第35話 水は剣よりも強し
翌朝。
空白地帯は、妙に静かだった。
昨日の轟音が嘘のように、風だけが荒野を撫でている。
仮設拠点は半壊。
魔導装置の支柱が傾き、土嚢は崩れ、溝は抉られていた。
ユージは感情を押し殺した顔でつぶやいた。
「……やっぱまずかったよな?」
返事はない。
リシュンは夜通し山を観測していた。
アルノルトも同じだ。
神楽耶は、何も言わずに夜明けを待っていた。
その時。
「……なんか、音がするよ!」
地面に耳をあてていた旅団の少年が、山を指差した。
全員が耳を澄ます。
最初は、風の音にしか聞こえない。
だが違う。
かすかに。
確かに。
サラ……。
細い、流れる音。
魔王軍の魔導砲によって抉られて出来た溝に
一筋の水が流れていた。
皆が動かず見つめる。
まるで幻を見ているかのように。
流れは、やがて複数の筋となり。
筋があわさって、流れになった。
一瞬だけ、大地が息を呑んだように静まり――
次の瞬間。
轟、と音を立てて水が溢れ出した。
雪解け水。
閉ざされていた地下水脈が、一気に解放されたのだ。
濁流が荒野を走る。
昨日削られた一直線の溝へと吸い込まれていく。
まるで、最初からそこに川があるかのように。
「……出来すぎだろ」
ユージが呟く。
リシュンはニヒルな笑みを小さく浮かべている。
アルノルトは、ただ流れを見ている。
水は中央低地へと集まり始めた。
旅団の者たちが駆ける。
「堤を作れ!」
「石を積め!」
子どもたちも土嚢を運ぶ。
神楽耶は、ゆっくりと歩き出した。
水辺に膝をつく。
手を差し入れる。
冷たい。
だが、生きている水だ。
その瞬間。
彼女の瞳が揺れた。
「……百年」
小さく呟く。
「百年、待った」
アルノルトが目を伏せる。
神楽耶の父が戦い続けた土地。
補給もなく。
救援もなく。
ただ“最前線”として消費された場所。
そこに。
今、水が流れている。
神楽耶は立ち上がる。
涙は、もう消えていた。
「剣は、一瞬で命を奪う」
「水は、ゆっくりと命を育てる」
静かに言う。
「わらわは、水を選ぶ」
その宣言は、小さかった。
だが重かった。
そして、ユージに向かって、静かに頭を下げた。
「なんか知らないけど、良かったな!」
「俺のせいじゃないけどな」
「ふふっ。やはりおぬしはそう言うのだな」
「しかし、我ら月影の宴旅団一同、この恩は末代まで忘れぬぞ」
数日後。
荒野の色が変わる。
泥が沈み、土が黒くなる。
種を撒いた区画から、かすかな芽が顔を出す。
旅団の若者が叫ぶ。
「芽が出た!」
歓声。
ユージは頭を掻く。
「早くない?」
ナーチャンが淡々と答える。
「水と養分が安定すれば、植物は正直です」
リシュンが呟く。
「問題は持続性だな」
アルノルトが頷く。
「水量は十分。流路も安定している」
二人の視線が、再び合う。
今度は笑わない。
確信している。
この土地は、蘇る。
王都。
報告が届く。
「空白地帯に恒常水流確認」
会議室がざわめく。
ニシダトが杖を握りしめる。
「魔導干渉の痕跡は?」
「確認できません」
サナディが低く言う。
「魔族の地形改変兵器ではないのか」
ゲユタカが難しい顔で言う。
「弾道記録から判断して、魔王軍の魔導砲が原因か」
沈黙。
マイヤンは、ゆっくりと笑った。
「皮肉ね…」
「魔王軍の攻撃が、土地を潤したって訳ね」
空気が止まる。
ゲユタカは窓の外を見る。
(偶然か……)
(それとも、設計か)
マイヤンは小さく呟く。
「……あの男、本当に何者なの?」
その声には、わずかな戸惑いがあった。
魔王城。
アサダは報告書を読み、目を伏せる。
「我らの砲撃が……灌漑を?」
幹部たちが困惑し、顔を見合わせる。
サムは魔王の隣で沈黙していた。
弾道。
地形。
水脈。
全てが偶然とは思えない。
「軍師殿?」
副官が問う。
サムはゆっくりと言う。
「もし、あの位置に地下水脈があることを知っていたとしたら」
室内が静まる。
「我らは、利用されたことになります」
アサダの瞳が揺れる。
「偶然ではないと?」
「分かりません」
だが。
サムの胸の奥では、答えはほぼ出ていた。
辺境調停官ユージ。
戦わずに、敵の力を使う。
それが可能な男だ。
「……恐るべき男です」
その言葉は、重かった。
夕暮れ。
水面が赤く染まる。
荒地だった場所に、大きな池が出来ている。
子どもたちが水をすくって笑う。
神楽耶が空を見上げる。
「父上」
小さな声。
「ようやく、この地は戦場でなくなるやもしれぬ」
ユージは隣に立つ。
「そうなればいいな」
神楽耶はくすりと笑う。
「じゃが、流れは生まれた」
水は止まらない。
静かに。
だが確実に。
土地を変える。
人の心を変える。
そして。
国の思惑さえも、変え始めていた。
剣は、敵を倒す。
だが水は、未来を育てる。
この日。
まだ誰も知らない。
静かに、だが確実に。
世界は、舵を切った。
奪いあう時代から。
共に育む時代へ――
水音が、その始まりを告げていた。




