湯けむりの中で
夜。屋敷の浴場には、淡い光が満ちていた。
白い大理石の床に灯る蝋燭の炎が、ゆらゆらと水面を照らす。
レティシアの母――カレンが湯に浸かり、肩まで伸びた金の髪をそっとまとめている。
「エマ、入らないの?」
湯気の向こうから柔らかな声。
「い、いえ……お、お先にどうぞ」
「遠慮しないで。あなた、今日一日とても頑張っていたじゃない。疲れを取らなきゃ」
促され、エマは小さく頭を下げて湯に身を沈める。熱すぎず、まるで包みこまれるような温度。
一日の緊張がふっと溶けていく。
「ねえ、エマ」
「はい、奥様」
「レティシアがね、あなたのことをとても信頼しているの。気づいているかしら?」
「……そんな、私はただ、与えられた仕事をしているだけで……」
「それが一番難しいのよ」
カレンは微笑む。
「人のために動ける人って、そう多くないの。見返りを求めずに誰かを支えるって、簡単じゃないもの」
エマは湯の中で視線を落とす。
「……私、あの子に助けてもらったんです。迷っていた時に。だから、今度は私が支えたいと思って」
カレンの目がやわらかくなる。
「きっと、レティシアも同じ気持ちよ。あなたが居てくれて、あの子は少しずつ変わってきたの」
静かな湯けむりの中、ふたりの言葉が水音に溶けていく。
どこか、母と娘のような空気が流れていた。
しかし、横に並ぶとはっきりと違いが分かる。
―――これが発育の差…!!やっぱり貴族は良いもの食べてるから育ちが良いのだろうか…
自分だって負けてないはずなのに…
そんなことを考えていると、その静寂を切り裂くようにカレンが口を開く。
「それにしても、メイドなのに礼儀も立ち居振る舞いも完璧。貴族の家の出なの?」
「い、いえ! そんな……ただ、前にいたお屋敷で教えていただいて……」
前勤めていた企業で重役との会話のために敬語を覚えろと…これも今思えばモラハラなんかになるのだろうか。しかし…こうやってメイドに生まれ変わって、あの企業で学んだことはどれも悪いことだけではなかったのだろう。
「そうねぇ…けれどね、貴方のような人は“仕える側”ではなく、“導く側”になるかもしれないわ」
「……心がけておきます」
突然の言葉に、エマの胸が少し跳ねた。
けれど、カレンはそれ以上言わず、湯をすくって肩にかけた。
「明日、街に出かけるの。よかったら、貴女も来なさい」
「……はい。光栄です」
湯気の中、月光が差し込む。
その光は、まるで二人を包みこむかのように淡く揺れていた。
――翌朝。
屋敷の馬車が、石畳を響かせて走る。
目的地は“トレント”。王国でも有数の交易都市。
広場には露店が並び、水路には小舟が行き交う。
香辛料と焼き菓子の匂いが混じり、賑やかな笑い声が響いていた。
「すごい……こんなに賑わってる街、初めてです」
エマが目を輝かせると、レティシアが微笑む。
「ふふっ、ね、素敵でしょ? 本を読んでるだけじゃ分からないこと、たくさんあるのよ」
「……ええ、本当に」
その時だった。
人波の向こう、金髪の青年と白い聖衣を纏った少女の姿が目に入る。
どこか、懐かしい気配。
青年が人々に微笑みかけながら通りを進む。
隣の少女は、透きとおるような瞳で皇子を見つめている
―――この光景、知ってる……
息が詰まる。
頭の奥に、過去の映像がよみがえる。
あのゲーム。過去編DLC。
皇子と聖女が初めて出会う街―――トレントだったはず。
まさか……ここが、あの“始まり”の場所……?
馬車の音が遠のき、世界が一瞬、白くフラッシュする。
現実と記憶の境界が、かすかに揺らいだ。
――運命の歯車が、音を立てて回り始める。




