たい。

教会の「守るため」よりずっと嫌だ。

守る気がない分、遠慮がない。


男は指の香袋をくるりと回してから、レティアの後ろへ視線を流した。

流しただけ。見たとは言わない。

でも、私の背中がひりついた。


「……いい匂いがする」


レティアが一歩だけ詰める。


「この町の匂いだ」


「違う」


即答。即答が怖い。


男は鼻先の銀具を指で弾いた。小さく、ちん、と鳴る。


「この匂いは、守られてない」


その言い方で、私は確信した。


教会は「守る」で囲ってくる。

この男は「守られてない」で狩場にする。


レティアが息を吐いて言う。


「用がないなら帰れ」


男は楽しそうに笑った。


「用はあるよ。匂いの主に、今の値段を教えに来ただけ」


値段。

やめて。

私を数字にしないで。


男は踵を返した。

でも、去り方が“去ってない”。風上を取り直す歩き方。距離を取る歩き方。

追う歩き方のまま、いなくなる。


レティアが私の肩を掴んだ。


「帰る」


「……うん」


スーリが私の影の中で小さく震えた。


「ミオ、あの人、嗅いだ。いっぱい嗅いだ」


嗅がれた。

それだけで、今日は負けた気がした。


◇◇◇


帰り道。


裏路地。人の少ない道。

それでも背中が落ち着かない。


スーリが、小声で言う。


「ついてきてる。風上を取ってる」


「……まだ?」


レティアの返事は短い。


「しつこい」


しつこいのは才能だ。

才能がある相手は怖い。追いつかれる。


家の門前に着いた瞬間、足が止まった。


石の上に小さな紙。

重石代わりに小石が置いてある。飛ばない。段取りがいい。嫌だ。


レティアが先に拾って、目を走らせた。


紙の文字は乱れていない。丁寧すぎるほど丁寧。


その匂い、長く持たせたいなら管理しろ。

管理できないなら、奪われる。

匂いは増える。対策は増やせ。

今日は嗅いだ。次は、手を伸ばす。


私は息を吸って、吐けなかった。

吐けないと指先が熱くなる。

熱くなると余計なことが漏れる。


「ミオ、息」


スーリが囁く。


「……痕封?」


私は首を振った。


「今は、だめ」


今ここで痕封を使うと、風が止まって逆に“いる”って知らせる。

いや、もう知らせてるけど。知らせてるなら黙っててほしい。


レティアが紙を畳んだ。


「引き離す」


「どうやって」


「匂いを餌にする」


姉の顔が仕事の顔になる。

この顔の時の手順は速い。速すぎて置いていかれる。


「ミオは家に残る」


「……残ると狙われる」


「だから、狙われない匂いを作る」


レティアは棚から古い布を取り出した。

血が落ち切らない布。落ち切らない匂い。


「これを持って、私が別導線へ行く。追わせる」


「……騙せる?」


レティアは一瞬だけ目を細めた。


「騙せるか試す。試さないと、次が作れない」


次が来るのが確定してる言い方。怖い。


スーリが胸を張った。今日は胸を張っても声を出さない。えらい。


「わたし、風で散らす!」


「散らしすぎると目立つ」


私が言うと、スーリは頬をふくらませた。


「ちょっとだけ散らす!」


「……ちょっとだけ、ね」


「ちょっとだけ!」


レティアが布を巻いて、扉の外へ出た。

足音が遠ざかる。私は家の中で、息をするのが下手になる。


しばらくして。


スーリが窓辺で耳を澄ますみたいに空気を抱えた。


「……追った。追ったけど」


「けど?」


「止まった」


止まった。

偽装が効かなかった、ということ。


スーリが小さく言う。


「匂いが、軽いって言った」


軽い。

血はある。布もある。

でも“軽い”。つまり、血だけじゃない匂いを嗅いでる。


私の中で、嫌な理解が形になる。


血の匂いじゃない。

“甘い匂い”。

私が助けたいって思った時に漏れるやつ。


「……やだな」


思ったより小さい声が出た。

小さいと崩れにくい。崩れないで。今日は。


◇◇◇


夕方。


近所の小さな広場で子どもが転んだ。


石で手のひらを切って、血が滲む。

母親が慌てて叫ぶ。

周りが集まりかける。噂の準備が始まる。


私は足が一歩出そうになった。


助けたい。

でも助けると匂いが濃くなる。

濃くなったら、あの人が来る。


「ミオ」


レティアの声が背中から刺さった。


「今日は『だけ』でいけ」


『だけ』。


私は頷いた。

短く。余計なものを挟まずに。

余計なものは匂いになる。


子どもの前にしゃがむ。

手のひらの傷。深くはない。血は出る。痛いはず。


