第15話 一言のはずが、空が返事した
朝の鏡は、祝祭でも遠慮がない。
私は髪に指を通す。髪は整う。
整うと、気持ちも少しだけ落ち着く。
……少しだけ。
机の上の腕章が、やたらと存在感を出しているからだ。
【現場調整】
布のくせに、責任だけは一人前。
「ミオ。顔が“帰りたい”」
背後でレティアが言った。姉の声は淡々としている。淡々としているのに、刺さる。
「帰りたいよ。もう帰りたい」
「短く。生きて帰る」
「生きて帰るが目標なの、やめて」
肩の上で、透明な精霊スーリがきらきら揺れた。
「祝祭! におい! あまい!」
スーリは匂いに弱い。屋台の匂いに引っ張られると、すぐに世界が“ご機嫌”になる。
私は今、世界にご機嫌になってほしくない。
「スーリ、今日は見守るだけ」
「見守る! でも、においも見守る!」
「匂いは見なくていい」
腕章を巻く。布がきゅっと腕に絡む。
締まるのは腕だけでいい。胃まで締めないで。
戸口を出ると、遠くから太鼓の音。祝祭の音。
いつもなら胸が弾むのに、今日は胃が先に弾んでいる。逆方向に。
「行くよ」
レティアが歩き出す。ユリウスも後ろから付いてくる。
彼は今日も丁寧な歩き方をしていて、丁寧はこういう日に強い。
私は深呼吸した。
(喋るのは短く)
(目立たない)
(決めつけない)
(紙は増やさない)
スーリが小声で付け足した。
「……空にも言う?」
空に言うな。
◇◇◇
祝祭広場は、人の数がすでにおかしい。
屋台の列。飾り布。子どもたちの笑い声。
それに混ざって、見学の目。目が多い。今日は数えたくなるタイプの多さだ。
救護ブースは三つ。受付机、手当の机、休憩用の椅子。
ロープで動線が作られ、目につく場所に案内の紙が貼られている。
大きめの案内板も何枚か立っていた。
【押さない・走らない】
【困ったら救護へ】
【目はこすらない/流す】
【軽いやけど:冷ます/流す/覆う】
文字がでかい。安心する人がいるのは分かる。
でも、でかいと噂も育つ。噂は、勝手に増える。
「運用、良好です」
きっちりした声が横から刺さった。市政安全担当のシェリスだ。
今日も紙の束を抱えている。祝祭でも紙は増える。
「良好って言わないで。言うと続く」
「続いてください。祝祭は一日です」
「一日が長いんだよ」
少し離れた場所で、ノクスがこちらに向かって手を振った。市場連盟の調整役。
笑顔が眩しい。眩しいのはだいたい危険。
「ミオさん! 最高の流れです! 短時間で回ってます!」
短時間。
その言葉、今日の禁句にしてほしい。
「短時間って、誰が決めたんですか」
「現場が決めます!」
やっぱりその答えなんだ。
救護ブースは滑らかに回り始めた。
受付係は番号票を落ち着いて配り、誘導係は一列を丁寧に作る。
記録係は筆が止まらない。止まれ。
人が多い。だから、何も起きないわけがない。
でも、何か起きても慌てない仕組みがあると、人は慌てない。
慌てないと事故が増えない。増えないと――
……成功してしまう。
成功は困る。成功は次も呼ぶ。
「ミオ、来る」
レティアが言った。
壇上のほうから呼び声が飛ぶ。
「安全案内の方! 準備をお願いします!」
来た。
“一言”のやつだ。
私はゆっくり振り向いて、ゆっくり歩こうとした。
走ったら目立つ。ゆっくりでも目立つ。困る。
シェリスが横に付いてきて、淡々と条件を並べ始めた。
「短く。万人向け。事故防止。安心感。煽らない。否定しない。誘導する。命令に聞こえないように命令する」
「それ、一言じゃない」
「一言のための準備です」
「準備が一番長い」
ノクスが笑顔で追い打ちする。
「短時間でお願いします!」
その言葉、口癖なの?
