第18話 任意の講習。先に事故が来る
朝の鏡は、今日も容赦がない。
私は髪に指を通す。髪は整う。
整うと、気分も少しだけ落ち着く。
……少しだけ。
机の上には、紙がある。
紙が、ある。
そして、紙が呼吸してるみたいに増えている。
中央聖堂の研修日程表、入館票、協力登録カード。
それに、昨日もらった名刺カードと、任意の顔をした打診書。
「……紙って、生き物?」
肩の上の精霊スーリが、きらきら揺れた。
「いきもの!」
「元気に肯定しないで」
「でも、いきもの!」
そのうえ今朝。
封筒が一通、増えた。
差出人:医療ギルド。
開ける前から胃が縮む。
胃って、未来予知の才能があると思う。
私は封を切った。
【任意の講習のご案内】
【講習参加票(未記入)】
【注意事項(持ち込み申告あり)】
「任意なのに、票がある……」
スーリが紙の匂いに反応して、ふるっと光った。
「くしゅ……!」
「くしゃみを光でやらないで!」
背後から姉のレティアが淡々と刺す。
「止まると説明が増える」
「分かってる。分かってるけど……」
「行くなら早く」
「……はい」
参加票の白い空欄が、こちらを見ている。
白いものはだいたい「埋めろ」と言ってくる。
「名前、所属、連絡先……」
「書く」
「書きたくない」
「書く」
レティアの“結論”は短い。短いのに強い。
私はペンを握った。
――書く。
書いたら参加になる。
参加になったら次が来る。
次が来ると紙が増える。
紙が増えると胃が減る。
人生、調律むずかしい。
「ミオ」
レティアが私の腕章を見た。
【現場調整】
「今日は腕章は?」
「外す」
「外せ」
「外したら逆に怪しくない?」
「持ってると目立つ」
「目立たないの、どっち……」
スーリが胸を張る。
「見守る!」
「見守り“だけ”ね。今日は特に」
「見守りだけ!」
言い切るほど不安が増えるの、なんでだろう。
私は参加票と名刺カードを鞄に入れ、髪を整えて深呼吸した。
呼吸。呼吸は強い。今日はこれを信じる。
◇◇◇
医療ギルドの建物は、中央聖堂とは別の種類の“きちんと”でできていた。
同じくらい白い石なのに、飾りが少ない。
祈りの気配より、薬草と消毒の匂い。
静かだけど、ここは「働く静けさ」だ。
入口の受付には、柔らかい笑顔があった。
笑顔は柔らかい。言葉も柔らかい。
ただし手順は、硬い。
受付係が明るく言う。
「おはようございます。講習は任意です」
「……はい」
「参加票、お願いします」
「……任意なのに?」
「現場的に必要なので」
出た。現場的に。
人の反論を消す、便利な呪文。
私は参加票を出す。
すると受付係は、次の紙を差し出した。
「本人確認票、お願いします」
「……え?」
「持ち物申告です」
「……え?」
「守秘の同意の確認です」
「……え?」
笑顔のまま、テーブルの上に紙が並ぶ。
紙が並ぶ。紙が増える。胃が減る。
スーリが耳元で囁いた。
「紙、多い」
「言わないで。現実が重くなる」
レティアが横から淡々と言う。
「書く。止まると説明が増える」
説明が増えるのは嫌だ。
私はペンを走らせた。
名前、連絡先。
持ち物申告。筆記具、水筒、小さな布。
……精霊。
「精霊同席の欄、ありますか?」
受付係が一瞬固まって、すぐ笑顔に戻る。
「えっと……あります!」
紙が一枚増えた。
「すみません、ここは初めてで」
「いえいえ! 任意ですので!」
任意って、ほんとに魔法の言葉。
私はサインして控えを受け取った。
控え。つまり紙が増える。
「……もう帰っていいですか」
「講習はこれからです!」
ですよね。
◇◇◇
廊下を進むと、軽い足音が近づいてきた。
「ミオさん。来たね、任意で」
明るい声。距離が近い。
医療ギルド監査官、カイル・グレイ。
隣にはメモ帳を抱えた少年、マル。
目がきらきらしている。危険な種類のきらきら。
