第58話 ここが、俺のいる場所
転移失敗から三日後。
ユージア国の朝は、いつものように始まっていた。
中央市場では、早くも商人たちが声を張り上げている。
「新麦だよ新麦!」
「魔王国産の鉄鉱石、入荷しました!」
「南区画で灌漑工事の募集だ!」
人の声と荷車の音が、街の空気を満たしていた。
ユージは丘の上から、その様子をぼんやり眺めていた。
「……すげぇな」
ぽつりと呟く。
隣にはナーチャンが立っていた。
「何がですか?」
「いや」
ユージは市場を指さす。
「三ヶ月前まで、あそこはただの荒れ地だっただろ」
ナーチャンは静かに頷いた。
確かにそうだった。
乾いた土地。
戦争で放棄された農地。
誰も近づかなかった場所。
今ではそこに…
畑が広がり
市場が立ち
人が行き交っている。
ユージは苦笑した。
「なんか、嘘みたいだな…あと、何度も言うが、俺は何もしてないぞ」
ナーチャンは言った。
「いえ、あなたがいるだけで、この国は上手くいくのです」
「マジで?」
「ええ」
「そんな訳ないだろ」
ユージは少し笑った。
ナーチャンはそんなユージを見て呟いた。
「あなたが思っているよりも、あなたという存在は大切なのですよ」
風が吹いた。
黄金の麦畑が、波のように揺れる。
そのとき――
空を、小型の交易飛行艇がゆっくり横切った。
王国の旗をひらめかした船と、
魔王国の紋章を船体に刻んだ船。
ユージはそれを見上げて言った。
「もしあれが成功してたら」
「今ごろ俺、向こうの世界に戻ってたんだよな」
元の世界。
狭い工場。
鼻をつく廃棄物の匂い。
黒い粉塵を上げる古いトラック。
そう、それが産廃屋の日常。
嫌いではなかった。
誰かのために働いているという実感があった。
ユージは頭をかいた。
「まあ」
「戻ったら戻ったで、また普通に働いてただけだろうけど」
ナーチャンは静かに聞いていた。
ユージは空を見上げたまま言った。
「でもさ」
少しだけ間を置く。
「なんか」
「もったいない気がしてきた」
ナーチャンが顔を上げる。
「もったいない?」
「うん」
ユージは笑った。
「こんな面白い世界」
「なかなか無いだろ」
丘の下を見下ろす。
市場。
畑。
工房。
人々の声。
ユージは肩をすくめた。
「元の世界じゃさ」
「誰かのために働いていたけど、その誰かは顔の見えない誰かなんだ」
「でもここじゃ」
苦笑する。
「みんなの喜ぶ顔が、はっきりと見える」
ナーチャンが言った。
「それは」
「あなたが成し遂げたことが素晴らしいからです」
ユージは首を振った。
「違う違う」
「ただの勘違いだ」
ナーチャンは微笑んだ。
「それでも」
「私はもうしばらくあなたの活躍を見ていたい」
ユージはしばらく黙っていた。
遠くで子どもたちの声が聞こえる。
市場の笑い声も。
そして、風。
しばらくしてユージは言った。
「まあ」
「もう少しここにいてもいいかな」
ナーチャンは少し驚いたように目を瞬いた。
「帰りたくはないのですか?」
ユージは笑った。
「帰りたい気持ちもなくは無い」
「でも、この世界にもしがらみが出来ちまったからな」
ナーチャンは少し視線を逸らした。
ユージはそれを見て、肩をすくめる。
「まあ、いいじゃん」
「そのうち帰りたくなるかもしれないし」
「そしたら、今度こそリシュンに頑張ってもらうさ」
そして、ゆっくり街を見渡した。
市場。
畑。
飛行艇。
働く人々。
ユージは小さく息を吐いた。
「それに」
「俺も見てみたいんだ」
「この先どうなるかをさ」
ナーチャンは静かに聞いていた。
ユージは言う。
「王国も変わってきてる」
「魔王国も」
「この国も」
「まだ始まったばっかりだ」
そして、頭をかいた。
「せっかくなら」
「最後まで見てみたい」
ナーチャンの表情が、少しだけ柔らいだ。
ユージは空を見上げる。
青空。
そこに、白い飛行機雲が伸びていく。
そして言った。
「まあ」
「なるようになるさ」
ナーチャンが小さく笑った。
「ええ」
「ここが――」
風が吹く。
麦が揺れる。
ナーチャンは静かに言った。
「ユージさまの、いる場所ですから」
ユージは照れくさそうに笑った。
「そうかもな」
ユージア国は、まだ小さな国だった。
だが確実に――
世界を変え始めている。
そしてその中心には、
自覚のない男が一人。
ユージは、もう一度だけ街を見下ろした。
そして呟く。
「さて」
「今日も仕事するか」
その言葉は、風に乗って広がった。
――ここが、俺のいる場所。




