第55話 ふるさとは遠きにありて思ふもの
ユージア国――中央広場。
夕暮れの空が、黄金色の麦畑と、出来たばかりの街並みを柔らかく染めていた。
広場の中央には、即席とは思えないほど立派な長机がいくつも並べられ、炭火の匂いと肉の焼ける香ばしい煙が立ちのぼっている。
酒樽。
焼き立てのパン。
山のような肉。
大鍋いっぱいのスープ。
そして、やたら張り切って飾り付けられた横断幕。
――ユージ送別会
それを見上げて、ユージは眉をひそめた。
「……“たぶん”って何だよ」
横で腕を組んでいたタケシトが、満面の笑みで親指を立てる。
「だって、まだ実験前だからな!」
「失敗したら送別会じゃなくなるだろ?」
「だったら最初からやるなよ!」
「縁起物だよ、縁起物!」
まったく意味がわからなかった。
だが、広場にはすでに王国側、魔王国側、月影の宴旅団、タスクフォース、移住者たちまで集まっており、今さら中止できる雰囲気ではない。
そもそも、リシュンが昼間、さらりと言ったのだ。
「転移装置、ほぼ完成した」
その一言で、空気が変わった。
装置の最終調整は終わり、あとは翌朝、ユージ本人を使って起動試験を行うだけ。
つまり――理論上、明日にはユージは元の世界へ帰れるかもしれない。
その事実が、想像以上に皆の心を揺らしたのだった。
ユージは、広場を見回した。
夕暮れの中、人々が笑っている。
王国の兵士が魔族の職人と杯を交わし、獣人の商人が旅団の若者に肉を勧めている。
こんな光景を、少し前の自分は想像もできなかった。
「……なんか、変な気分だな」
ぽつりと漏らすと、隣にいたナーチャンが静かに問う。
「何がですか?」
「いや……送別会って、普通もっとしんみりするもんじゃないのか?」
ナーチャンは広場を見回し、わずかに口元を緩めた。
「しんみりしている者もいますよ」
「あなたが気づいていないだけで」
その言葉に、ユージは少しだけ視線を泳がせた。
確かに。
皆、笑ってはいる。
だがその笑顔の奥に、どこか落ち着かないものが混じっているのも感じていた。
そのとき、中央の即席ステージにタケシトが飛び乗った。
「よーし!それではただいまより、ユージ送別会を開始する!」
「異論は認めない!」
「認めろよ!」
ユージの抗議は、拍手と歓声にかき消された。
「まずは乾杯だ!リーダー、一言!」
「え、俺!?」
四方八方から視線が集まる。
ユージは仕方なく前に出て、頭をかいた。
「えーと……」
少し考える。
こういうとき、気の利いたことを言える性格ではない。
「……まあ」
広場が静まる。
「まだ帰れるって決まったわけじゃないし」
「“たぶん”送別会らしいから、深く考えずに食って飲んでくれ」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、どっと笑いが起きた。
「相変わらずだな!」
「最後まで締まらぬ男じゃ!」
「そこが良いのですよ」
ユージは肩をすくめた。
「じゃ、乾杯」
杯が一斉に掲げられる。
「「「乾杯!!」」」
歓声が夜空に響いた。
宴は、すぐに大騒ぎになった。
タケシトは勝手に司会を始め、またしても歌合戦と隠し芸大会の流れを作っている。
旅団の若者たちは囃し立て、王国兵までなぜか巻き込まれていた。
リシュンは酒を片手に、アルノルトと何やら装置の話で盛り上がっている。
イコタンは宴の最中だというのに帳簿を手放さず、各テーブルでしれっと寄付金と今後の投資話をまとめていた。
「いや送別会で何やってんの」
とユージが突っ込むと、彼女はにっこり笑って答えた。
「感傷だけでは国は回りませんので」
正論だった。
しばらくして、ユージは炭火の近くで一息ついていた。
すると、リシュンがどかっと隣に座る。
「なんだ、主役が隅っこで何してんだ」
「疲れてんだよ」
「明日には異世界帰還かもしれねぇ男の顔じゃねぇな」
ユージは火を見つめたまま答える。
「実感わかねぇよ」
リシュンは笑った。
「まあ、そうだろうな」
少し間を置いて、真面目な声になる。
「でもさ」
「リーダーがいなかったら、ここまで来なかった」
ユージは即座に首を振る。
「いや、それはお前らだろ」
「装置作ってんのも、畑作ってんのも、制度回してんのも全部」
「俺は言うだけ言って逃げてるだけだ」
リシュンは鼻で笑った。
「そういうとこだよ」
「何が」
「自分がどんだけ無茶苦茶なことしてるか、わかってねぇとこ」
ユージは言い返そうとしたが、うまく言葉が出なかった。
その代わり、少し離れたところからアルノルトが静かに近づいてきた。
「ユージ殿」
「あなたは“完成の条件”でした」
「条件?」
「ええ」
アルノルトは淡々と言う。
「技術も理論も、以前からありました」
「ですが、それを実現するだけの出力源が存在しなかった」
「あなたがいたから、形になったのです」