「おはようございます! 今日も短い指示、見たいです!」
「決めつけないで」
私が即答すると、マルは勢いよく頷いた。
「はい! 決めつけません! でも、楽しみです!」
決めつけてる。
カイルが笑う。
「いいね。これ、現場の合言葉にしよう」
「やめてください」
「任意で」
やめろ。
カイルは軽口のまま、でも目だけは落ち着いて私を見る。
呼吸の癖。視線の配り方。
それに、肩の上のスーリの動き。
スーリが小さく囁いた。
「嗅ぐ」
「言わなくていい」
「嗅ぐ」
やめて。ややこしくなる。
カイルが歩きながら言う。
「今日のテーマは“偽物”」
「偽物」
「回復薬も、応急処置も。偽物が出回って、現場で人が倒れる」
胃が、きゅっと言った。
私は薄く生きたい。薄く生きたいのに、濃い話が来る。
講習室の扉の前で、カイルがさらっと言う。
「教会は守秘で閉じる。ギルドは流通で追う。温度が違う」
刺さる単語を選ぶの、上手すぎる。
扉が開いた。
◇◇◇
講習室には机が並び、机の上には瓶がずらりと並んでいた。
透明。薄い青。薄い緑。
同じように見える。見えるから怖い。
講師は白衣の女性で、声がはっきりしている。
「本日の講習は、回復薬の真贋と、現場での安全確認です」
“真贋”の二文字が喉に引っかかる。
確認は嫌いじゃない。むしろ得意。
でも確認が増えると、逃げ道が減る。
講師が瓶を一本持ち上げた。
「正規品は封緘が一定です。匂い、粘度、色。微細な残留反応にも特徴があります」
残留反応。
その単語で背中が冷える。
スーリが耳元で囁く。
「白いの、ある」
「しーっ」
私は笑顔を作り、頷くふりをした。
講師は淡々と続ける。
「偽物は香料を強くして匂いをごまかします。安い溶媒で粘度をごまかします。封緘は似せますが、微妙に違う」
参加者が一斉にメモを取る。
マルのメモの勢いがすごい。紙が震えている。
講師が言った。
「では実演です。机の上の瓶を順番に確認してください。混ぜない。嗅ぎすぎない。触ったら手を洗う」
混ぜない。嗅ぎすぎない。触ったら洗う。
短い。いい。現場の言葉だ。
……なのに、参加者がざわつき始めた。
「これ、どれから?」
「封緘ってどこ?」
「匂いって嗅ぐの?」
「近づきすぎて大丈夫?」
ざわつきは広がる。混乱は事故を呼ぶ。
私は口を開きかけて、飲み込んだ。
(言うな。薄く生きろ)
でも運用の癖が勝った。
「並べて。比べる。順番を決めて」
私の声は思ったよりはっきり出た。
動きが一瞬止まり、耳がこちらを向く。
私は続けて短く言う。
「封緘→匂い→粘度。混ぜない。一つずつ」
言ってしまった。
講師がこちらを見て、少しだけ頷く。
「分かりやすいですね。良い手順です」
やめて。褒めないで。
褒められると、次が来る。
マルが小声で叫んだ。
「短いのに、通る……!」
「声が大きい」
レティアが横から言うと、マルは口を押さえた。よし。
カイルが楽しそうな顔をしている。
その“楽しそう”が一番怖い。面白がられると、確かめられる。
私は視線を机に戻した。
瓶、瓶、瓶。
同じように見える。見えるから怖い。
(私は薄く生きたいだけ)
◇◇◇
実演は進んだ。
参加者が順に瓶を確認し、チェックをつけていく。
途中から、動きが調律されてきた。
迷いが減り、声が落ち着き、手が揃う。
……揃うと、私が見られる。
嫌だなあ、と思った瞬間。
「……うっ」
短い呻き声がした。
机の端で、参加者の一人が顔色を変えていた。
手が震え、呼吸が浅い。目が泳ぐ。
「だ、大丈夫ですか?」
ざわつきかける。
ざわつくと人が集まる。集まると匂いが濃くなる。
濃くなると、さらに気分が悪くなる。
私の体が勝手に動いた。
「座る。呼吸。水」
短い。
短いと場が動く。
椅子が引かれ、水が差し出され、周りが距離を取る。
倒れかけた参加者が座る。肩が上下する。息が詰まっている。
私は言った。
