第25話 地下って言葉、入口から嫌なんだよね。
東水路の地下入口は、見た目からして「湿ってる」って顔をしていた。
石の階段。黒い格子扉。錆びた蝶番。
足元には、薄い水が溜まっている。溜まっているというより、ここが呼吸して吐き出した湿気が、そのまま水になって落ちたみたいな感じ。
地上の風は、入口で切れる。
代わりに来るのが、湿気と、音と、匂い。
「……地下って言葉、入口から嫌なんだよね」
言った瞬間。
「……嫌なんだよね」
自分の声が壁に当たって、きっちり戻ってきた。
「……やだ」
「……やだ」
二回目が来る前に、私は口を押さえた。
地下って、声まで増える。増えるの、ほんとに嫌だよね。
肩の上のスーリが、くすっと笑う。
「響く。恥ずかしい」
「言うな」
サイラスは格子の向こうを見て、短く言った。
「先頭は俺が行く」
クラリスが丁寧に頷く。
「安全を優先します。無理に追いません」
丁寧に言われると、落ち着く。
落ち着くけど、落ち着いた瞬間に“油断しそうな自分”が見えてしまうのが、また嫌だ。
レティア姉が無言で私の外套の襟を直した。
胸元の内側に隠してある、透明な葉っぱみたいな入館証が、じわっと熱を持つ。
光ってはいない。
たぶん。
でも熱いのは確実で、熱いだけっていう状態がいちばん厄介だ。
「熱いだけが一番困るんだよね……」
スーリが、しれっと追い打ちを入れる。
「光ってない。熱いだけ」
「それ、安心材料なのか不安材料なのか、判別できないんだよね」
「安心しないで。濃い」
スーリは短い。短いのに刺さる。
私は深呼吸を一回だけして、鼻の働きを半分にした。できてるかは分からないけど、気持ちだけでも。
ベルトランが鼻の奥を押さえた。
「甘い匂いがある。薄いのに残るやつだ」
ルーファスは階段の段数と壁の継ぎ目を目で追っている。
地下でも落ち着いてるの、逆に怖い。
「湿気が多い。匂いが溜まりやすい構造です」
「構造って言葉、今は聞きたくないんだよね」
クラリスは丁寧に微笑む。
「聞かないと危険です」
丁寧に正論を投げないで。痛い。
◇◇◇
入口の踊り場で、最低限の準備をする。
サイラスが先に降りて、足場を確かめる。
クラリスが丁寧に指示する。
「手袋。布。水。簡易灯り。余計な荷物は持ちません」
余計な荷物って、だいたい私のことだよね。
そう思ったけど、言うと増えるから黙っておく。
ベルトランは手袋を二重にして、布を腕に巻いた。匂い移り対策らしい。
ルーファスは小さな板と、針みたいに細い筆記具を出している。紙じゃない記録、って顔をしてる。
「記録します。分岐、壁材、反応点」
「全部記録する人、味方だとありがたいけど、敵だと怖いんだよね」
「味方です」
ルーファスが即答する。真面目すぎる即答。
レティア姉は無言で、私の外套の裾を結び直した。
濡れた石に引っかからないように。転ばないように。目立たないように。
姉の手は、必要なところだけ動く。
丁寧すぎないのに、ちゃんと効く。こういうのは増えてほしい。増えるのは嫌だけど。
スーリが私の髪のあたりに触れた。
ひんやりした気配が首筋を通って、焦りが一段だけ落ちる。
「深呼吸。鼻は働かせすぎない」
「鼻を働かせすぎないって、難しい指示だよね」
「ミオは働かせると拾いすぎる」
「拾いたくて拾ってるんじゃないんだよね」
◇◇◇
階段を降りると、空気が変わった。
湿気が肌に貼りつく。石が冷たい。音が硬い。
水路の流れる音が遠いのに近くて、距離感が信用できない。
甘い匂いは薄い。薄いのに、壁に貼りついている。