私は笑顔を作る。作るだけ。魔法は使わない。


「大丈夫。洗うだけね」


井戸の水を桶に汲んで、布を濡らして、そっと洗う。

洗うだけ。


痛みが走って、子どもが顔をしかめる。


「息、合わせよう。せーので吸って、ふーって吐く」


子どもが私を見る。泣きそうな目。


「せーの」


吸う。

吐く。


「ふー」


子どもの肩が少し落ちた。

痛みは消えない。でも逃げ道ができる。


私は布を当てて押さえる。


「押さえるだけ。ぎゅってしない。ここに手、置いてて」


子どもに自分の手を添えさせる。

痛いのに、自分で押さえると怖さが減る。

怖さが減ると泣きが減る。泣きが減ると、人が集まりにくい。


スーリが私の肩口で小さく息を吐いた。

ほんの少しの風。ひんやりして、気持ちいい風。


子どもが目を丸くした。


「……涼しい」


「風、たまたま」


即答。たまたま最強。


布を替えて、固定する。

固定するだけ。

きつくしない。目立つこともしない。


母親が、ほっと息を吐いた。


「ありがとう……」


その声が胸の奥をくすぐる。

助けられた。魔法抜きで。

それだけで、少し救われる。


でも同時に、スーリが小さく囁いた。


「ミオ、匂い、広がりそう」


広がる。

広がると嗅がれる。


私は息を吐いた。

声を出さずに合言葉だけを心の中で転がす。


(痕封)


スーリがぴたりと止まる。

風の揺れが止まる。

匂いの拡散が少しだけ遅くなる。


完全には止まらない。

止まらないけど、遅くなるなら意味がある。

遅くなるなら、逃げ道が作れる。


私は子どもの頭を軽く撫でた。


「今日は、偉い」


子どもがちょっとだけ笑った。

癒し。小さい癒し。


その瞬間。


遠くの路地。

風上の影に、誰かが立ち止まった気配がした。


見えない。

でも分かる。

空気が“嗅がれた”感じになる。


スーリが、怯えた声で言った。


「……そこだ、って言った」


背中が冷える。


来る。

次が来る。


◇◇◇


夜。


レティアが戻ってきた。

顔は平然としている。でも、靴の泥が乾ききっていない。走った足だ。


「騙せなかった?」


私が聞くと、レティアは短く頷いた。


「血の匂いだけじゃない」


「……やっぱり」


レティアは椅子に座って、指で机を二回叩いた。


「匂いを管理する」


管理。

教会の言葉みたいで嫌なのに、必要なのがもっと嫌だ。


私はノートを開いて羽ペンを握った。

書くと境界線が引ける。境界線があると崩れにくい。


【匂い対策】

・血の布は袋に密封

・井戸で下洗い

・灰+薬草で揉む

・干す場所:風下を避ける/人の通り道を避ける

・井戸:長居しない

・今日は『だけ』

・痕封=風を揺らさない(拡散を遅らせる)


書いていると、スーリが覗き込んだ。


「ミオ、文字、きれい」


「現実逃避」


「現実逃避って、なに」


「……今は説明しない」


説明すると長くなる。長いと余計なことが増える。余計なことは匂いになる。

私の人生、全部匂いに結びつくのやめてほしい。


その時、玄関の隙間に、また紙が滑り込んだ音がした。


さら。


レティアが即座に立ち、紙を拾う。

私は息を止めかけて、吐く。止めると固まる。固まると漏れる。


紙には短い文字。


次は、七日後。

教会の講習の日。

風上で待つ。


教会。講習。七日後。

枠組みと市場が、同じ日に重なる。


喉が鳴った。


「……二正面」


レティアが紙を握り潰さずに丁寧に畳んだ。

畳むのが怖い。畳むのは“受け取った”ってことだから。


「いい」


レティアは静かに言った。


「日付が出た。手順が組める」


姉の強さが、いまは救いだ。

でも救いって言葉に頼りすぎると足元が滑る。


スーリが私の肩口に寄って、小さく言う。


「ミオ。匂い、怖い?」


「怖い」


即答した。

即答できたのは、たぶん、まだ折れてない証拠。


スーリが、ちょっとだけ胸を張って、でも声は小さく言った。


「わたし、風、上手になる」


私は息を吐いて頷く。


「お願い。ちょっとだけで、ね」


「ちょっとだけ!」


その返事が少しだけ笑える。

笑えるうちは、まだ大丈夫。


だけど、紙の文面が頭から離れなかった。


教会の講習の日。

風上で待つ。


噂と記録と匂いが、同じ日に集まる。


私の平穏、忙しすぎる。

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