レティシア様、一日中勉強です
舞踏会から数日。
ようやく、屋敷には日常が戻ってきていた。
朝の陽光が差し込み、机の上の教本を照らす。
今日のレティシアは、朝から晩まで「勉強漬け」の一日。
「え、えっと……この数式は、こことここが……う、動かしていいの!?」
「はい。ですが符号に気をつけてください。引くときは、後ろの数にもマイナスが付きます」
「え〜!? そんなのずるくない!?」
「数学はずるではなく、約束事ですよ」
「約束事、かぁ……でも、約束いっぱいありすぎる…」
苦戦しながらも、ノートにはびっしりと計算式が並んでいく。
小さな額にうっすら汗を浮かべながら、レティシアは鉛筆を動かし続けた。
「……はい、ここまでで一息つきましょう」
「はぁぁぁぁ……頭が溶けそう……」
エマは微笑んで、紅茶を差し出す。
砂時計が一巡するほどの休憩を挟み、今度は歴史の時間。
「第三王政期における、宰相アドリアンの政策を答えてください」
「うっ……名前だけで難しそう……!」
「この時代は、領主たちの権力を抑えるための改革が行われた時期です。思い出してみてください」
「えっと……えっとぉ……なんだっけぇ……!!」
レティシアは必死にノートをめくる。
ところどころに書き込まれた矢印や落書きが、彼女の奮闘を物語っていた。
「土地の分配……あ、違う!徴税の仕組みを変えて、農民が直接王に税を納められるようにした!」
「正解です。よく覚えていましたね」
「やったぁ……! でもこの章、あと数十人くらい偉人出てくるんだよね……?」
「ええ、頑張りましょう」
「が、がんばる……!!」
昼を過ぎても、彼女の学びは止まらなかった。
分厚い教本と格闘しながら、数字と年号に追われる一日。
それでも、諦めることはなかった。
夕方には、机の上が紙の山になっていた。
レティシアはふらふらと椅子にもたれかかりながら、満足げに笑う。
「エマ、今日……ちょっとだけ、私が強くなれた気がする」
「ええ。今日も立派に少しだけ頑張りましたね」
「えへへ……」
その笑みを見届けて、エマは小さく息をついた。
日常があることの幸せを、ようやく実感できるようになった気がする。
レティシアが寝室へ下がった後―――
エマは静かに立ち上がり、自室へ戻る。
静かな部屋に、紙をめくる音が響いた。
机の上にはびっしりと書き込まれた予定表。
授業の準備、洗濯、掃除、レティシアの復習時間―――その隙間に一つだけ赤い印がある。
「……明後日」
エマはスケジュール帳を指先でなぞる。
「開いてる日は…明後日……でも、これは勅命というよりは嘆願…」
目を細める。
皇子に勉強を教える―――そういう話が、以前から来ていた。
「……行くべきか」
ほんの一瞬、レティシアの顔が浮かぶ。
あの純粋な瞳を残して自分が屋敷を離れるのは不安だった。
けれど、命令でなくても、頼まれたことを無視するわけにもいかない。
「その間は私は屋敷に居ない……もし、レティシアに何かがあろうと、どうしようもできない……」
しばし、沈黙。
机の上のランプが、オレンジ色の光をゆらゆらと揺らしている。
「……ま、行くか」
小さく息を吐いて、スケジュール帳を閉じた。
窓の外では、月明かりが静かにエマを照らしていた。




