第24話 倉庫に入ったら、風が仕事しすぎるんだよね。
東水路の第七码頭は、匂いが忙しい。
魚の匂い。濡れた木材の匂い。油の匂い。縄の匂い。
そこに、薄い甘さが混ざっている。甘さだけが場違いにやさしい顔をしていて、余計に嫌だよね。
「……やだ」
外套の襟を指で押さえる。
透明な葉っぱみたいな入館証が、布の下で熱い。光ってるかどうかは分からない。分からないけど、熱いのは分かる。
「埠頭で熱くなるの、やめてほしいんだよね」
肩の上のスーリが、しれっと言った。
「光ってない。熱いだけ」
「熱いだけが一番困るんだよね」
サイラスが運河の方へ視線を流し、短く言う。
「熱いのは危険だ」
クラリスはいつもの丁寧な顔で頷いた。
「反応点が濃いということです」
丁寧に言われると、逃げ道が消えるんだよね。
私たちが倉庫の正面に近づいた瞬間、埠頭の人がこちらを見て顔を明るくした。
「検査の方ですか? こっちです、通ってください!」
「……通ってください、が出た」
小さく呟く。
まただ。道が勝手に開くやつ。隠れたいのに中央に押し出されるやつ。
「通ってくださいって言われると、だいたい通るしかないんだよね」
スーリが楽しそうに言う。
「通るしかない」
「言うな」
レティア姉が無言で私の背中を軽く押した。押す力は弱いのに、効果は強い。
その無言は「今は流れに乗れ」って意味だ。流れに乗ると増える。人も、任意も、仕事も。
……でも、ここで逆らうともっと目立つ。
それも嫌だよね。
◇◇◇
第七码頭倉の入口は意外と簡素だった。
大きな門。金具の閂。搬入口が二つ。奥に、木箱と樽が山になっている。
受付口には小さな台があり、紙の書類は見当たらない。代わりに、金属の刻印具が並んでいた。
「紙は減らしたんだよ。紙は濡れるし、匂いも吸うからな」
そう言って出てきたのが倉庫番頭のグレンだった。日に焼けて、手が大きくて、声がでかい。現場の人って感じがする。
ベルトランが一歩前に出て、軽く名乗る。
「商業組合の香調師、ベルトラン。倉庫の匂い、最近おかしいって話があってね」
グレンは「助かる!」と勢いよく頷いた。
「助かる! 最近な、眠くなる匂いがするんだ。作業中にだぞ? 危ないだろ?」
「眠くなる匂い、いやだよね」
つい言うと、グレンが私を見て目を丸くした。
「おお? そっちは精霊院の……?」
「違うんだよね」
言い切る前に、クラリスが丁寧に割り込む。
「関与しています」
やめて。丁寧に曖昧を固めないで。
グレンは「そうか!」と勝手に納得した顔になり、台の上の刻印具を指した。
「入るならこれだ。通行刻印。紙じゃなくて金具に印を打つ。見せれば通れる。紙より早い」
「早いのは、だいたい危険だよね」
「早いのは正義だ!」
グレン、元気すぎる。
その勢いで私の外套を見て、「ほら、通って!」みたいな顔をする。
レティア姉が無言で私を一歩下げた。私の存在感を薄くする動き。姉、最高。助かる。
助かるって言うと増えるから、言わない。
クラリスとサイラスが刻印を受け、ルーファスも真面目に金具を受け取る。ベルトランは慣れた手つきで済ませた。
最後に私の番が来る。
(やだ。ここで私が刻印を受けたら、“関与”がまた増える)
そう思った瞬間、外套の襟の下で入館証がふっと熱を増した。
「……やだ」
グレンが目を細める。
「おお、精霊院の客印って、そんなに近くで見ると……おい、光ってないか?」
「光ってない」
スーリが即答する。
「熱いだけ」
「熱いだけの方が怖いな!」
グレンが笑う。笑ってるけど、周りの作業員がちらちら見てくる。
目立つ。嫌だ。困る。
レティア姉が無言で襟を直し、体の向きを少しだけ変えた。入館証の位置が陰になる。姉の無言は、いつも正しい。
◇◇◇
倉庫の中は空気が重かった。
木の匂い。粉塵。古い布。油。
そこに薄い甘さ。甘さだけが、やけに“すべすべした顔”をしてるのが嫌だよね。
作業員が咳払いをしている。目をこすっている人もいる。
