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第11話 講習室はやさしい箱。出入り口だけ少ない

朝の鏡は、正直だ。


私は髪に指を通した。髪は整う。

整うと、気持ちがほんの少し落ち着く。


……ほんの少しだけ、だ。


「ミオ、持ち物」


台所から姉のレティアが声をかけてくる。

姉の声はいつも落ち着いている。落ち着いている人ほど、だいたい強い。


「はいはい……えっと、布、鍋、水袋、替えの布、受理控え用の紙、羽ペン……」


数えながら自分で怖くなる。

今日の予定は「短時間の講習」だったはずなのに、旅に出る荷物になっていく。


「煮沸消毒できる布は二枚。鍋は軽いの。水袋は口が広いの」


レティアは手際よくまとめる。

私の心の中を見ているみたいに、逃げ道を先に塞いでくる。


肩のあたりが、ぴょんと跳ねた。


「きょうしゅう! きょうしゅう!」


透明な精霊スーリが、朝からやけに元気だ。

元気なときほど余計なことをする。これは偏見ではなく実績だ。


「スーリ、静かに」


「しずか!」


「あと、喜ばない」


「……でも、配布があるよね?」


「配布は増えるから、言わないで」


「……しょん……」


しょん、と肩の上の気配がしぼむ。

しぼむのはいい。しぼんだままでいてほしい。


私は自分に言い聞かせる。


(今日は口だけ)

(触らない)

(目立たない)

(短時間で帰る)


