第56話 旅立ちの日
送別会の翌朝――
ユージア国の空は、雲ひとつない青に染まっていた。
まるで今日という日を、最初から祝うと決めていたかのような晴天だった。
中央広場の周囲には、朝早くから人が集まっていた。
王国の者たち。
魔王国の者たち。
月影の宴旅団。
ユージア国に移り住んだ人々。
そして、街の子どもたちまで。
誰もが、広場の中央に設営された巨大な魔導装置を見上げていた。
幾重にも重なる円環。
地面いっぱいに刻まれた魔法陣。
中央で静かに脈動する巨大結晶。
超高出力時空間転移機構。
その周囲を、整備班と研究班が慌ただしく行き交っている。
上空では――
五つの白線が、鮮やかに空を引き裂いた。
赤。
青。
緑。
金。
白。
ホワイトタイガーの編隊が、色付きの魔導煙をたなびかせながら、広場の真上を美しく旋回する。
見上げた子どもたちが歓声を上げた。
「すげぇぇ!」
「見ろよ、虹みたいだ!」
「ユージ様、ほんとに帰っちゃうの?」
その声に、ユージは苦笑した。
中央の控え区画で、彼は宇宙服にも似た重厚な防護装備を着せられていた。
厚手の白い外装。
頭部を覆う透明な魔導面。
胸元には、リシュン謹製の制御補助結晶。
動きにくいことこの上ない。
「なあ、これ本当に必要か?」
腕を持ち上げながら言うと、リシュンが鼻を鳴らした。
「当たり前だろ。異界転移だぞ?」
「むしろそれで足りるか不安なくらいだ」
アルノルトが最後の調整をしながら淡々と補足する。
「転移先の環境が完全に保証されているわけではありません」
「気圧差、温度差、空間歪曲――」
「わかったわかった、怖いからそれ以上言うな」
ユージが顔をしかめると、タケシトが大笑いした。
「なんだよリーダー、今さらビビってんのか!」
「当たり前だろ!」
「俺、昨日まで送別会やってたんだぞ!?」
「普通、送別会の翌日に異世界転移本番とかやるか!?」
「うちの国ではやるんだろ」
「昨日できた国の風習みたいに言うな!」
周囲から笑いが起こる。
だが、その笑いの裏には、皆どこか落ち着かないものを抱えていた。
本当に、今日で別れなのかもしれない。
その可能性が、誰の胸にも重く沈んでいた。
少し離れた場所で、神楽耶が腕を組んでその様子を見ていた。
「なんとも締まらぬ男じゃのう」
口ではそう言いながら、その声音はどこか優しかった。
アルノルトが位置調整を終え、装置の中央を示す。
「準備完了です」
リシュンが深く息を吐く。
「よし」
その声で、広場の空気が引き締まった。
サトータが一歩前に出る。
「皆様」
よく通る声が広場に響く。
「本日、ユージ殿は、超高出力時空間転移機構によって、元の世界への帰還を試みます」
ざわめきが、波のように広がる。
サトータは続ける。
「この国の誕生と発展に多大なる影響を与えた人物を送り出す、歴史的な瞬間です」
「どうか、最後まで見届けてください」
最後、という言葉に、何人かがわずかに表情を曇らせた。
ユージはそれを見ないように、空を見上げた。
ホワイトタイガーが、ちょうど最後の編隊飛行を終えて、高く抜けていく。
五色の軌跡が、青空に美しく残っていた。
「……派手すぎるだろ」
ぽつりと呟くと、隣のナーチャンが言った。
「あなたらしいと思います」
「俺、こういうの指示した覚えないんだけど」
「皆が勝手にそうしたのです」
「つまり、俺のせいじゃないと」
「ええ、たぶん」
珍しく少しだけ曖昧な返しだった。
ユージは、透明な面越しにナーチャンの顔を見る。
相変わらず整った無表情。
だが、その瞳の奥だけが、昨日の焚き火の前と同じように、わずかに揺れている気がした。
「……じゃ、行ってくる」
できるだけ軽く言った。
ナーチャンは一拍置いてから、静かに頷く。
「はい」
それだけだった。
それだけなのに、妙に胸に残った。
ユージは装置の中央へと歩く。
左右から、大きな拍手が起こる。
王国の者たちも。
魔王国の者たちも。
旅団も。
移住者たちも。
皆が手を振っていた。
タケシトは両手をぶんぶん振り回しながら叫んでいる。
「リーダー!向こう行っても元気でな!」
「帰ったら土産よろしく!」
「異世界土産って何持って来ればいいんだよ!」
神楽耶は小さく扇子を口元に当てた。
「達者での」
その横で、アサダが両手を胸の前で組み、祈るように目を閉じている。
サムは静かに立ち、何も言わなかった。
ただ、その鋭い視線は一瞬たりとも装置から逸れない。
マイヤンも来ていた。
少し離れた席から、腕を組んだままユージを見ている。
そして小さく、聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「……最後まで、ちゃんと見届けなさいよ」
ユージは、装置中央の円環の上に立った。
足元の魔法陣が淡く光る。
胸の鼓動が、少しだけ速くなる。
帰れるかもしれない。
本当に。
元の世界に。
しがない産廃屋だった自分の日常に。
そう思うと、不思議と実感が薄い。
むしろ、今ここで自分を見送っている人々の顔の方が、よほど鮮明だった。
リシュンが叫ぶ。
「リーダー!」
「合図したら魔力を込めろ!」
「わかった!」
アルノルトが制御盤の前に立つ。
「位相同期、開始」
「座標固定」
「空間外縁安定」
無数の結晶が一斉に点灯した。
空気がぴんと張りつめる。
広場全体が静まり返る。
リシュンが片手を高く上げた。
「――今だ!」
ユージは目を閉じ、意識を集中する。
魔力なんて相変わらずよくわからない。
だが、あの日と同じように、“出せ”と念じた。
次の瞬間。
ドン――ッ!