「吸って。吐いて。ゆっくり。匂いから離す」
レティアがすっと立ち、人の位置を変える。
ほんの少し、風の通る場所へ。
講師が慌てて言う。
「偽物に触れた可能性が……!」
可能性は確認の入口だ。
参加者が震える。
「わ、私、ただ……匂いを……」
「嗅ぎすぎた」
カイルが短く言った。丁寧じゃない。けど正しい。
私は倒れた人の手元を見る。
指先に少しだけ液体。汗。緊張の汗。
布を取り出し、そっと拭こうとした。
その瞬間。
胸の奥が、ひやっとした。
(やめて)
喉が固まる。
固まると息が止まる。息が止まると白いものが出る。
出たら終わる。
でも止まらなかった。
目の前で誰かが苦しそうにしていると、体が勝手に動く。
これ、ほんとにやめたいのに。
私は布で指先を拭き、もう片方の手で手首を軽く支えた。
「大丈夫。ここにいる。呼吸」
その言葉を置いた瞬間、机の縁にうっすら白い余韻が出かけた。
線ほどじゃない。でも、見える人には見える白。
(やめて)
私は目だけでスーリに助けを求めた。
スーリは私の髪にそっと触れた。冷たい。
冷たい触れ方で、白い余韻がふわっと散る。
「余韻封じ」
「……いま、何したの」
「見えにくくした」
「偉いけど、偉いことしないで」
「見守り!」
やめて。
倒れた参加者の呼吸が少しずつ戻る。
目の焦点が合い、肩の上下がゆっくりになる。
「……すみません」
「謝らない」
謝ると緊張が増える。緊張が増えるとまた倒れる。
現場は連鎖だ。私はそれを知ってる。知りたくないのに。
講師が指示する。
「手を洗いましょう。すぐに。強くこすらないで」
「こすらない、流す」
私が言うと周囲が動く。動きが揃う。室内が落ち着く。
……落ち着くと、私が見られる。
カイルが机の縁をちらっと見た。
さっき白が出かけた場所。散らしたはず。見えにくいはず。
カイルが軽い口調で言う。
「今の、見えた?」
私は即答した。
「決めつけないでください」
カイルは笑う。
「うん。決めつけない。確認するだけ」
確認、来た。
胃が死ぬ。
◇◇◇
倒れた参加者が別室で休むことになり、講習は一度区切りになった。
給水場の近くの廊下。
水の音がして、少しだけ息がしやすい。
カイルが私の横に立つ。近い。
近いと、逃げ道が減る。
「ミオさん」
「はい」
「手つきが慣れてる」
「現場で慣れました」
「“現場調整”ってやつ?」
「……そう」
嘘じゃない。でも全部じゃない。
カイルは検知器を出さない。
代わりに紙を一枚出した。
【真贋チェック表(簡易版)】
「これ、任意で書ける?」
任意。
断ったら再説明が増える。再説明が増えたら今日が延びる。
今日が延びたら紙が増える。
「……書きます」
私はペンを取った。
そして、書いてしまった。
•封緘のズレ
•匂いが強すぎる
•粘度が不自然
•触れたら手洗い
•体調が崩れたら距離を取る
•人を集めない(ざわつかせない)
短く、現場の言葉で。
書いた瞬間、紙の上の空気が調律される気がした。
嫌だ。こういうの、得意でいたくない。
カイルが紙を見て、ふっと息を吐く。
「うん。匂いがする」
「匂いって言わないでください」
「最後まで言わない。任意で」
やめろ。
私は紙を返した。
「これで終わりですか」
カイルは笑う。
「終わりにしたい?」
「したい」
「現場的には、終わらない」
最悪の呪文。
◇◇◇
講習室に戻ると、講師が全体へ説明した。
「倒れた方は大事ありません。香料と溶媒に反応した可能性が高いです」
ざわつきかける空気に、私は視線で“呼吸”を促す。
癖になってる。やめたい。
講師は続ける。
「偽回復薬は現場で使われると危険です。回収に協力してください」
回収。
回収は紙が増える。
カイルが参加者に言う。
「任意でいい。でも、任意が集まると人が助かる」
ずるい。そう言われると断りづらい。