「短時間は、相手の希望」


レティアがさらりと言う。

その一言で、私の「短時間」が半分くらい崩れた。


「それは時間じゃない」


「でも現実」


姉は真顔で言い切った。


そして最後に、いつもの宣言。


「外周は私が取る。出入り口と帰るタイミングは確保する」


外周。

その言葉だけで安心する。私は内側で潰れるタイプなので、外周があると生き残れる。


私は玄関で深呼吸した。


「よし。目立たない」


スーリが小声で付け足す。


「……短時間で」


やめて。フラグを立てないで。


◇◇◇


教会別館の前は、朝からきれいだった。

きれいな場所は逃げにくい。汚れていたら「汚れてるので帰ります」ができるのに。


入口を入ると、すぐに受付台が見えた。


紙。

紙。

紙。


紙の海。波は静かなのに、溺れる予感だけは強い。


受付係の少年が、にこにこしながら言った。


「おはようございます! こちら、腕章です!」


腕章。参加者の証。

……箱が三つある。


「三種類?」


私が言い終えるより早く、少年が明るく説明した。


「はい! 参加者用、記録係用、それから迷子用です!」


「迷子用?」


固まる私の横で、レティアが小さく息を吐く。


「……短時間は迷子が出るのね」


「短時間の意味、壊れてない?」


スーリがひそひそ言う。


「迷子、配布されるんだ……」


「されない。あなたは迷子にならない」


「なれるならなりたい……」


「なりたくないから」


少年が迷子用の腕章をひらひらさせる。

明るい色で妙にかわいい。かわいいのが逆に腹立つ。


私は参加者用の腕章を受け取り、端へ移動しようとした。

端の席で存在を薄くして、終わったらすっと帰る。理想だ。


だが、受付係はさらににこにこする。


「ミオさんですね! 発言しやすい席にご案内します!」


発言しやすい席。

それはつまり、前だ。


「え、私、発言しません」


「大丈夫です! 発言しやすいだけです!」


その言い方が一番危ない。

発言しやすい環境は、発言する流れになる。


私は抵抗する間もなく、前列に通された。


前。

視線。

逃げ道、減少。


レティアは後ろの通路側に立つ。

外周担当の配置が完璧すぎる。姉、ほんとに強い。


スーリが肩で小さく跳ねた。


「前列、当日確定」


「やめて」


◇◇◇


講習室は机がきちんと並び、白板があり、窓があり、空気が澄んでいた。

澄んでいるのに、妙に息が詰まる。


前に立つのは補佐官セシル。

薄い笑顔。丁寧な声。丁寧な人ほど紙が増える。これも偏見ではなく実績。


「皆さま、本日はお忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます」


丁寧な挨拶。

そして。


「短時間ですので、要点だけ確認します」


言った。短時間。


セシルは机に紙束を置いた。


ドサッ。


短時間の音じゃない。

短時間って、紙束の重さで測るものだったっけ。


私の心の中の短時間が、また崩れる。


セシルはさらりと続ける。


「本日のルールです。質問は基本、質問票に記入。口頭質問は番号票の順です。記録係が受理控えを作成します」


番号票。質問票。受理控え。腕章。

単語だけで机が増える気がする。


丁寧な騎士ユリウスが一歩前に出て、柔らかく補足した。


「混乱を避けるためです。どうかご安心ください」


安心、という言葉がいちばん安心できない。

安心と言われるときは、だいたい逃げ道が消える。


薬師組合の監督官リオネルが、椅子に座ったまま淡々と口を開く。


「再現性が出ないと意味がない」


真顔で言う。

真顔の正論は強い。笑う準備ができないぶん、刺さる。


セシルが白板に書いた。


【講習:口頭確認/衛生手順/質問整理】

【実地:別途案内紙】


最後の一行が怖い。

別途。案内紙。増殖の匂い。


◇◇◇


自己紹介が始まった。


教会の手当係、薬師組合の実務者、騎士団の衛生係。

みんな真面目で、顔が明るい。良い人ばかりだ。


良い人が集まると、断れなくなる。これも偏見ではなく実績だ。


そして、私の番が来た。


セシルが丁寧に言う。


「ミオさん、お願いします」


立つ。

立ちたくないけど、立つ流れになっている。前列の呪い。


「……ミオです」


できればこれで終わりたい。

なのに視線が「続き」を待っている。善意の視線は逃げにくい。


「えっと……普通に、手当をします」


静かなざわめき。


「普通って……」

「普通の手当……」

「普通が一番難しい……」


やめて。普通を難しくしないで。


私は焦って、短く言い直す。短いと逃げられる。たぶん。


「洗う。こすらない。押さえる。固定。距離」


言った瞬間、空気がふっと軽くなった。


「分かりやすい!」

「それ、いい!」

「覚えやすい!」


拍手が起きそうな雰囲気。

起きるな。拍手は目立つ。


肩の上でスーリが小さく拍手した。ぱち、ぱち。

その風で、机の紙が一枚、ぺらりとめくれる。


セシルの手がすっと伸び、めくれた紙を元に戻す。

紙の調律が速い。速すぎる。


セシルは微笑んだまま言った。


「素晴らしい。では、その要点を中心に進めます」


(進めないで! 要点だけにして! 要点だけで終わって!)

心の叫びは、声にならない。


◇◇◇


模擬の手当が始まった。


教会の手当係の若い女性が前に出る。

手つきがきれいだ。きれいな手つきの人は強い。これも偏見ではなく実績。


「安全のため、指先を少しだけ。消毒してから行います」


小さな傷。ほんの一滴の赤。

命の危機じゃない。ここは明るく手順確認だ。


私は深呼吸した。


(口だけ)

(触らない)

(目立たない)


「ミオさん、指示だけお願いします」


セシルが言う。

指示だけ。よし。指示だけなら事故らない。たぶん。


私は短く言った。


「洗う。こすらない。押さえる。煮沸消毒した布。固定。呼吸」


女性がその通りに動く。

周りもその動きを目で追う。

誰も騒がない。誰も割り込まない。空気が落ち着く。


……落ち着きすぎて、逆に怖い。


リオネルが淡々と質問する。


「順番の根拠は」


「混乱が増えるから」


「合理的」


真顔で褒められると、逃げ道が減る。

私は笑顔の形だけ作って、ごまかす。


その瞬間。


肩の上のスーリが、ひそっと言った。


「……乾かした方がいいかなって……」


そして、ほんの少しだけ風が動いた。


ほんの少し。

それだけなのに。


布の端、皮膚の周りに、うっすら白いものが見えた。


「……おお」


誰かが小さく声を漏らす。

その「おお」が、一番危ない。


私はすぐ言った。速く。短く。逃げるために。


「光の角度。布の繊維。乾燥」


セシルが白板にさらさらと書く。

羽ペンじゃない。板に書く。書くのも速い。


【白く見える現象:便宜上「痕封」】

【断定しない:光の角度/布の繊維/乾燥】


痕封。

言葉だけが妙にかっこいい。かっこいいのが困る。流行る。


参加者が小声で復唱し始めた。


「こんぷう……」

「痕封……」

「痕封、覚えやすい……」


スーリが小声でうっとりする。


「かっこいい……」


「かっこよさで決めない」


「でも、かっこいい……」


「やめて」


リオネルは白い部分を見て、それから私ではなく、私の肩のあたりを見た。

視線が刺さる。真顔の刺さり。


私は黙る。

言うと紙が増える。黙るのが一番。


ユリウスが丁寧に場を丸めた。


「結論は急ぎません。現象の扱い方を、まずは手順として共有しましょう」


丁寧な言葉で囲いが進む。

やめて。囲わないで。


◇◇◇


質問タイムが始まった。


セシルが番号票の箱を持ち上げ、にこやかに言う。


「口頭質問は番号票の順です。短時間なので、簡潔に」


短時間、また来た。


番号票が配られる。

なぜか全員、ちゃんと並ぶ。騎士団の人まで素直に並ぶ。


整列がきれいすぎて、笑いが起きた。


「え、ちゃんと並ぶんだ」

「並ぶの、久しぶりに見た」

「番号票、強い」


番号票の力じゃない。

この人たちが真面目すぎるだけだ。


質問がテンポ良く飛ぶ。


「見物人が近い時は?」

「距離。下がってもらう。理由は転ぶから」


「布が足りない時は?」

「増やす。煮沸消毒できる布を多めに。足りないなら役割を分ける」


「話が長い人が来たら?」

笑いが起きる。みんな経験があるらしい。

「要点だけ聞く。時間が必要なら順番を確保して別に聞く」


「子どもが泣いたら?」

「呼吸。大人が呼吸。子どもはつられて落ち着く」


「え、それだけ?」

「それだけ」


拍手が起きそうになる。

やめて。拍手は目立つ。


セシルが白板にまとめ始める。


【よくある質問】

・近い → 距離(転ぶ)

