何事も上達するべきですよ
朝の食卓。レティシア様はパンをもぐもぐしながら、目を半分閉じていた。
「お嬢様、寝ながら食べると危険です」
「ん〜……夢の中でティータイムしてるの……」
「では夢の中で窒息死しないようお気をつけて」
「ふふ、優しいのねエマ……」
「現実です。起きてください」
パンくずがぽとりと落ちて、ようやく彼女が目をぱちりと開けた。
「今日はなにするの?」
「数学です」
「また!?昨日だって数字に殺されかけたのよ!?」
「けれどお嬢様、貴族たるもの知性も磨かねばなりません」
「磨く前に脳が砕けるわ!」
「では、砕けぬよう優しく参りましょう」
「そういう問題じゃないの!!」
机の上には筆ペンと羊皮紙。
インクの香りが朝日に混じって漂う。
「今日の課題は微積分です」
「びせ……その単語一生聞きたくないわ!」
「たとえば、y=x²。微分すると?」
「えぇと……xがふえる?」
「惜しいです。正解は2x」
「くっ……なんでそんな簡単そうに言えるの!?」
「慣れです」
「慣れって言葉が一番憎いわ!」
筆ペンを振り回して暴れるレティシア様。
「この筆、武器にしてやろうかしら」
「筆圧を下げてください」
「あなたみたいに器用じゃないんです!」
「では器用さを伝授いたしましょうか」
「そんな伝染病いやよ!」
「かかれば上達しますよ」
「うるさい!」
怒ってるのに、頬がほんのり赤い。
この人、怒るたびに可愛くなるのずるい。
そんな姿を見るとあ私の平静が…崩れてしまう。
…っくぅ!!抱きしめたくなっちゃう。
小一時間後、机の上には見事な幾何学模様が完成していた。
「これは芸術ですか」
「努力の痕跡よ!」
「美術展に出せそうですね」
「皮肉!?」
「感想です」
「舐めてる!?」
そう言いながらも、彼女は口元を緩めた。
「もう疲れた……頭が…」
「でしたら、少し休憩しましょう。音楽はいかがですか?」
「音楽?」
「ピアノがあります」
「また嗜まなきゃいけないの!?」
「いいえ。今日は、嗜みではなく癒しです」
サロンの扉を開けると、陽の光を浴びた白いピアノが待っていた。
磨き抜かれた表面に、窓の外の青空が映り込んでいる。
「……綺麗」
「音も綺麗ですよ」
「弾けるの?」
「少しだけですが」
私は椅子に腰を下ろし、深呼吸する。
鍵盤に指を置くと、ひんやりとした冷たさが伝わった。
一音。
音が空気を震わせ、静かな部屋に流れ出す。
旋律は、穏やかで、柔らかく、少し寂しい。
指が自然に流れを描くたび、空気が形を変えていく。
レティシア様は横に座り、息をひそめて、ただその音を見つめていた。
――気づけば、記憶がふっと滲んだ。
木漏れ日の中、真夏のホール。
ステージの上で、緊張で震える指。
でも音が出た瞬間、世界が静まり返った。
誰も知らない旋律を、自分だけが奏でる。
そのとき、私はたしかに生きていた。
そして、拍手が降り注いだ。
賞状よりも、その音が嬉しかった。
「……エマ」
「はい」
「すごいわ……」
その一言に、胸が少し熱くなる。
彼女の瞳が真剣で、少し潤んでいる。
「こんな音、初めて聴いたわ」
「音は、言葉よりも誠実なんです」
「ねぇ、どうしたらそんな風に弾けるの?」
「心を真っすぐにすれば、音は答えてくれます」
「心を……まっすぐに」
彼女は小さく繰り返し、そして微笑んだ。
「それなら……私にも、できるかしら」
「さぁ、どうでしょう?」
「むぅ…そういう事言うのね」
「…お嬢様なら出来ますよ」
「もぅ……そういうところ、好きよ」
「あら、ありがとうございます」
「き、聞かなかったことに!!」
頬を赤くしてそっぽを向く姿が可愛すぎて、思わず笑ってしまう。
彼女もつられて笑い、空気がやわらかく溶けていった。
音が静かに消える。
けれど、その余韻がまだ部屋に漂っている。
風がカーテンを揺らし、陽光が鍵盤を照らす。
その光の中で、彼女がぽつりと呟いた。
「エマ」
「なんでしょう」
「今の曲、もう一回……聴かせて」
「喜んで」
再び指を鍵盤に置く。
音が流れ、彼女の笑みが咲いた。
…本当に可愛らしい笑顔。




