登山スタート!!
昼過ぎ、馬車が山の小さな麓町"ティナリ"の石畳にゆっくりと止まった。
標高二千メートルにある山麓の町は、空気そのものが澄み切っており、息を吸うたび胸の奥がすっきりする。町並みはレンガ造りの家が多く、窓辺にはランプと乾燥肉が吊されていた。どこか山岳特有の、どっしりとした生活の気配が漂う。
「まずは宿に荷物を置こうか」
宿は「トレイル・ランタン」と呼ばれる、木梁の太い旅籠だった。
中は暖炉が焚かれ、乾いた薪の匂いが心地よい。
荷物を部屋へ卸したあと、エマは肩をほぐすように伸びをした。
「さて、腹ごしらえでもしよう。山の前に食べておくのは大事だからね。ティナリなら──“山の摩天楼”がいいかな」
「摩天楼……?」
「大げさな名前だけど、ただの飯屋だよ。美味いけどね」
町の中央通りにある店は、確かに名前のわりに素朴な外観で、木製の看板に大きく“山の摩天楼”と彫られている。扉を開けた瞬間、香ばしい香りが鼻をくすぐった。肉とスパイス、それに野菜を煮込んだ匂いが食欲を一気に刺激する。
「いらっしゃい!二人かい?」
「はい、お願いします」
席に案内され、温かいスープと焼きパンを頼む。
間もなく運ばれてきたスープは濃厚で、具材が底にたっぷり沈んでいる。エマは一口啜り、思わず目を丸くした。
「……美味しいです!」
「ここは外れがないんだ。山登りの前に最適だよ」
オマハはパンをちぎりながら笑った。
食事を終える頃には、体の芯まで温まり、登山前の緊張が半分ほど溶けていくようだった。
「よし、宿に戻って最終チェックをしよう」
エマは昼間の柔らかい光の中、再び宿へ戻った。
部屋に入ると、ザックを開き、中身を一つひとつ確認する。
手袋、ゴーグル、携帯食、ロープ、簡易医療具──そして剣。
「もしものことが…あるかもだし、持っていって損はないよね」
腰にそっと差すと、重みが心にまで伝わってくる。
そのとき──
コンコンと扉が叩かれた。
「はい」
「もう準備はできたかい?」
扉を開ければ、オマハがすでに出発の姿勢で立っていた。
ザックを背負い、剣を腰に下げ、その眼は登山前特有の、静かな緊張と高揚を宿している。
「はい。準備は整いました」
「なら──行くだけだね」
「もう行きますか?」
「あれ、行かないの?」
オマハは冗談めいた笑みを浮かべ、軽く肩をすくめた。
エマもつられて微笑む。
「よし、行こうか!」
勢いよく背を押すような声に導かれ、二人は宿を出た。
夕陽の橙が石畳に斜めに差し込み、町の影を長く伸ばしている。
その先に──どこまでも大きく広がる、トリポリ山脈の稜線があった。
山の入口は町の外れ、石造りのゲートに衛兵が二人立っていた。鎧は雪に合わせて白い布が巻かれ、槍の穂先が鈍く光る。
「通行証、もしくはギルドランクを提示できるものを」
オマハは迷うことなくギルドカードを掲げた。漆黒に輝く“Aランク”の文字が、夕陽を反射する。
「確認した。──そちらのお嬢さんは?」
「ああ、彼女はぼくの連れだ。だから大丈夫」
「……なるほど。わかった。通っていい」
ゲートが開き、冷たい山風がふわりと吹き抜けた。
エマは深呼吸をひとつし、足を踏み入れる。
―――入山成功。
標高二千メートルのティナリから、登るのはたった千メートル強。
だが、この山は普通ではなかった。最初から目の前に広がるのは、氷をまとった岩稜帯。所々に積雪があり、踏みしめればぎゅ、と音を立てる。
「大丈夫だと思うけど……念のため足元気をつけてね?」
「……分かりました」
その瞬間。
右手の林から、雪を蹴立てる気配──魔物が飛び出す。
しかしエマは振り向きもせず、視線を前に向けたまま剣を抜き、横薙ぎにスパッと斬り払った。
細い悲鳴とともに魔物は崩れ落ち、雪に黒い影を残す。
「ところで、この山……どういう山なんですか?」
まるで今の一撃など、歩きながら手を払った程度の反応だ。オマハは呆れ半分、しかし満足げに頷いた。
「少し前までは、魔物が出ると言っても、せいぜいB級が稀に出る程度でね。安全な山だったんだよ。
冒険者の訓練に最適で、ギルドがよく遠征に来ていたくらいだ」
「でも、道中が危険なんじゃ……」
「登山を“ある程度だけ”経験した人からすれば危険かもね」
そう言って、オマハは前方を指差す。
そこには──雪の乗った、ほぼ壁に近い斜面。
「……あれ、六十度近くありません?」
「大丈夫、大丈夫。ああいうところはジグザグに登っていけば良いんだよ。焦ってまっすぐ登ろうとすると滑るけどね!」
「……本当に大丈夫なんでしょうか……」
「僕がいるんだから気にしない気にしない。それじゃ、登ろう!」
白い息が、二人の前にふわりと広がった。
いよいよ、本格的な登りの始まりだった。




