第12話 市場救護所、列が踊る
朝の鏡は、相変わらず正直だった。
私は髪に指を通す。髪は整う。
整うと、気持ちがほんの少しだけ落ち着く。
……ほんの少し、だけ。
「ミオ。顔が“短時間”になってる」
背後で、姉のレティアがさらっと言った。
「“短時間の顔”って何」
「諦めが早い顔」
「それ、今やめて」
私が反論するより先に、レティアが封筒を開け、紙を一枚取り出した。
「市場外れ。臨時救護所。軽傷のみ。短時間」
読み上げる声が落ち着きすぎていて怖い。
「ほら、短時間って書いてある」
私は紙を指さす。
レティアは紙を見て、次に私を見る。
「市場に“短時間”はない」
「それ、断言しないで」
肩の上で、透明な精霊スーリがぴょんと跳ねた。
「市場! たべもの! におい! 人!」
「スーリ、テンション上げない」
「上げない!」
「あと、風は禁止」
「……禁止って、配布されないの?」
「配布しない」
「しょん……」
しょん、と気配が小さくなる。
よし。今日はこのまま静かにしていてほしい。
私は持ち物を確認する。煮沸消毒できる布、鍋、水袋、替えの布、受理控え用の紙、羽ペン。
軽傷の救護所なのに、荷物がどんどん“それっぽい”方向に寄っていく気がする。
レティアが最後に言った。
「外周は私が取る。迷子と見学者と、帰るタイミング」
「帰るタイミング、確保できる?」
「確保する」
姉の“確保する”は、だいたい本当に確保される。
怖いくらいに。
私は深呼吸した。
(今日は口だけ)
(触らない)
(目立たない)
(短時間で帰る)
スーリが小声で付け足す。
「……市場に勝つ」
やめて。勝負にするな。市場は勝てない。
◇◇◇
市場は、音が多い。
呼び声。笑い声。荷車の軋み。包丁の音。水を打つ音。
音が多いと、ひとつの異音が紛れる。紛れた異音が、事故になる。
臨時救護所は市場の外れ、屋台の裏の空きスペースに設置されていた。
日陰で、風通しがよく、近くに水場がある。場所選びが妙に良い。
妙に良い場所は、人が集まりやすい。
つまり、短時間が溶ける。
「おはようございます、ミオさん」
補佐官セシルが、明るい声で手を振った。
机が二つ、桶がいくつか、鍋、布、紙束。
紙束の存在感が強い。紙の密度が、今日の長さを物語っている。
「臨時救護所セットです。短時間なので、必要最低限にしました」
セシルが言う。言い切る。
机の上の紙束は、最低限の顔をしていない。
薬師組合の監督官リオネルが、無表情のまま頷いた。
「動線を先に決める。再現性」
丁寧な騎士ユリウスがロープを取り出し、きっちり境界を作っていく。
「安全のため、こちらから先は腕章の方だけで。見学はこの線の外でお願いします」
腕章。
……箱が見えた。しかも複数。
私は嫌な予感を覚えながら、セシルの手元を見る。
「腕章、増えてません?」
セシルはにっこりする。
「はい。現場係用、記録係用、見学者用、それから迷子用です」
「見学者用、いる?」
「短時間なので、見学者が増えます」
短時間が万能すぎる。
短時間は、だいたい全部の言い訳に使われる。
市場の人が近寄ってきて、迷子用腕章を見て目を輝かせた。
「それ、かわいいねぇ」
「うちの子、欲しがりそう」
「迷子用って書いてあるのがいい」
よくない。
迷子用は、欲しがるものじゃない。
スーリが小声でうっとりする。
「かわいい……配布されたい……」
「されない」
レティアが静かに前に出て、迷子用腕章を一つ持ち上げた。
「迷子になったら渡す。今は渡さない」
市場の母親が笑った。
「じゃあ、うちの子、なりたがるね」
「なりたくない」
レティアは真顔のまま返す。
真顔のやり取りほど、周囲が笑う。
私はそっと端に立とうとした。
