本物の山
急斜面へ差し掛かると、エマとオマハはひょい、と足を乗せてそのままジグザグに登り始めた。
普通なら足に乳酸が溜まって泣きたくなる角度でも、この二人は淡々と、むしろ散歩の延長みたいな顔で登っていく。
「……ますます侍女とは思えなくなるね」
とオマハが冗談混じりに言うと、
「皆こんなものでしょう」
とエマはさらっと返す。
急斜面を登り始めてから約30分。
「……よし、登り切ったね」
と思った瞬間、目の前に立ちはだかったのは―――氷壁。
とはいえ、見たところそこまで複雑な構造ではない。
表面に段差が多く、ピッケルを引っ掛けやすい。
むしろ「登ってください」と言わんばかりにきれいに凍りついている。
もちろん普通の登山者からすればそれなりの難易度だが、この二人からすれば―――
「行きますね」
とエマが短く言って、氷壁にピッケルを突き立てた。
ガキィン!
音の鋭さとは裏腹に、そのままスルスルと軽々登っていく。
まるで氷壁の方がエマを歓迎しているみたいだ。
オマハも続くが、オマハがこれほど楽に登れるのは長年の経験による判断力ゆえだろう。
数分後、二人は無事に氷壁を越え―――
「ここからは緩やかな斜面だね」
と言う通り、広くて穏やかな傾斜が続いていた。
だが風は冷たくなり、雪は深く、そして……
「エマ、前」
とオマハが指を向けた先。
そこにいたのは、毛皮を雪のように白く光らせた アイスウルフ。B級の魔物。
爪が氷でできていて、引っかかると砕けた氷が体内に残り……
考えたくもない。
“食らわなければいい”というのは、言い換えれば“絶対に食らってはいけない”という意味でもある。
「ここは僕が―――」
と言いかけた瞬間。
雪が、舞った。
エマの姿が消え、
スパァン!!
白狼の首元にまっすぐ走る切り裂き線。
アイスウルフは反応すらできず、静かに崩れた。
「……エマ、今のはちゃんと見て倒したよね?」
「今回は見て倒しましたよ?」
淡々と歩いて戻るその姿は、まるで「何か問題でも?」という顔である。
オマハは笑って肩をすくめた。
「ははっ、D級がB級を先に倒すなんて、聞いたこともないよ」
エマは軽く笑いを返すだけで、また歩き出した。
そして登山は続く。
雪が深くなるほど、山の空気は静かになり……
その静寂を破るように、妙な光景が目に入った。
登山客の道具。
ザック、手袋、靴、ロープ、そして濡れた外套。
散乱している。
だが――― 死体がない。
「……食われた、にしては血がないね」
「しかも装備はそこまで損傷もなく、倒した後、引きずった形跡も…」
足跡も薄い。風に消されたと言われればそうだが、それにしても不自然。
エマは黙って周囲を見渡したまま歩き続けた。
「やっぱりこの山……何かある」
オマハの声は、雪と同じく静かに落ちていった。
一方その頃―――
レティシアは、家で“何も出来ず”、ベッドに沈んでいた。
朝に筋肉痛で動けなくなってから数時間。
結局、まともに歩けるようになる気配はない。
「ん……いててて……なんで脚だけじゃなくて腕まで痛いのよ……」
これまで運動をしていなかったからだろうか
そして今そのツケを払っている。
何もできない。
だから読書。
ひたすら読書。
けれど痛む腕で本を支えるのはしんどい。
それでも―――
「……勉強、しよ。エマに褒められたいし……」
レティシアはベッドに寝転んだまま教材とノートを開いた。
羽ペンを取って、ぎゅっと握り、問題を解き始める。
ペタ……ペタ……
ゆっくり羽根ペンを動かしながら書いていたその時。
カタン。
「っ!?やっば……インクこぼした……!」
震える手で、インク瓶を倒してしまったのだ。
ノートとシーツに広がる黒い染み。
レティシアの脳内で、想像上のエマが腕組みして立つ。
『インクを落とした罪です』
そんな言葉がレティシアの脳裏をよぎる
そして、毎日のフルコースが3倍になる未来しか見えない。
「……なんとかしなきゃぁぁぁ…!!」
顔を布団に埋めてばたばた暴れるが、筋肉痛で余計痛くて更に涙目。
なんとかしなきゃという気持ちと筋肉痛が相反しているレティシアであった。