装置が眩く輝いた。
青白い光が柱となって立ち上がり、ユージの身体を包み込む。
風が巻き起こる。
髪が、旗が、服が、大きくはためいた。
人々が息を呑む。
眩しさの中で、ユージの輪郭が揺らぐ。
そして――
忽然と消えた。
「……」
静寂。
本当に、消えた。
装置の中央には、もう誰もいない。
広場全体が、言葉を失っていた。
タケシトが、ぽつりと呟く。
「……行っちまったな」
神楽耶が目を細める。
「とうとう帰ったか」
アサダは胸の前で組んでいた手を、ゆっくり下ろした。
マイヤンも、サムも、誰も言葉を発しない。
ナーチャンだけが、微動だにせず、装置の中央を見つめていた。
ほんの一瞬。
本当にほんの一瞬だけ。
その瞳が、揺れた。
――だが、そのとき。
再び、装置が光った。
「!?」
リシュンが顔を上げる。
アルノルトが制御盤を見て、目を見開く。
「再反応!?」
「座標が――」
言い終わる前に、光が弾けた。
そして。
ドサッ!!
ほんの数メートル先。
装置中央から少し外れた石畳の上に、白い防護装備の塊が尻から盛大に落下した。
「痛ぇぇぇぇ!!」
広場が、完全に止まる。
白い面がぱかっと開き、ユージが顔を出した。
髪はぼさぼさ。
涙目。
尻を押さえている。
「ちょっ、ちょっとどういうこと!?」
「戻っちゃったんですけど!?」
数秒の沈黙。
それから――
「ぶはっ!」
最初に吹き出したのはタケシトだった。
「帰ってきてるじゃねぇか!!」
その一言をきっかけに、広場が一斉に崩れた。
笑い。
安堵。
涙。
拍手。
泣きながら笑っている者までいる。
神楽耶は扇子で口元を隠しながら肩を震わせていた。
「なんという締まらなさじゃ……!」
アサダも思わず口元を押さえて笑っている。
マイヤンは額を押さえた。
「最後までこうなのね……!」
ナーチャンは――
一度だけ、深く、深く息を吐いた。
それから、いつもの静かな顔に戻る。
ユージは立ち上がりながら、必死に抗議した。
「いや笑い事じゃねえからな!?」
「俺、今めちゃくちゃ帰った感じあったんだぞ!?」
「なのに何で数メートル先に落ちてんの!?」
「意味わかんねえよ!!」
タケシトが腹を抱える。
「異世界じゃなくて、異場所転移だったな!」
「うるせぇ!!」
大騒ぎの中。
ただ一人、リシュンだけが笑っていなかった。
彼は装置の制御盤に駆け寄り、計器を睨みつけている。
アルノルトもすぐ横で数値を確認した。
「出力は足りていたはずです」
「座標固定も正常でした」
「なら何で――」
リシュンの眉が、ぴくりと動く。
魔導回路の一部。
制御系のごくわずかな数値。
それは、彼の想定とは明らかに違っていた。
「……おかしい」
アルノルトが顔を上げる。
「どうしました?」
リシュンは答えなかった。
制御盤から、中央結晶、補助回路、そして装置の外縁部へと素早く視線を走らせる。
その目は、笑いの余韻の中で、急速に冷えていった。
ユージはまだ尻をさすりながら文句を言っている。
周囲は泣き笑いで大騒ぎだ。
だが、リシュンだけは静かに気づき始めていた。
これは、単純な失敗ではない。
誰かが――
意図的に、出力を抑えたのではないか。
リシュンはゆっくりと顔を上げた。
そして、人混みの向こうに立つナーチャンを見た。
彼女はいつも通り、静かにユージを見ていた。
何も言わず。
何も変わらぬ顔で。
その姿を見た瞬間、リシュンの中で、何かが繋がった。
「……なるほどな」
小さく呟く。
だが、その声は誰にも届かなかった。
広場ではまだ、泣き笑いの拍手が続いている。
帰還は失敗した。
だが――
物語は、まだ終わらない。