端。目立たない。口だけ。
……のはずだった。
セシルが当然のように言った。
「ミオさん、指示は短くお願いします。短時間なので」
短時間、また来た。
私の肩が勝手に重くなる。
リオネルがこちらを見る。
「口頭指示で回るか確認する。頼む」
淡々とした頼み。断れない頼み。
私は頷くしかない。
「……わかった。口だけね」
スーリが小さく拍手しそうになる。
「ぱちぱち……」
「しない」
「見守る!」
よし。
◇◇◇
受付が始まった。
セシルが番号票の箱を持ち上げ、笑顔で配り始める。
「受付はこちらです! 番号票をどうぞ!」
番号票は薄い紙で、角が丸い。
触り心地が良い。こういうのは子どもが寄ってくる。
寄ってきた。速い。
「なにそれー!」
「それ、あたり?」
「番号、かっこいい!」
三人くらいの子どもが、目を輝かせて番号票の箱を覗き込む。
セシルが一瞬だけ固まった。紙の天才でも子どもには弱い。たぶん。
「これはね、順番を……」
説明しかけた瞬間、子どもの手が伸びる。
「わーい!」
「いっぱいある!」
「集める!」
あっという間に番号票が子どもの手に渡り、遊び道具になった。
……そして、列が踊った。
「あれ? 私、何番だっけ?」
「え、あなた先だった?」
「私、そもそも取ってない!」
順番がほどけて、人の声が少しずつ大きくなる。
市場は音が多い。音が多いと、混乱が増える。
私は息を吸って、口だけで言った。
「番号は大事。遊ぶのは別の紙。番号票は戻す」
声は大きくしない。短くする。
指示は、なるべく単純に。
子どもたちがきょとんとする。
「別の紙って?」
「遊べる紙ってあるの?」
「迷子用腕章の方がいい!」
レティアが、外周からすっと入ってきた。
手には端切れと、使い切った受理控えの裏紙が何枚か。
「これで遊ぶ。番号票は戻す」
子どもが目を輝かせる。
「やった!」
「こっち、白い!」
「絵かける!」
一瞬で子どもたちの興味が移り、番号票が戻ってくる。
列が、すっと戻る。
セシルが小声で呟いた。
「……助かりました。短時間なので」
短時間のせいにするな。
でも今は突っ込む余裕がない。
スーリが嬉しそうに言う。
「レティア、強い」
「外周担当だから」
レティアは真顔で返す。
姉が強いのは、いつものことだ。
◇◇◇
最初の患者は魚屋だった。
魚の匂いと一緒に、血の匂いがふっと混ざる。指先を切ったらしい。
「うわ、やっちまった!」
「包丁が滑った!」
「大丈夫か!」
周りの人が集まりかける。
見学者が増えると距離が消える。距離が消えると、転ぶ。
ユリウスが丁寧に、けれど強く、ロープの外に人を下げた。
「転ぶと危険です。少し距離をお願いします」
丁寧なのに有無を言わせない。
丁寧は、強い。
私は口だけで指示する。
「洗う。こすらない。押さえる。呼吸」
手当係の女性が手早く動く。
魚屋が「いててて」と言いながら、なぜか話し始めた。
「いやぁ、今日の仕入れがさ。朝の川がいつもより冷たくてさ。だから指が……」
長い。
話が長い人は、血が出ていても長い。市場あるある。
私は優しく切った。
「要点だけ。血が出てる。押さえる」
魚屋が一瞬止まり、そして笑った。
「それな!」
周囲も笑う。空気が軽くなる。
軽くなると、動きが素直になる。素直になると、現場が回る。
セシルが受理控えを書き、質問票に丸をつける。
リオネルが淡々と確認する。
「処置の順番、一定。良い」
真顔の評価は嬉しいより先に怖い。
評価されると、次が増える。
私は気づかないふりをして、指示をさらに短くする。
「固定。終わり。次」
現場が“次”へ流れた。
回転が始まると、止めるのが難しい。
回転は、だいたい短時間を溶かす。
◇◇◇