粉砂糖みたいで、でも粉じゃない。鼻の奥に残るタイプ。
「……甘い」
私が呟くと、ベルトランが頷いた。
「模倣香だな。精霊っぽく見える甘さ」
スーリがきっぱり言う。
「精霊じゃない。作った甘さ」
「作った甘さって、嫌な言い方だよね」
「嫌だから、そう言う」
容赦がない。
サイラスが立ち止まって、手を上げた。
前方の足元に、浅い水が薄く広がっている。水たまりというより、床が濡れたまま呼吸してるみたいな感じ。
「滑る」
「滑るの、地下で一番嫌だよね」
言った瞬間、怖さが増して、足が余計にぎこちなくなる。
こういうのは、思い込みが敗北を呼ぶ。
クラリスが丁寧に言う。
「距離を取って、一人ずつ渡ります」
一人ずつ、って言い方がもう嫌だ。目立つ。
私が足を出した、その時。
つるっ。
ほんの少し。ほんの少しだけ、足首が裏切った。
「……っ!」
転ぶ、と脳が言った瞬間、レティア姉の手が背中に当たった。
押さない。引かない。支えるだけ。無言で。
心臓が変な跳ね方をして、口が勝手に動いた。
「距離。風。水。……足元。目はこすらない」
言った瞬間。
薄く広がっていた水が、すうっと流れた。
段差の形が見える。石の欠けが見える。滑る場所が見える。
見えると怖さが減る。
怖さが減ると足が戻る。
「……」
サイラスが低く言った。
「助かった」
「助かったって言わないでほしいんだよね。増えるから」
言ってしまった。自分で増やしてる気がする。最悪だよね。
スーリが耳元で囁く。
「合言葉にする?」
「合言葉にするのも嫌なんだよね。定着したら増えるから」
「でも、守れる」
短いのに正しい。嫌だ。
クラリスが丁寧に頷いた。
「地下用の口伝にしましょう。今の言葉は有効です」
「有効って言い方、急にお堅いんだよね」
「でも有効です」
やめて、丁寧に押し固めないで。
レティア姉が小さく、私の名前だけ呼んだ。
「ミオ」
それだけで私は黙る。
姉の声は、不思議と増えない。
◇◇◇
少し進むと、横穴があった。保守用の道具箱が置かれている。
そこから現場の人が顔を出した。
「おお、誰だ? ……って、サイラスか。お前、こんなところで何してんだ」
声が早い。元気。地下でその元気は強い。
サイラスが短く答える。
「調査だ。最近ここで事故が増えてる」
「増えてる増えてる。眠くなる匂いがする。作業中にだぞ? 冗談じゃねぇ」
現場の人は工具袋を肩にかけ直した。
目が赤い。こすった跡がある。見ただけで嫌な連鎖が見える。
クラリスが丁寧に前へ出る。
「ご協力ください。あなたは?」
「リュカ。地下水路の保守。通路の癖はだいたい知ってる」
リュカは言い切ってから、私を見て首を傾げた。
「……そっちは、精霊院の?」
「違うんだよね」
言い切る前に、クラリスが丁寧に言った。
「協力者です」
やめて。協力者って言葉、今いらない。
リュカは「へぇ」と勝手に納得して、奥を指した。
「匂いが濃いのは、あっちの分岐だ。換気が悪い。袋小路になる。溜まる」
ルーファスがすぐ聞く。
「分岐の位置は?」
「二つ先。右が新しく拭かれてる。足跡が消えてる。変に丁寧だ」
変に丁寧。嫌だよね。
「丁寧な道、だいたい罠なんだよね」
私が呟くと、リュカが笑った。
「地下で丁寧は信用すんな。雑な方が正直だ」
雑な方が正直。
地上でもそうであってほしいけど、地上は丁寧が勝つことが多い。嫌だ。
◇◇◇
二つ先の分岐に着いた。
右の道だけ、床が妙にきれいだった。
水が拭き取られている。石が磨かれている。足跡がない。
なのに、匂いだけは残っている。
甘いのに硬い。整いすぎていて、逆に気持ち悪い。