マルが私の近くで、きらきらした目をしている。
「ミオさん、次も……」
「決めつけないで」
「はい! 決めつけません!」
目は「次も来る」に決まっている。怖い。
◇◇◇
講習が終わり、私は出口へ向かった。
帰る。今日は帰る。薄く帰る。
……と思った瞬間、外の空気が変わった。
ギルドの荷運び口。薬材の納品らしい荷車。
普通の光景。普通のはず。
なのに、視線が一瞬刺さった。
刺さっただけ。
でも刺さり方が“嗅ぐ”刺さり方だ。
言葉にしづらいのに、分かる。嫌なやつ。
スーリが小さく震えた。
「……嫌な匂い」
「言わないで」
「奪う匂い」
最悪の分類。
レティアが何も言わず、私の鞄の持ち方を変えた。
そして歩幅を変えずに囁く。
「帰る導線、変える」
「……正面じゃないの?」
「正面は見られる」
姉の判断は早い。早すぎて怖い。
でも立ち止まると説明が増える。私は従う。
私たちは正面ではない通りへ曲がった。
人が多い。露店が多い。声が多い。
多いと紛れる。紛れると薄くなる。
薄くなるはずなのに、スーリが囁く。
「ついてくる匂い」
「やめて」
「ちょっとだけ」
「ちょっとでもやめて」
喉が乾く。呼吸が浅くなる。
浅くなると出る。白が。出たら終わる。
私は必死に息を整えた。吸って、吐いて。肩を落とす。
角を一つ曲がったところで、刺さる視線が消えた。
消えた瞬間、膝が笑いそうになる。
(帰りたい)
◇◇◇
帰り際、受付で控えを受け取る。
控えがあるから。紙が増える。
受付係が明るく言う。
「お疲れさまでした! 任意の講習、ありがとうございました!」
任意の講習にお礼を言われると、矛盾で頭が痛い。
そこへカイルが来た。
手に紙を持っている。嫌な予感しかしない。
「ミオさん」
「はい」
「これ、任意で」
紙が置かれる。
【偽回復薬 回収依頼書(控え)】
控え。
紙が増えた。
「……任意って便利ですね」
私が言うと、カイルは肩をすくめた。
「便利。便利は人を救う。任意で」
「便利は胃を殺します」
「胃薬、買いな。任意で」
「そこも任意にしないで」
マルが横から飛び込んでくる。
「ミオさん! 今日の“座る・呼吸・水”! すごかったです!」
「決めつけないで」
「はい! 決めつけません! でも、かっこよかったです!」
決めつけてる。
私は薄い顔を作った。
薄く生きる顔。たぶん失敗してる。
カイルが少しだけ声を落とす。
「さっきの荷運び口。見られてたね」
心臓が止まりかけた。
「決めつけないでください」
「うん。決めつけない。……でも気をつけて。匂いは奪う側にも届く」
やめて。
その言い方で現実になる。
私は依頼書を鞄に入れた。
入れた瞬間、鎖の音がした気がした。紙の鎖。
◇◇◇
家に帰ると、玄関の前に封筒があった。
差出人:中央聖堂。
今日、二つ目の封筒。
二つ目はだいたい良いことがない。
封を切る。
丁寧な文面。きれいな文字。逃げ道がない文章。
【次回研修の時間変更】
【確認会の追加】
【持参:入館票・協力登録カード・筆記具】
「……確認会、追加」
声が出ない。いや、かすれた声が出た。
「予定が……増殖してる」
スーリが肩で、きらきら震えた。
「匂い、二つ」
「二つ?」
「守る匂いと、奪う匂い」
最悪の二択。
レティアが封筒を見て、淡々と言った。
「止まると説明が増える」
「……もう止まりたい」
「今日は寝る」
「寝る」
「寝る」
レティアの結論は短い。短いのに正しい。
私は靴を脱いで、そのまま床に座り込んだ。
髪に指を通す。髪は整う。
整うのに、心は揺れる。
調律したいのに、勝手に揺れる。
薄く生きたいのに、別ルートも中央も、同じ日に来る。
丁寧に、逃げ道ゼロで。
スーリが最後に小さく言った。
「見守る」
私は目を閉じて答える。
「……見守り“だけ”でお願い」
スーリは少し間を置いて、きらきら揺れた。
「任意で」
やめろ。