次は、子どもの膝だった。
走って転んで、膝を擦りむいた。泣いている。
泣き声は周囲を呼ぶ。周囲は見学者を呼ぶ。見学者は混雑を呼ぶ。
「いたいー!」
「こわいー!」
私は口だけで言う。
「呼吸。大人が呼吸」
レティアがすっと横にしゃがむ。
呼吸が静かで、強い。子どもはつられて息を整える。
「洗う。こすらない。押さえる。固定」
手当係が処置する。
子どもは鼻をすすりながら、泣き声が小さくなる。
「……もう、走らない」
「走るのはいい。転ばない道で」
レティアが真顔で言うと、周囲がまた笑った。
……その笑いの中で、別の声が飛んできた。
「うちの子がいない!」
迷子。
市場あるある、第二弾。
しかも同時発生。市場は短時間を許さない。
レティアの目が変わる。
外周担当の目だ。
「迷子用腕章、出す」
セシルが嬉しそうに箱を開けかけた。
私は反射で言う。
「嬉しそうにしないで」
「……短時間なので」
短時間、また来た。
レティアは迷子用腕章を一つ、保護役の市場の女性に渡す。
「あなた、集合地点に立つ。声を張る」
次に、騎士団の衛生係の若者に指示。
「あなたは外周を回る。走らない。見つけたら連れてくる」
ユリウスが丁寧に補足する。
「お名前と特徴を。服の色、髪、靴。短く」
短い。いい。
短いと、現場は動く。
迷子の母親が焦って言う。
「えっと、髪が……」
「長い説明は後。今は特徴三つ」
私が口だけで言うと、母親がハッとして、すぐ答えた。
「赤い上着。小さい靴。ほっぺにほくろ!」
「それで十分。探せる」
数分後、迷子は見つかった。
しかも見つかった子が第一声で言った。
「迷子用腕章、もらえる?」
周囲が笑い、母親が泣き笑いになる。
レティアが真顔で返す。
「卒業」
「卒業ってなに」
「迷子じゃないってこと」
子どもは首をかしげ、でも嬉しそうに頷いた。
市場は、こういう瞬間だけ、やけにあたたかい。
◇◇◇
事故は、まだ終わらない。
香辛料の屋台の前で袋が破れた。
粉が舞う。くしゃみが連鎖する。目が痛い、咳が出る。
命の危機ではない。けれど混乱の危機だ。
「へっくし!」
「目がぁ!」
「咳が止まらん!」
人が集まり、声が重なり、動きがぶつかる。
市場は音が多い。音が多いと、転ぶ。
スーリが小さく言った。
「粉、飛ばしたら、なくなる?」
「なくならない。増える」
「じゃあ、風、だめ?」
「だめ」
「しょん……」
スーリの“しょん”が増えると、こっちの負担が増える。
けれど風を出したら粉が広がって、もっと増える。
私は口だけで言う。
「水。湿らせる。拭く。距離。呼吸」
ユリウスが通路を作る。丁寧に、でも強く。
「こちらへ。押さないで。ゆっくり」
手当係が濡らした布で床と台を拭く。
湿らせて、粉を回収する。
動きが揃うと、混乱が少しずつ静まる。
リオネルが淡々と感想を落とす。
「粉は湿らせて回収。合理的」
真顔の褒め言葉は、現場にとっては“合格”だ。
合格すると、人が安心して、さらに集まる。
つまり短時間が消える。
スーリが役に立ちたくて、ほんの少しだけ涼しい風を出した。
ふわ。
……その瞬間。
「涼しい」
「ここ、気持ちいい」
「待って、ちょっと休ませて」
人が救護所の周りに集まりはじめた。
休憩所化。短時間、消滅。
私は思わず口に出した。
「スーリ! 風!」
「……ちょっとだけ……役に立ちたかった……」
「役に立ってる。だから混む!」
「混むの、だめ?」
「だめ!」
スーリはしょん、と縮む。
「……見守る……」
よし。見守って。
◇◇◇
拭いた床が、少しずつ乾いていく。
乾いた部分と、まだ湿った部分。
その境目に、うっすら白い筋が見えた。
「……おお」
また、誰かが言った。