それだけで嫌な予感が膨らむ。こういうのは連鎖する。ほんとに。
私は反射で言ってしまった。
「距離。風通す。水。目はこすらない」
言った瞬間、倉庫の高い位置の通風窓が、きい、と音を立てて少し開いた。
開きすぎない。ちょうどいい幅。風がすっと通って、粉塵が落ち着く。
「うお、息が楽!」
「目がしみない!」
「今日いける!」
作業員たちが勝手に元気になる。
「……現場改善しないでほしいんだよね」
私がぼそっと言うと、ベルトランが笑った。
「改善したのは風だね」
「風が勝手に働くの、困るんだよね」
クラリスが丁寧に頷く。
「働く風は優秀です」
丁寧に褒めるな。優秀って言うと、さらに働く。
サイラスが周囲を見回し、警戒を強める。
ルーファスはもう目が仕事モードだ。木箱の列、樽の位置、通路の幅、刻印台の位置。全部見てる。紙の人、こういう時だけ怖い。
「導線がきれいです。きれいすぎる」
ルーファスが言った。
「きれいすぎるって、嫌な言い方だよね」
「嫌な時ほど、きれいにします」
クラリスが丁寧に言う。
やめて。嫌な知恵が丁寧に固まっていく。
◇◇◇
検査通路に近づくと、入館証がまた熱を持った。
「……ここ」
立ち止まる。外套の襟を押さえる。
押さえると熱が分かる。分かると焦る。焦ると目立つ。最悪だよね。
「反応点が強い」
クラリスが丁寧に言う。
ルーファスが小声で続けた。
「表示が薄い木箱がまとまっています。列が、同じ匂いです」
確かに木箱の側面の表示が薄い。読めるけど、読みづらい。
“わざと手を抜いた顔”って、だいたい嘘だよね。
クラリスがグレンに丁寧に問う。
「この列の行き先は?」
グレンが一瞬、喉を鳴らした。
「ええと……東水路沿いの保管……いや、その……」
言いにくい。
言いにくいって、だいたい誰かがいる。
その時だった。
白衣っぽい上着の男が、検査台の方から静かに現れた。
所作が丁寧すぎる。会釈が薄い。声が柔らかいのに、距離がきっちりしてる。
「臨時検査をお手伝いしています。ユーノと申します」
ユーノは柔らかく笑った。
「任意で、です」
「任意って言うの、強制の入口なんだよね」
つい言うと、ユーノの笑顔が一瞬だけ止まった気がした。
気がしただけ。たぶん。
スーリが私の耳元で言う。
「丁寧」
「丁寧は怖い」
「怖いほど丁寧」
「やめて」
クラリスは丁寧に一歩距離を取った。疑ってる時の距離だ。丁寧の中に刃があるやつ。
ユーノはその距離ごと受け流すみたいに、検査台の刻印具を示した。
「倉庫の印が薄いものが混ざっているので確認しています。香料の列は匂いが残りやすいので」
ベルトランが笑わない目で言う。
「匂いは残る。付着もする」
ユーノは、にこっとした。
「もちろん。ですから、触って確かめるのが一番です」
「触るの、やめた方がいいよね」
私が言うと、ユーノは優しく首を傾げた。
「大丈夫ですよ。これはただの香料です」
ただの香料って言い方は、だいたい“ただじゃない”んだよね。
◇◇◇
小トラブルは、案の定すぐ起きた。
サイラスが手袋をはめ、木箱に触れようとする。
その瞬間、ベルトランが音もなく手首を止めた。
「触るな。移る」
サイラスは短く頷いた。止まれる護衛は強い。
ユーノは困ったように笑う。
「慎重ですね。ですが、任意で協力いただければ」
「任意、便利すぎるんだよね」
スーリがぼそっと言う。
「言うな!」
ルーファスが道具袋から細い金具を出した。
箱に直接触れないよう、封の縁だけをそっと持ち上げる。丁寧すぎる手つき。紙の人、怖い。
……その瞬間。
ふわっ、と甘い匂いが立った。薄いのに鼻の奥にまとわりつく。
笑ってるみたいな甘さ。嫌だ。
「う……眠……」
近くの作業員が目を細めた。膝が揺れる。
「距離!」
サイラスが即座に声を出す。
私も反射で言ってしまった。
「距離。風通す。水」
風がすっと通った。さっきより少しだけ強い。粉塵が舞わない程度で、匂いだけを押し流す強さ。