ルーファスがしゃがんで壁の継ぎ目を見る。
「拭き取りの跡があります。布の繊維が残ってる」
ベルトランが鼻を押さえる。
「付着布の繊維だ。匂いを移して、痕を散らす」
スーリが言った。
「丁寧に、嫌なことをする」
「……うん、それ」
外套の内側で入館証がじわっと熱くなる。
右を指してる。熱い。嫌だ。
サイラスが確認する。
「右だな」
クラリスが丁寧に言う。
「右へ進みます。触れない。急がない。距離を保つ」
「急がないって言われると、急ぎたくなるの嫌だよね」
スーリが小声で言う。
「急ぐと転ぶ」
「それは分かってる」
◇◇◇
右の道は狭かった。
壁が近くて、音が近い。
水の音が、耳の後ろで鳴っているみたいに響く。
甘い匂いは薄い。薄いのに粘る。
鼻の奥が熱い。熱いの、嫌だよね。
少し進んだ先に、広い空間があった。
保管区画。
木箱。樽。布袋。
積み上げられた荷の山。表示が薄い。印が薄い。
薄いものが揃いすぎて、逆に目立つ。
丁寧に隠した顔って、だいたい隠れてない。
ベルトランが囁いた。
「ここだな。模倣香の溜まり場」
ルーファスが木箱の側面を、触れずに目で追う。
「刻印が……削られてます」
「削ってるの、嫌だよね」
「嫌だ。痕を消したい」
スーリが淡々と言う。
サイラスが周囲を見回した。
鎧が少し鳴って、地下に反響する。
カァン。
反響が派手すぎる。
私は肩をすくめた。
「サイラス、音、増える」
「悪い」
短い謝罪。これ以上増えない。えらい。
クラリスが丁寧に言う。
「奥を探します。危険があれば戻る」
この人の「戻る」は信用できる。
丁寧は怖いけど、守るための丁寧なら、私も乗れる。
レティア姉が無言で、私の位置を変えた。
荷の陰に入る。見えにくい場所。安心する。
安心すると熱が増えるのは、やめてほしい。入館証。今は静かでいい。
◇◇◇
保管区画の奥に、低い扉があった。
扉の縁に布の繊維。
甘い匂いがここだけ少し濃い。
ベルトランが小さく頷いた。
「作業場所だ」
サイラスが先に扉を開ける。
中は狭い。天井が低い。灯りが少ない。
小さな作業台。瓶。布。削り具。刻印具。乾燥棚。
きっちり並んでいる。
きっちりしすぎて、嫌な美しさ。
「……ここでやってる」
私が言うと、スーリが答えた。
「匂いを作って、移して、薄くして、消す」
クラリスが丁寧に目を細める。
「“何もなかった顔”を作る場所ですね」
ベルトランは瓶に手を伸ばしかけて、止める。触らない。
鼻先だけ近づけ、距離を取って嗅ぐ。
「模倣香。精霊の気配に似せてる。雑じゃない。癖がある」
「癖?」
ルーファスが聞く。
ベルトランは短く言った。
「調香の署名みたいなものだ」
署名。
紙じゃないのに署名。残る。嫌だ。
ルーファスが乾燥棚の影に、小さな削り粉の溜まりを見つける。
「削り跡の粉です。刻印を薄くする作業をしています」
クラリスが丁寧に言った。
「ここにある物を押さえます。袋に入れて封をし、手順通りに」
手順って言葉が出ると、ちゃんとしてる気がして、少しだけ安心する。
安心すると、目がしみる。湿気のせい。匂いのせい。どっちも嫌だ。
「……目、こすりそう」
その瞬間、スーリが私の頬に触れた。
「こすらない。触るなら、水」
「……水」
桶も柄杓もない。
なのに足元の薄い水が、すっと寄ってきて、指先を冷やした。
私はそれで目をこすらずに済んだ。
「……偶然」
「偶然にしておく?」
「しておいて」
◇◇◇
作業台の裏に排水口があった。
小さな格子。そこから水が流れている。
ただ、流れ方が不自然だ。一本の筋だけ、妙に強い。
