馬車の中にて
ギルド前の石畳を、相乗り馬車がゆっくりと揺らしていく。
朝のトレントはすっきりと晴れ、屋根瓦の赤色と白壁が陽光に照らされて眩しい。人と馬の気配が入り混じる雑踏を抜けるにつれ、市街は次第に静けさを帯びていった。
「さーて…これで出発、だね」
オマハが天幕越しの光を眩しそうに目を細めた。荷台に積んだザックとロープ、そして羅針盤が、かすかに金具を鳴らして揺れる。
「はい…なんだか、胸が高鳴ります」
「高鳴ってるのは不安とかじゃないのかい?」
「……半分半分、です」
エマは苦笑しつつ、馬車の揺れに合わせて体重をかけ直す。
窓代わりの開口部から流れる風はまだ冬を残して冷たいが、その奥に広がるのはどこまでも青い空だった。
馬車がトレントの城門を抜けた瞬間、エマは息を呑んだ。
郊外に広がる平原が、一気に視界へ押し寄せてくる。
朝靄がゆったり漂う草原の彼方──そこには、遠巻きにも分かる巨大な山脈が横たわっていた。木々の間から覗く深い影と白い稜線が、まるで別世界の壁のように屹立している。
「あの山脈が目的地ですか…?」
つい声が漏れる。
だがオマハは首を横に振った。
「いや、あれは目的地じゃないよ。あれは“モルダヴァ山脈”って言ってね。この国で一番の大山脈さ」
「あの、最高峰ってどれくらいなんでしょうか…」
聞いた自分の声が震えていることに気付く。
その規模は、遠目でも常識外れだった。
「えっとね、正確な高さは分かってないんだ。でも最高峰の“ユパンキリ”は──九千メートルを超えてるって噂だね」
「きゅ、九千…!?……でも噂ということは、まだ未登頂……?」
「未登頂以前の問題だよ。登ったら死ぬなんてものじゃない」
さらりと言ったが、言葉の重さは冗談ではない。
「そ、そんなに標高や地形が悪いんですか…?」
「いや、そーんな生ぬるい理由じゃないよ」
オマハは肩をすくめ、山頂付近を指差す。
「──あの山、ダンジョンだからさ」
「だ、ダンジョン……っ!?」
「正確には“山頂付近”がダンジョン化しているらしいけどね。
これまで数百のパーティーが挑んだ。でも完全登頂はゼロ。
帰ってきたパーティーは多いけど、大抵は“氷壁登攀の専門技術が必要なエリア”で躓くんだ」
エマは思わず喉を鳴らした。
「で、では……もし躓かずに行けたら?」
「行けたら、その先の山頂付近で魔物に殺されるね。あそこ、麓は確かにD~Bが一般的だけど、山頂に行くにつれて魔物の数が減る代わりにランクは上がっていく。山頂付近だとA~Sがわんさかしてるさ」
「そんな……」
「ま、魔物だけで見たら“トリポリ”も負けてないんだけどね」
「でも、トリポリは五千メートルでそこまで高いわけでは……」
「斜面が鬼のように急だから魔物が鍛えられるんだろうね。山頂近くはA級と普通に遭遇するらしいし。
―──だから“Aランク以上でないと入山禁止”なんだ」
エマは思わず自分の胸元を握りしめた。その指先の強ばりは隠せない。
「では……強い魔物が出るようになった理由があるんですね?」
「ある。だから今回の僕の役目は……遭難者の捜索、魔物の調査、そして─―─君の護衛だよ」
「……ひとつ、多いですね」
「ははっ。冒険者はイレギュラーが多いのが普通さ。役割が増えるなんてよくあるよ」
馬車はガタガタと石を踏み、しだいに森の中へ入っていく。
木々の隙間から、日差しが切れ切れに差し込み、車内に小さな光の粒が散る。
「この馬車が止まるのは昼頃。それまで一時間半くらいある。寝ておくといい」
オマハはひどく自然にそう言った。
まるで、彼にとって“山へ向かう道中”が日常の一部であるかのように。
「……では、少しだけ」
エマは背中の荷物を整え、揺れる馬のリズムに身を任せる。
眼を閉じると、微かな草木の匂いと、革製のザックの匂いが混ざり合い、不思議と落ち着く空気を作っていた。
馬車の車輪が土を踏む“ゴトリ、ゴトリ”という音が、次第に遠くなる。
その音に呼応するように、自分の胸の内のざわめきも、ゆっくりと落ち着いていった。
エベレストよりも高い山、登ってみたい。
まぶたの裏に浮かぶのは、先ほど見えた巨大なモルダヴァ山脈。その奥、まだ見ぬリトルカグア。
怖くないと言えば嘘になる。だがそれ以上に胸を突くのは、不思議な昂揚だった。
それは冒険心なのか、それとも──
まだ自分でも分からない。
しかし、馬車は確かに前へ進んでいた。
エマを、オマハを、そしてこの旅の行く末を運びながら。
そうして、彼女はそっと眠りに落ちていった。