水場の桶がきゅっと手前に寄り、柄杓がころんと転がる。
「……桶、動いた?」
作業員が呆けた声を出す。
「動いてない。たぶん目の錯覚」
私は即答した。錯覚にしてほしい。こういうのは。
ベルトランが小さく息を吐く。
「今の匂い、付着した。袖に残る。手袋にも残る」
ユーノが笑顔のまま言った。
「ですから、水で洗えばいいのです。ほら、任意で」
「任意で洗えって言い方、嫌なんだよね」
クラリスが丁寧に言う。
「順番を守ります。距離、換気、水、触れない。これが運用です」
ユーノの目が一瞬だけ細くなった。
気がしただけ。たぶん。
◇◇◇
検査台の裏側、資材置き場に回った。
ベルトランが木箱の角を指差す。
「ここ。匂いの“痕”が薄い。削ってる」
「削ってる?」
ルーファスがしゃがみ込み、目を凝らす。
「微細な削り跡があります。木の粉が、ここだけ方向が違う」
クラリスが丁寧に問う。
「何のために?」
ベルトランが淡々と言った。
「香痕抜き。匂いを薄くして、何もなかった顔にする手当」
「何もなかった顔、だいたい嘘だよね」
私が言うと、ベルトランは頷いた。
「嘘ほど丁寧」
スーリが小声で付け足す。
「丁寧は怖い」
「言うな」
ルーファスが削り跡の近くを指で示す。
「ここ、刻印があるはずなのに、木粉で埋まっている」
私はつい口にした。
「水で流したら、見えるかも」
言った瞬間、柄杓の水がすっと木箱の面を滑った。
誰も汲んでないのに。誰も投げてないのに。水だけが正確に動く。
木粉が流れ、木目が出て、刻印の輪郭が浮いた。
「……出た」
ルーファスの声が、少し震えた。
そこにあったのは組合印とは違う印。見たことがない符号。線は少ないのに、意味がある顔をしている。
地下へ流れる便。そういう顔だ。
クラリスが丁寧に言った。
「これが、行き先の符号ですね」
ユーノが背後で静かに笑った。
「よく見つけましたね。任意で」
「任意って言うのやめてほしいんだよね」
私が言うと、ユーノは肩をすくめた。
「では、確認してきます」
丁寧に会釈して、すっと離れる。
……離れ方が上手い。
目立たない導線の人だ。
入館証がじわっと熱くなった。方向が、ユーノの消えた方を指してる。
「……追わない」
自分に言い聞かせる。
(追わない。追うと増える。任意も、護衛も、書類も)
なのに、肩が熱い。方向だけ教えてくる。追うなって思ってるのに、追えって言ってくる。
「ミオ、方向」
スーリが言った。
「言うな」
サイラスが短く言う。
「追う」
「追うのは護衛的に正しいけど、増えるんだよね」
クラリスが丁寧に言う。
「増やします」
丁寧に言うな!
◇◇◇
倉庫の上部通路に上がると、見通しが良かった。
荷車が行き交い、人が行き交い、縄が揺れ、声が飛ぶ。
その中で、ユーノの白衣だけが妙に静かに流れていく。
「……あっち」
入館証の熱が角の方へ寄る。
私は追わないつもりなのに、足がそっちへ向く。
(違う。私はただ“迷わない導線”を選んでるだけ)
そう思った瞬間、また道が空いた。
「どうぞ!」
「通ってください!」
「危ないので、こちら!」
やめて。通ってください、が連鎖する。
結果、私は最短距離で角まで進むことになる。
隠れたいのに、最短って目立つ。
レティア姉が無言で私の背中に手を当てた。転ばせない。勢いを殺す。目立たせない努力。姉、最高。
◇◇◇
水路に面した搬出口の扉が少し開いていた。
運河の匂いが入ってきて、甘い匂いが薄まる……はずなのに、入館証は熱いままだ。
甘さの芯がここにある。
扉の向こうにユーノがいた。小さな箱を抱えている。さっきの列とは違う。軽い箱。持ち出し用の箱だ。
サイラスが低い声で呼び止めた。
「止まれ」
ユーノは振り返り、丁寧に会釈した。
「おや。任意で協力しているだけですが」
クラリスが丁寧に前へ出る。
「刻印の削り跡。薄い検査印。付着する香り。そして、組合印ではない符号。説明してください」
ユーノの笑顔が、ほんの一瞬だけ薄くなった。
