痛かったなぁ
泣き疲れたレティシアは、エマの腕の中で小さく呼吸を繰り返していた。
その頬には涙の跡が残り、握りしめた手はまだ震えている。
「……お休みください、レティシア様」
エマはそっと毛布をかけ、ランプの火を弱めた。
光がゆらめき、レティシアの横顔をやさしく照らす。
彼女の表情は、ようやく安らぎを取り戻していた。
扉を静かに閉めて、エマは長い廊下を歩く。
足音が石床に淡く響き、屋敷はすっかり夜の静けさに包まれていた。
部屋に戻ると、ようやく緊張の糸が切れた。
「……い、痛かったぁ……」
頬を押さえると、まだじんわり熱い。
それでも、怒りではなくどこか切なさの混じった痛みだった。
「……はぁ、もう……今日だけで感情ジェットコースター…」
エマはため息をついて、メイド服を脱ぎ散らかした。
シャツもスカートもベッドの端に投げ出し、全裸のままシーツに転がる。
天井を見上げながら、ぼんやりと考える。
「……このままだと、ダメだよね……」
彼女の頭の中には、前世――ゲーム『ローズ・オブ・カレンデュラ』の記憶が鮮明に蘇っていた。
自分が深夜に、目元にクマを作りながら最後までプレイした、あのゲーム。
悪役令嬢レティシアが破滅へと堕ちていく、その悲劇のルートを。
「確か……この後のイベントは……“舞踏会”」
エマは天井を見つめたまま、小さくつぶやいた。
「王が貴族たちを直々に招待する……あれ、断れないんだよね……」
布団に顔をうずめながら、思考がどんどん冷静になっていく。
「うん、確かに。王命だから欠席はできない。……けど、問題はその中身」
ゲームでは、あの舞踏会で―――
レティシアが皇子と聖女に再び出会う。
でも…レティシアを発端に二人は口論になる。
そして、聖女の“ある言葉”が、レティシアの心を完全に折ってしまう。
『あなたは……可哀想な人ね。本当の愛を知らないんだわ。』
エマはその台詞を思い出した瞬間、胸の奥がズキリと痛んだ。
「そうだ……あれが引き金だった。あの一言で、レティシアは闇堕ちして――“悪役令嬢”として…」
天井の模様を指でなぞりながら、エマは唇を噛む。
「……でも、今度はそうはさせない。絶対に」
彼女はベッドから起き上がり、机に置いていたノートを開いた。
そこには、彼女が覚えている限りのイベント順のメモがびっしりと書き込まれている。
「この舞踏会で二人を近づけちゃダメ。会話のきっかけを作らせない。……それだけでルートは変えられるはず」
ランプの火がまた揺れた。
その光に照らされながら、エマの瞳が決意を帯びる。
「私がレティシア様を救う。この世界が“ゲームの通り”に進むなら……私がシナリオを壊してみせる」
小さく息を吐き、再びベッドに潜り込む。
夜風が窓を鳴らす中、エマは目を閉じた。
「……明日は、準備しないとね」
まぶたの裏で、炎の青がちらつく。
それは、彼女が放った魔法の残光――
そして、まだ消えぬ覚悟の証だった。




