筋肉痛ですか。走りましょう
―――翌朝。
レティシアは起き上がった瞬間、全身に走るズキッという痛みに悲鳴を上げた。
「あっ……いだだだだっ……!! 私の脚……死んでる……!」
ベッドの上でバタバタ暴れながら、まるで世界の終わりのような顔をしている。
昨日の腹筋、腕立て、スクワット、そして地獄の十キロ。
あれをやって筋肉痛にならないほうがおかしい。
「……流石に今日は…ね?走らないよね?」
まさかと思いながら部屋のドアを開けると、そこにはすでにエマの姿があった。
「おはようございます、レティシア様。トレーニングの時間です」
「いやあぁぁぁっ!! いやよぉぉぉ!! 今日は絶対走らない!! 脚が取れる!!」
「大丈夫です。筋肉痛は成長の証です」
「証はいらないのよぉぉぉ!!」
駄々をこねて床にへたり込むレティシア。
だがエマは淡々とした顔で、腕を掴んでずるずる引きずり始めた。
「レティシア様、せめてランニングだけでも行いましょう」
「私の声を聞いて!? ねぇエマ、人の話聞ける!? ねぇぇぇぇぇ!!」
しかしエマは一歩もぶれない。こうしてレティシアは半ば強制的に外へ連れていかれた。
屋敷の前庭に出ると、冷たい風が頬に触れる。
そこでレティシアは思わず目を瞬かせた。
「あら、遅かったわね」
まっすぐな姿勢で立っていたのは―――アリーゼ。
昨日あれだけ走ったというのに、今日もまたスポーティな軽装を身にまとい、髪はゆるく結ばれている。
「えっ……な、なんで……?」
「では、今から行きましょうか」
「い、嫌よ!? 本当に脚が弾け飛ぶわ!!」
アリーゼは微笑んで首を傾けた。
「レティシア様、筋肉は弾け飛ぶことで成長していくのですわよ?」
「そんなバカな理論ある!?」
「ございます。筋繊維を破壊し、修復して強くなるのです。無理は禁物ですが、軽い運動は回復に役立ちます」
「じゃあ走らないでいいじゃない!! 休ませなさいよぉ!!」
「いいえ?今日は“走らない”ですわ」
「……え?」
その言葉にレティシアが固まる。
アリーゼはくるりと指先を後ろに向けた。
すると―――
「エマ様、お久しぶりです」
姿を現したのは、メイド服のベラだった。
落ち着いた表情は相変わらず、だが今日は腰に革製の小さなポーチまで装備している。
「ベラ様。今日は……成程、アリーゼ様の監視ですか」
「監視などと言いません。アリーゼ様がまた走りすぎないよう見守りに来ただけです。それに、今日は五キロほどのランニングです」
「五キロ―――」
その瞬間、レティシアはエマを睨んだ。
「あ、あと五キロも走るの……!?」
「昨日より少ないですわよ?」
「少ないとかそういう問題じゃないの!!」
レティシアがアリーゼを睨むその顔は、まるで獲物を狙う猫科の獣のようで―――
その表情に自分でハッとした。
ゲーム画面の記憶が、不意に脳裏に蘇る。
“聖女ルート”で、悪役令嬢レティシアが聖女を睨みつけたあの時の表情だ。
自分でも引くほどの迫力で、ヒロインを萎縮させたあの場面。
やっぱり……彼女には……悪役令嬢には片鱗がある……
そんな感傷に浸っていると―――アリーゼが満面の笑みを向けた。
「そういう目、素敵ですわねレティシア様。やる気が満ちてらして?」
「やる気じゃない!! 拒絶よ!! 拒絶の表情よ!?」
しかしアリーゼは意に介さない。
「ではレティシア様。今日のメニューは簡単ですわ」
「走らないって言ったわよね!?」
「えぇ。走りませんの」
「じゃあ帰っていい!?」
「―――歩いて五キロですわよ?」
「結局五キロじゃない!!!」
そんな叫びを上げた瞬間だった。
不意に、レティシアの口から“あのセリフ”が飛び出した。
ゲームで彼女が聖女に向かって言い放ち、好感度を一気に下げた、あの致命的な一言。
「あなたのその貼り付いた笑顔、時々……人を追い詰めるのよ……!」
アリーゼは一瞬だけ驚き、すぐにふわりと笑った。
「まぁ……褒め言葉として受け取っておきますわ」
……あぁ、やっぱり彼女は悪役令嬢。
レティシアは遠い目をしながら、エマとアリーゼに両脇を固められ、
今日もまた逃げられない運命の五キロへと歩き出すのだった。