ルーファスがしゃがみ、格子の縁を指した。
「新しい布切れが引っかかってます。さっきの繊維と同じ」
ベルトランが頷く。
「運んだ。急いだ。隠した」
クラリスが丁寧に周囲を見る。
「ここから先は狭い。追う場合、役割を分けます」
サイラスが即答した。
「俺が先頭。危険なら戻る」
ルーファス「記録する。分岐は逃さない」
ベルトラン「匂いを見る。濃度の変化で距離が分かる」
レティア姉は無言で私の外套を引いた。
「後ろ」。それだけで分かる。
私は小さく言った。
「……追わない、が正解だよね」
入館証が熱い。さらに奥を指している。
熱いのに、追わない。難しい。
「追わないのも、強い判断です」
クラリスが丁寧に言った。
丁寧は怖い。
でもこういう丁寧は、好きだ。
◇◇◇
排水口の先は、本当に狭かった。
空気が動かない。湿気が停滞して、薄い霧みたいになる。
甘い匂いがここだけ少し重い。薄いのに重い。嫌だよね。
サイラスが先に進み、手を上げた。
「ここ、溜まってる」
目がしみる。鼻の奥が熱い。
誰かが無意識に目をこすりそうになる気配が、空気の端で膨らむ。
「……っ」
その小さな動きを見た瞬間、私は反射で言った。
「距離。風。水。足元。目はこすらない」
言った瞬間。
霧がすっと割れた。全部が消えるわけじゃない。
でも、通れる筋だけ、風が通った。
湿気が動く。匂いが薄まる。
目のしみが引く。
「……息が戻る」
サイラスが低く言った。
「風が仕事しすぎるんだよね」
私がぼそっと言うと、スーリが肩の上で小さく笑った。
「働き者」
「働き者を褒めると働くから、褒めないで」
「でも働く」
「言うな」
◇◇◇
狭い先は袋小路だった。
逃げ道はない。
床にだけ、薄い水の筋がある。新しい筋。丁寧に引いたみたいな筋。
ルーファスが息を整えながら言った。
「ここで止まった。何かを落としてる」
壁の隅に、小さな刻みがあった。
符号。短い線。地下用の搬出方向を示す印。
ルーファスが目で追って、静かに読み取る。
「……上へ。地上へ出る方向」
ベルトランが頷いた。
「地下で作って、地上に混ぜる。匂いは上へ行く」
スーリが言う。
「遠い。匂い、上流へ」
クラリスが丁寧に決断した。
「ここで追跡は打ち切ります。物証は十分。封鎖と報告を優先します」
サイラスが短く頷いた。
「戻る」
その一言が、今はありがたい。
戻れるって、勝ちだ。
◇◇◇
保管区画へ戻る通路で、入館証の熱が少し弱まった。
「……やっと静か」
私は小さく息を吐く。
でも吐いた息は、壁に当たって返ってくる。
「……静か」
返ってくるの、やめて。
スーリが耳元で囁いた。
「静まったのは、ここだけ」
「……え」
その瞬間、入館証が別方向に淡く熱を持った。
地下の奥じゃない。地上のどこか。遠い方角。
淡いのに確実に引っ張る。
淡い熱って、一番たちが悪い。無視しにくいから。
「……予定、勝手に伸びるんだよね」
言った瞬間。
「……伸びるんだよね」
また返ってきた。
「やだ……」
「やだ……」
声まで丁寧に増やさないで。地下。
レティア姉が無言で私の頭を、ぽん、と軽く叩いた。
落ち着け、の合図。
クラリスが丁寧に言う。
「地上で確認します。まずは戻りましょう」
サイラスが先を歩き出す。
ベルトランは鼻を押さえたまま付いていく。
ルーファスは刻みを記録している。
スーリは肩の上で静かに、遠い匂いを嗅いでいる。
私は外套の襟を押さえた。
熱いのは困る。
でも、熱いのは見逃せない。
……ほんと、予定って勝手に伸びるんだよね。やけに丁寧に。