スーリが肩の上で、なぜかやる気を出して震えた。
「声、通す? ぼく、通す?」
「通さない。お願いだから通さない」
「見守る!」
見守れ。ほんとに。
◇◇◇
壇上は、広場の中心にあった。
高い。視線が集まる。
視線が集まると、言葉が重くなる。重くなると、噛みそうになる。
噛んだら噂になる。噂は育つ。育てない。
司会の人が私を紹介した。
「本日は安全運用を担当してくださる、現場調整のミオさんから、一言!」
一言、って言い方が怖い。
一言で済むなら、私は今ごろ布団の中だ。
私は口を開いた。短く。短く。短く。
「押さない。走らない」
一呼吸。
声を張ったつもりはないのに、意外と通る。
通ると、ざわめきの芯が少し落ちる。
「困ったら、救護へ。ロープの外から呼んでください」
頷きが返ってくる。
頷きが増えると、空気が落ち着く。落ち着くと――現場が回る。回ると私は困る。
「目は、こすらない。流す。呼吸」
どこかで小さく笑い声。
笑いは悪くない。緊張がほどける。
私は最後に、救護ブースの案内を思い出して言った。
「白い筋が見えても、慌てない。前に出ない。困ったら、係を呼ぶ」
ここまでは、予定通りだった。
問題は、この次。
言葉が途切れた瞬間、広場のざわめきがほんの少し戻った。
その戻りが怖くて、私はうっかり本音を漏らした。
「みんな、無事で帰って」
……言ってしまった。
その瞬間。
空気が、すっと落ちた。
音が消えたわけじゃない。太鼓も鳴っている。呼び声もある。
なのに、ざわざわの芯だけが静かになった。
人の肩が下がる。息が深くなる。
誰かが「さっきの頭痛、消えた」と呟いた。
別の誰かが「足の疲れが軽い」と目を丸くする。
子どもが転びかけて、ぎりぎりで踏ん張って笑う。
そして、石畳に、うっすら白い筋が走った。
糸みたいな細い線。
壇上の足元から、すっと伸びて、すっと消える。
「……今の、見た?」
「白い筋だ」
「え、これ……」
ざわめきが、一気に跳ねた。
私は固まった。
固まったまま、口だけ動かす。
「決めつけない。前に出ない。救護へ」
スーリが肩の上で、ぴくっと震えた。
「……ぼく、見守った」
「見守った、って言い方が怪しい」
「空が返事した!」
返事しなくていい!
◇◇◇
混乱は、混乱の顔をしてやってくる。
「奇跡だ!」
「聖女だ!」
その言葉が出た瞬間、背中が冷えた。
私は反射で言う。短く。短く。短く。
「決めつけない!」
群衆が前に寄りかける。寄ると危ない。
ユリウスが丁寧に腕を広げた。
「ロープの外でお願いします。危険です」
レティアも外周から、目だけで「下がって」を投げる。
姉の目は、案内板より効く。
シェリスが即座に前へ出た。
「本日は市政の安全運用です。見学は所定の位置で。現場は混乱させません」
ノクスが笑顔で続く。
「市場も協力してます! みなさん、短時間で落ち着きます!」
落ち着くならいいけど、“短時間”は言わないで。
その時だった。
石畳の白い筋が、また走った。
今度は、消えない。
薄いまま、すっと伸びる。
壇上から救護ブースへ。
まるで「こっち」と言う矢印みたいに。
「……案内線?」
「すご……」
「救護に行けってこと?」
視線が一斉に救護へ移る。
移ると、人が落ち着く。落ち着くと列が生まれる。列が生まれると回る。
回ると――もう、やめて。
私は肩の上を見た。
「スーリ」
スーリは目をきらきらさせて、悪気ゼロで言った。
「見守った! ほら、迷わない!」
「見守りの定義が広い」
「広いほうが安心!」
安心が増えると、噂も増える。困る。
◇◇◇
人混みが割れた。
祝祭の音の中に、静かな空気が一本刺さる。
黒い外套。
ゆっくりした歩き方。
視線が鋭い。笑わない。
近づいてくるのに、追い詰めてくる感じはない。
でも、逃げ道が消えていく感じはする。
男は案内板の前で止まった。
【押さない・走らない】
【困ったら救護へ】
ゆっくり読んで、顔を上げる。
「……簡単でいい。人が止まる」
声は低く、淡々としていた。
褒め言葉のはずなのに、背中が冷える。
シェリスが一歩前へ出る。
「あなたは?」
男は名乗った。
「聖堂庁巡察官。ヴァルツ・レイン」
聖堂庁。
その二文字で胃がぎゅっと縮む。
ヴァルツは石畳に目を落とした。
白い筋の残り。薄い痕。
「……聖癒の残響」
私は即座に返した。
「断定しないでください」
言えた。噛まなかった。そこだけは偉い。
ヴァルツは私を見る。確認の目。
優しさじゃなく、正確さの目。
「断定ではない。確認だ」
最悪の単語が、ここでも出た。
「確認、今日流行ってますか」
私がぼやくと、ノクスが笑顔で頷いた。
「流行ってます!」
頷くな。
シェリスが丁寧に正論を積む。
「巡察官。祝祭は市政の管轄です。現場は混乱させません。介入には手続きが必要です」
ヴァルツは淡々と返す。
「混乱させない。だから、公式の協力として扱う」
協力。
守る、って言い方の次に危険な言葉だ。
ノクスが嬉しそうに言う。
「協力いいですね! 短時間で!」
ほんとにその癖、直してほしい。
ヴァルツの視線が救護ブースへ滑る。
白い矢印が、まだ薄く残っている。