その「おお」が、一番危ない。
見学者の目が集まる。
目が集まると、言葉が生まれる。
言葉が生まれると、噂が生まれる。
噂が生まれると、短時間が消える。
私は反射で、テンプレを口にした。
「光の角度。布の繊維。乾燥」
言ってしまった。
言うと納得される。納得されると、また頼られる。
なのに言わないと余計に騒がれる。現場は難しい。
市場の人は、勝手に呼び名を付け始める。
「白い筋だ」
「乾いた筋だな」
「拭いた跡が出てる」
「床がやる気」
やめて。床の気分は関係ない。
「やる気は関係ない」
私が真顔で言うと、周囲が笑った。
笑いは悪くない。笑いは距離を保ちやすい。
距離が保てると転ばない。転ばないと現場が回る。
セシルがすでにメモを取り始めている。
紙を出して、さらさらと。
「『白い筋』……『乾いた筋』……」
「メモしないで」
「短時間なので、忘れると困ります」
短時間の使い方が雑だ。
リオネルが淡々と確認する。
「便宜上の呼称は“痕封”で統一、でいいか」
“痕封”。
便宜上の呼称。断定しない。
それだけのはずなのに、言葉がかっこよすぎるのが問題だ。
スーリが小声でうっとりする。
「痕封……かっこいい……」
「かわいさと、かっこよさで決めない」
「でも、かっこいい……」
「やめて」
◇◇◇
救護所の前に、貼り紙スペースができた。
誰が作ったのか。だいたい分かる。セシルだ。
セシルは羽ペンを持ち、さらさらと案内紙を書き上げた。
そして、胸を張って貼る。
【臨時救護所の流れ】
1:受付(番号票)
2:簡単確認(質問票)
3:処置
4:休憩(様子見)
5:見学はロープの外(腕章の方だけ中へ)
※白く見える現象は断定しない(光の角度/布の繊維/乾燥)
貼った瞬間、現場が“回転”を始めた。
受付で番号票。
確認で質問票。
処置で短い指示。
休憩で呼吸。
流れが調律されると、人は迷わない。
迷わないと、列が踊らない。
踊らない列は、強い。
……強すぎる。
「ここ、安心だねぇ」
「休んでいきな」
「その案内紙、うちの店にも貼りたい」
安心が広がると、人が増える。
人が増えると、短時間が溶ける。
しかも今日はスーリの涼しい風がある。
涼しいと、人は帰らない。
「休憩は短く!」
私は思わず声を出してしまった。
セシルがにこやかに言う。
「短時間なので、休憩は短く、ですね」
短時間の言葉だけが、どんどん強くなる。
私の短時間は、どんどん弱くなる。
ユリウスが丁寧に締めに入りかける。
「落ち着いたら、順に解散を……」
リオネルが真顔で補足する。
「回っている。良い。再現性が取れた」
取れた、と言うな。
取れたら次が来る。次が来ると、短時間が死ぬ。
レティアが袖を引いた。
「帰るタイミング。確保」
「確保できた?」
「今」
姉の“今”は、有無を言わせない“今”だ。
◇◇◇
市場を離れる。
背中に、まだ呼び声が飛んでくる。
「短い指示の人!」
「白い筋が出たやつ!」
「迷子用腕章、神!」
やめて。
私じゃない。腕章でもない。市場が勝手に盛り上がってるだけだ。
私は疲れているのに、髪だけは整っていた。
なんで髪だけ元気なの。
スーリが小声で言った。
「市場、楽しかった」
「楽しかったのは分かるけど、風は禁止」
「……見守る……」
「今日は、見守りで百点」
スーリが少しだけ明るくなる。
その明るさが、妙に平和で、少しだけ救われる。
少し離れた場所で、誰かが楽しそうにメモを取っているのが見えた。
「痕封」
「白い筋」
「市場救護の流れ」
明るい笑顔。
明るい笑顔は、だいたい次の予定を連れてくる。
私は視線を戻し、歩き出す。
目立たないつもりだったのに、現場のほうが先に落ち着いてしまう。
やけに丁寧に。




