皇子、教えに参りました
エマは約束の時間より少し早く、王宮の書斎に足を踏み入れた。
窓際には、昼の光を背に本を開く皇子の姿。
「ようこそ、エマ。今日も頼んだよ」
「はい。よろしくお願いいたします、殿下」
皇子は、微笑みながら椅子をすすめた。
机の上には教本と羽ペン、そして湯気の立つ紅茶。
静かな部屋に紙の音とペンの走る音だけが響く。
王城の書斎には静寂が満ちていた。
窓から差し込む柔らかな陽光が机の上の紙を照らし、淡い影を落とす。
エマは淡々とノートを取りながら、皇子に向き直る。
「では、今日の題材は代数学の基礎です。群論から入りましょうか。」
「ぐんろん……あの、群って軍のことじゃないよね?」
「はい。数学での群とは、集合と演算の組のことです。具体的には、和や積など、ある法則のもとで閉じている構造のことを言います。」
「なるほど……つまり、同じ操作をしても枠の外に出ない……ってことか。」
「えぇ、概ね正解です。」
エマは少し口元を緩めて黒板に式を書く。
『(G, *) が群である ⇔ 閉じていて、結合法則が成り立ち、単位元と逆元が存在する。』
「……これ、詩みたいだな。」
皇子の呟きにエマは少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
「詩……ですか?」
「秩序を守るための約束ごと。まるでこの王国みたいだ。」
「それは少し、都合のいい解釈かもしれません。」
エマは淡々と答えたが、どこか柔らかい声音だった。
皇子は小さく笑い、ペンを取る。
「次は体、だったね?」
「はい。群から一歩進んで、足し算と掛け算の両方の演算が存在し、どちらも逆元がある構造。それを体と言います。例えば有理数全体がそうです。」
「……難しいな。」
皇子は眉間に皺を寄せ、ノートに複雑な数式を写していく。
「ここ、a⁻¹が存在するって書いてあるけど、a=0のときは?」
「逆元は存在しません。ですので、0は除外します。」
「なるほど。……君、本当に詳しいね。」
「教養の一部です。」
エマはさらりと返し、分数体の定義に移る。
「Zという整数全体の集合を考えます。このとき、有理数QはZに分数を導入して作られます。つまり、a/b(b≠0)という形で―――」
「その“b≠0”を忘れたとき、構造が壊れる……。あぁ、そうか。完璧なものほど、壊れやすい。」
「……面白いことをおっしゃいますね。」
「難しくて逃げたいだけだよ。」
皇子は肩をすくめて笑った。
だが、その目には真剣さが宿っていた。
しばらくして、侍女が紅茶と焼き菓子を運んできた。
二人の間に漂う甘い香りが、少しだけ緊張を緩ませる。
「頭を使うと糖分が欲しくなるね。」
「学問の世界ではよくあることです。……少しばかり休憩を」
カップを手にした皇子は、琥珀色の液体を見つめて小さく息をつく。
「君とこうして勉強してると、戦場より静かなのに、なぜか心臓がうるさい。」
「戦場……?」
「政治の話さ。君の方がずっと冷静だ。」
「私は侍女です。冷静でなくては務まりません。」
沈黙。
窓の外では風がカーテンを揺らし、淡い光がエマの横顔を照らした。
その横顔に視線を向けたまま、皇子はそっと立ち上がる。
机を回り込み、エマの前に立つ。
「……君、本当に俺の侍女にはならないのか?」
「先ほども申し上げました。私はレティシア様の専属の侍女です。」
「でも、君の才能はここで埋もれるべきじゃない。礼法も、武術も、頭の回転も―――どれをとっても優れている。そこらの貴族とは比にならないレベルだ」
「それでも私は、あの方の傍に仕えると決めています。」
「……そうか。」
一瞬、視線が交差する。
その瞬間、皇子の腕がエマの肩の横に伸び、壁際に追い込まれる。
壁と身体の距離は、ほとんどなかった。
「やっぱり――俺の侍女になってくれないかい?」
息が触れそうな距離。
だがエマの表情は変わらなかった。
「……繰り返しますが、私はレティシア様の侍女です。」
「君は、俺のことが嫌いか?」
「いいえ。ただ、立場を守っているだけです。」
皇子は小さく息を漏らし、手を離した。
「そうか。……君らしい。」
エマは姿勢を正し、わずかに頭を下げる。
「では、次の講義の日程は追ってご連絡いたします。」
そう言って静かに扉を閉めた。
残された書斎には、未だ温かい紅茶と、二人の間に漂う微かな余韻だけが残った。