「現場が回っている。回っているなら、守るべきだ」
守る。
守るって言葉は、囲う入口。
私は冷たい汗を感じた。
でも今、逃げたら一番目立つ。目立ったら終わる。
だから心を調律する。
調律して、口だけで生きる。
◇◇◇
救護ブースで小さな事故が起きた。
子どもが転んだ。擦り傷。泣きそうで、泣かない顔。
「洗う。押さえる。固定」
手当係が動く。水で洗い、布で押さえ、軽く巻く。
子どもは息を吸って、ふっと吐く。
「呼吸」
言うと、肩が落ちる。
「えらい」
褒めた瞬間、涙が引っ込んだ。
引っ込むのが、やけに早い。
親が目を丸くする。
「……もう落ち着いた?」
私は笑わない顔を作る。
「押さえたのが早かっただけ」
次は、飾り粉が目に入った人。
「目が痛い……」
「こすらない。流す。呼吸」
水場へ誘導して、流す。深呼吸。
周囲が「なるほど」と頷いて、案内の紙を指さす。
勝手に啓発が進む。こわい。
さらに、お湯の小事故。
煮沸消毒用に沸かしていたお湯が、混雑で少し揺れて、手の甲にかかった。
「熱っ!」
「冷ます。流す。覆う」
動きが揃う。手当が終わる。
終わるのが、また早い。
「……もう平気かも」
私は首をかしげない。かしげたら「不思議」を認める顔になる。
「冷やしたのが早かっただけ。あと、呼吸が上手」
ヴァルツは端で黙って見ていた。
見ているだけなのに、視線が記録する。
シェリスもメモする。
ノクスも笑顔で見る。
世界が私を「使える人」にしたがっている。
スーリが耳元で小さく言った。
「ね、逃げる?」
「今逃げたら、一番目立つ」
「じゃあ、見守る」
「うん。今日はそれでいい。ほんとに、それで」
スーリが頷いた。
頷いた瞬間、白い矢印がほんの少し濃くなった気がした。
……見守りって何。
◇◇◇
一段落したタイミングで、ヴァルツが歩いてきた。
静かすぎて、気づくのが遅れる。
遅れると、逃げる準備ができない。
準備ができないと、逃げられない。
「君の指示は、現場を落ち着かせる」
「断定しないでください」
盾だ。今日の盾。
ヴァルツは少しだけ目を細める。笑ったわけじゃない。確認の仕方が変わっただけ。
「手当の速度だけでは説明がつかない部分がある」
「断定しないでください」
「確認だ」
確認、強い。強すぎる。
シェリスが前へ出る。
「巡察官。あなたが混乱を止めたいのは分かります。しかし運用は崩しません」
ヴァルツは頷く。
「崩さない。だから、こちらも崩さない形で関わる」
ノクスが横で嬉しそうに言った。
「協力ですね! 短時間で!」
ほんとに言う。
ヴァルツが外套の内側から封筒を出した。聖堂庁の印章。
胃がさらに縮む。
「事情聴取ではない。協力要請だ」
事情聴取じゃないと言いながら封筒を出すの、怖い。
私は受け取らずに言った。
「……断る選択肢は」
「協力は任意だ」
任意。
任意って言葉は、断れるように見せるための飾りのことがある。
今日の世界は飾りが上手い。
シェリスが補足する。
「連行ではありません。市政としても正式な連絡があるほうが混乱は減ります」
ノクスも笑顔で補足する。
「正規ルートです! 安心です! 短時間で!」
それはもう口癖だ。
私は結局、封筒を受け取った。受け取った時点で負け。
紙は増やさないって決めたのに、世界が増やす。
中の紙を読む。丁寧すぎる文章で、逃げ道が削れていく。
【祝祭運用における安全導線と救護手順の共有について】
【現場調整として、知見の提供をお願いしたい】
【場所:中央聖堂】
【日時:追って連絡】
追って連絡。
それは「逃がさない」の別表現だ。
「協力って言い方が、いちばん断れない」
ぽろっと漏れた。
ヴァルツは表情を変えずに言う。
「断り方がうまいなら、断れる」
「うまくない」
ノクスが笑顔で頷いた。
「うまくないですね!」
頷くな。
◇◇◇
封筒を握ったまま、私は広場の端へ移動した。
人の波から少し外れると、音が少しだけ遠くなる。
遠くなると、心の調律がしやすくなる。
……しやすくなるだけで、できるわけではない。
スーリが肩の上で小さく震えた。
「……匂いが違う」
「匂い?」
「大きいところの匂い」
大きいところ。
中央聖堂。聖堂庁。巡察官。
全部大きい。全部やだ。
スーリが空を見上げた。
そして、ほんの一瞬だけ光が強くなる。
いつもの透明なきらきらじゃない。
芯のある光。重みのある光。
息が止まる。
止まるのは今日何度目だろう。
ヴァルツの視線がすっとスーリに向いた。
「……精霊が、君を選んでいる」
私は反射で言った。
「断定しないでください!」
ヴァルツは淡々と返す。
「確認だ」
確認、強すぎる。
スーリが小声で囁く。
「ね、ミオ。ぼく、見守るだけ……難しいかも」
「難しい」
私も小声で返す。
「でも、今日だけは見守って。お願い」
スーリは少し迷って、頷いた。
「……うん。見守る。なるべく」
“なるべく”が付くあたりが怖い。
私は封筒をぎゅっと握った。
紙の角が手のひらに刺さる。現実は痛い。痛いのに、回っていく。
髪だけは整っている。
心は調律したいのに、世界が先に次の舞台を用意していく。
やけに丁寧に。