「……誤解です」
「誤解って言う人、だいたい誤解させる側だよね」
私が呟くと、ユーノの視線が私に刺さった。刺さるほど丁寧。嫌だ。
ユーノは抱えた小箱を後ろへ置き、代わりに布を取り出した。
白い布。薄く甘い匂いがする。
「では、こちらは任意で差し上げます」
投げた。
布がふわっと広がり、甘い匂いが視界みたいに広がる。
目がしみる。息が重い。やだ。やだやだ。
反射で口が動いた。
「水!」
水路から、ぱしゃっ、と飛沫が上がった。
運河の風がちょうどよく働いて、飛沫が布に当たる。布が重くなって、べちゃっと落ちる。
甘い匂いが薄まる。視界が戻る。
ユーノが一歩下がろうとして足を滑らせた。
「……っ」
尻もち。派手に。怪我はなさそう。
軽く転ぶのが、逆に腹立つくらい丁寧だよね。
サイラスが一歩で距離を詰め、腕を取った。
「確保」
「任意で……」
「任意は終わりだ」
サイラス、言い切った。かっこいい。
かっこいいは増えるから、言わない。
◇◇◇
ユーノを押さえたまま、私たちは倉庫の中へ戻った。
グレンが青ざめている。
「待ってくれ。俺は知らない。知らないはずだ。臨時検査だって聞いただけで……」
「知らない、は、悪い人の言葉じゃないよね」
私が言うと、グレンは必死に頷いた。
「そうだ! 俺は悪くない!」
「悪くない人ほど大声だよね」
スーリが言った。
「言うな」
ルーファスが導線を見て、静かに言った。
「本命の荷は、表の列ではない。隠し場所がある」
「あるの?」
グレンが目を丸くする。
「倉庫の帳場。刻印台の裏。動線の死角。そこに匂いが溜まる」
淡々としてるのに当てる。こういう時のルーファス、怖い。
入館証がじわっと熱を増した。
“奥の奥”って感じがする。
「……やだ。奥の奥って言葉、嫌なんだよね」
クラリスが丁寧に言う。
「奥の奥ほど、核心です」
核心って言うの、やめて。
帳場の裏へ回ると、床板が一枚だけ微妙に新しかった。
新しいのに汚してある。馴染ませるために汚すの、丁寧すぎる。
サイラスが床板を持ち上げる。中は浅い収納。木箱がいくつか。
開けると中身はそろっていた。
小瓶。甘い匂いの液体。
布。匂いを移すための布。
削り具。刻印を薄くする道具。
そして、紙じゃない記録。薄い木板に刻まれた符号の列。
「紙にしないの、賢いね」
ルーファスが呟いた。
ベルトランが瓶を一つだけ嗅いで眉を寄せる。
「模倣香。精霊っぽい甘さを作ってる。しかも濃い」
「濃いって言わないでほしい」
「濃いものは濃い」
言い切るな。
クラリスが丁寧に木板の符号を指す。
「行き先が……」
ルーファスが読み上げた。
「地下水路、保管区画」
その言葉を聞いた瞬間、私は心の底から思った。
「……地下って言葉、嫌なんだよね」
スーリが即答する。
「嫌でも行く」
「言うな」
レティア姉が無言で私の襟を直した。髪も整えてくれる。髪は整う。ここだけは整うでいい。
姉の手が入ると、私の見た目だけが“ちゃんとした人”になる。困る。
◇◇◇
倉庫の外に出ると、夕方の運河の風が少しだけ冷たかった。
でも、倉庫の中より息がしやすい。甘い匂いも薄い。薄いけど、消えてない。
クラリスが丁寧にまとめる。
「次は地下水路。流れを止めます」
サイラスが即答した。
「護衛は増やす」
「増やさないでほしいんだよね」
私が言うと、サイラスは真顔で言った。
「増やすのは任意じゃない」
「うわ、任意じゃないの一番嫌だ」
スーリが楽しそうに言う。
「任意」
「言うな!」
入館証が地下水路の方角へ向けると、淡く熱を持った。
淡く、でも確実に引っ張ってくる。
「……これ、便利って言ったら負けだよね」
私が小声で言うと、スーリが即答した。
「便利」
「言うな!」
風が背中を押した。
押すな。勝手に押すな。押されたら行くしかない。
場所が地下になるの、ほんとに嫌なんだよね。
なのに、私の予定は今日も勝手に決まっていく。
やけに丁寧に。