・足りない → 役割分け

・話が長い → 要点、順番

・泣く → 呼吸


白板が紙の代わりになっているだけだ。逃げられない。


リオネルが淡々と手を挙げた。番号票じゃないのに。

例外は手順を増やす。これも実績だ。


「痕封は、手順に入れるのか」


空気が一瞬止まる。


私は即答した。


「断定しない言い方で。見えたら、光の角度と布の繊維と乾燥。以上」


リオネルは眉ひとつ動かさず頷く。


「テンプレ化できる」


セシルが即座に言う。


「では、『断定しない返し』として追加します」


やめて。追加しないで。


参加者が言い出す。


「それ、紙で欲しいです」

「現場に貼りたい」

「持ち帰りたい」


持ち帰るな。貼るな。増やすな。


セシルの笑顔が、ほんの少しだけ明るくなった気がした。

待ってましたの明るさだ。


「短時間なので、今ここで暫定版を作成します」


短時間は魔法じゃない。

魔法じゃないのに、紙が増える魔法みたいに聞こえる。最悪。


スーリが小声で言う。


「暫定って、いっぱい増えるやつだよね」


「言わないで」


「……しょん……」


◇◇◇


講習の「結び」に入りかけた。

かけた、だけだ。入らない。入るはずがない。


セシルが紙束を配り始めた。

さっきまで存在しなかった紙束が、なぜか存在している。怖い。


表紙に書いてある。


【Q&A手順紙(暫定版)】

【口頭確認の範囲/質問の出し方/衛生手順/断定しない返し】


暫定版。

暫定版は改訂版を呼ぶ。改訂版は正式版を呼ぶ。正式版は逃げ場を呼ばない。


参加者が盛り上がる。


「これ、もう一部ください」

「現場に十部」

「教会に回したい」

「薬師にも回したい」


配りたい、という言葉が増殖の合図だ。

私は顔が引きつりそうになるのを必死に抑えた。


その時。


スーリが、紙を揃えようとした。


善意。

最悪の善意。


ふわ、と風が吹く。

紙が舞う。


白い紙が、ひらひら、ひらひら。

講習室が一瞬だけ紙吹雪になる。


「わっ」

「うわ、きれい」

「違う、散ってる!」


笑い声が起きる。場が和む。これはこれで良い。

……良いけど、後片付けが増える。


私は肩を押さえた。


「スーリ! やめて!」


スーリがしゅんと縮む。


「……揃えたかった……」


「揃えるのは、手でやる」


「手……ない……」


「じゃあ、見守って」


「見守る!」


レティアが後ろの通路で深いため息をついた。

外周担当の疲労が見える。


ユリウスが丁寧に笑い、場をまとめる。


「本日は大変有意義でした。次は実地で、同条件を確認しましょう」


同条件。確認。実地。

良い人の賛成は強い。


会場が「賛成!」の空気になる。

そして、追撃が来る。


リオネルが淡々と結論を置いた。


「実地で再現性を取る。これで短時間だ」


短時間の定義が、完全に壊れた。


(短時間って何)

私は心の中でだけつぶやいた。


◇◇◇


講習室を出た瞬間、外の空気が少しだけ軽い。


「終わった……」


声にすると終わらない現実が来るので、小さく言っただけだ。


レティアが即座に袖を引く。


「目立たない道で帰る。行くよ」


「うん、帰る」


帰る。帰れば勝ち。

勝ちたい。今日は勝ちたい。


……その背中に、足音が近づいた。


丁寧な足音。

怖い。


「ミオさん」


セシルだった。

手には封筒。やさしい笑顔。やさしい笑顔は、だいたい紙が入っている。


「実地の案内紙です。短時間ですので」


私は封筒を受け取りながら、反射で言った。


「短時間って何ですか」


セシルは微笑んで答えた。


「丁寧な時間です」


最悪の答えが来た。


私は紙を見ないように握りしめた。

見たら予定が確定する。

でも、握っている時点でだいたい確定している。


レティアが一歩前に出て、セシルに礼を言う。


「受け取りました。では失礼します」


丁寧に遮断する姉、強い。

私の外周は今日も頼もしい。


その少し後ろで、出口付近に残っていた見学者らしき人が、こっそりメモを取っているのが見えた。


一言だけ。単語だけ。


「痕封」


その人は、なぜか楽しそうに頷いた。

明るい顔が、いちばん怖い。


私は視線を戻し、歩き出す。


逃げないつもりだったのに、今日も予定が勝手に決まっていく。

やけに丁寧に。

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