それは、彼なりの最大級の感謝なのだろう。
ユージはどう返していいかわからず、困ったように笑った。
「……そりゃどうも」
そのやり取りを、少し離れた席から神楽耶が見ていた。
小さな杯を傾けながら、彼女は言う。
「お主、最初は本当に情けない男じゃと思うた」
「今もだいぶ情けないぞ」
「余計なお世話だ」
神楽耶はくすりと笑った。
「じゃが」
目を細める。
「情けなくとも、逃げたくとも、最後には逃げぬ」
「そういう男は、得難い」
風が吹き、神楽耶の長い黒髪が揺れた。
「父上も、お主のような者に会えておれば、少しは違ったかもしれぬの」
その声音は穏やかだったが、ほんのわずかに寂しさが滲んでいた。
ユージは、答えに迷った。
だから、結局、正直に言うしかなかった。
「……俺は、そんな立派なもんじゃないよ」
神楽耶は首を振る。
「立派な者ほど、そう言うのじゃ」
しばらくして、王国側の席からマイヤンが近づいてきた。
相変わらず凛とした姿だが、今夜はどこか柔らかい。
「ずいぶん賑やかね」
「タケシトが勝手に始めた」
「でしょうね」
マイヤンは苦笑し、それからユージを見る。
「本当に帰るの?」
直球だった。
ユージは一瞬言葉を失う。
「……帰れるなら、な」
「そう」
短い返事。
だが、その一言の中に、いくつもの感情が混じっている気がした。
悔しさ。
寂しさ。
安堵。
諦め。
マイヤンはそれ以上深くは問わなかった。
「少なくとも」
「あなたのおかげで、王国は変わり始めたわ」
「だから……少しだけ感謝してる」
「少しだけかよ」
「全部感謝したら腹が立つもの」
そう言って、彼女は踵を返した。
去り際、小さく振り向く。
「でも」
「最後まで、ちゃんと見届けなさいよ」
王女らしい、命令口調だった。
その後、魔王国側からアサダがやって来た。
「楽しそうですね」
柔らかな声だった。
「まあ、無駄に賑やかだな」
アサダはくすりと笑う。
「無駄ではありませんよ」
「別れの前に、同じ卓を囲めるというのは、とても尊いことです」
ユージは、少しだけ照れた。
アサダは杯を持ち上げる。
「もし帰られるとしても」
「ユージ殿が作った流れは残ります」
「わたくしが、ちゃんと守ります」
その言葉に、サムも静かに頷いた。
「あなたは歴史に残るでしょう」
「やめてくれ、そういう重いの」
「事実です」
重かった。
だが、不思議と嫌ではなかった。
宴もたけなわとなり、焚き火の火が小さくなっていくころ。
人々は少しずつ散り、広場には穏やかな夜気が満ちていた。
ユージは、一人で焚き火を見つめていた。
そこへ、ナーチャンが静かに隣へ座る。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
火の爆ぜる音だけが、静かに響く。
やがてナーチャンが言った。
「皆、あなたに感謝しています」
ユージは苦笑する。
「買いかぶりだろ」
「いいえ」
「それは事実です」
また、少し沈黙。
そして、ナーチャンは焚き火を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……帰ってしまうのですね」
その声は、あまりにも小さかった。
ユージは横顔を見る。
ナーチャンは、いつもの無表情に近い顔をしている。
けれど、その瞳の奥だけが、少し揺れていた。
「まだ、成功するかわからないけどな」
「ええ」
「でも、帰れたら……帰るのですか?」
ユージは答えに詰まる。
それは、ずっと考えないようにしてきた問いだった。
元の世界。
しがない産廃屋の仕事。
狭い部屋。
面倒ごとばかりの毎日。
だが、確かに自分がいた場所。
一方で、こちらの世界。
面倒ごとは比較にならないほど多い。
けれど、笑う仲間がいて、変わっていく国があって、自分の言葉で誰かの明日が少しだけ変わる。
どちらが良いとか悪いとか、簡単には言えなかった。
だからユージは、曖昧に笑った。
「……どうだろうな」
ナーチャンは、ゆっくり頷く。
それ以上は聞かなかった。
ただ、立ち上がる前に、静かに言う。
「もし帰れなくても」
「私は、それでも良いと思っています」
一瞬、ユージは言葉を失った。
だがナーチャンは、いつもの顔に戻っていた。
「明日は早いです」
「夜更かししないでください」
そう言って去っていく背中を、ユージはしばらく見送った。
焚き火はもう、ほとんど燃え尽きていた。
夜空を見上げる。
星が、妙に近かった。
「……まったく」
誰にともなく呟く。
「最後の最後で、面倒なこと言いやがって」
けれど、その口元は少しだけ緩んでいた。
明日。
もし本当に帰れるのなら。
自分は、何を選ぶのだろう。
まだ答えは出ない。
ただ一つだけ確かなのは――
この夜が、思っていた以上に惜しいものになってしまった、ということだった。




