今日一日、本当に心臓に悪い
夕刻。
王城からの客人――ヴィルヘルム皇子が、そろそろ帰る時刻になった。
玄関先で深く一礼するエマに、皇子は穏やかな笑みを浮かべた。
「今日はありがとう。久々に楽しかったよ」
「こちらこそ、殿下にお越しいただけたこと光栄でございます」
「……ああ、そうだ」
皇子が一歩近づき、エマの耳もとに声を寄せる。
「今度、王城に来て私にもう一度勉強を教えてくれないかな?」
その声音は、冗談とも本気ともつかない優しさを帯びていた。
エマはわずかに瞬きをして、淡々と答える。
「――スケジュールを確認させていただきます」
「はは、つれないな、君は。ま、期待してるよ」
そう言って馬車へ乗り込み、皇子はゆっくりと屋敷を後にした。
―――あっっぶねぇ!!あんなイケメン好青年に耳元で囁かれたら平静を保っていられるわけ無いだろ!!
心臓に悪いなぁ…全く。
胃腸が飛び出してくるかと思った。
静寂が戻る。
一方のレティシアは、勉強を終えるとすぐに屋敷の大図書館へ向かっていた。
本の山に埋もれ、目を輝かせながらページをめくる姿は、どこか子どものようでもあった。
――その様子を遠くから見ながら、エマは黙々と仕事をこなしていく。
掃除、書類整理、洗濯、夕食の準備。
手際よく働く姿に、使用人たちは一目置いている。
「……さて、そろそろ夕食の時間ですね」
本の山の中に小さくのぞく金の髪が見えた。
「レティシア様。夕食の準備ができました」
反応はない。
「……レティシア様?」
やや意地悪な気分で、エマはそっと背後に回る。
肩を“ぽん”。
「レティシア様、夕食の準備ができました」
「きゃーーー!!」
本が弾け飛び、叫んだレティシアが、涙目で振り返る。
「もぅ! エマ! そんな驚かさないでもいいじゃない!」
「返事がなかったもので」
「……もうっ!」
食堂に着くと、すでにご両親が席に着いていた。
「まぁレティシア、今日はずいぶん機嫌がいいのね」
「う、うん! ちょっとね!」
その横で控えていたエマに、レティシアがふと振り向いた。
「エマもどう?」
「……わたくしが、ですか?」
「いいじゃない!一緒に食べましょうよ」
母親もにっこり微笑んで頷いた。
「そうねぇ。いつも頑張ってくれてるんだし、エマもお座りなさいな」
「……では、お言葉に甘えて」
椅子を引いて腰を下ろす。少し照れくさい。
だが温かい食卓だった。
食事を終えると、エマは即座に立ち上がり、皿を片付けた。
「では、デザートを」
「まぁ、デザートだなんて珍しいわね」
「偶には甘いものも良いかと思いまして」
運ばれたのはベリーソースのかかったカスタードプリン。
ふわりと香る甘い匂いに、レティシアは頬を緩ませる。
「……おいしい」
「ご満足いただけたようで何よりです」
食後、レティシアを部屋まで送り届ける。
「今日のデザートは満足できましたでしょうか?」
「ええ、ばっちりよ! ありがとう、エマ」
軽く頭を下げ、エマは自室へ戻る。
屋敷のメイドは十九人。
それぞれに小部屋が与えられているが、エマとメイド長、そして数名だけは特別待遇だった。
壁にはランプ、柔らかなシーツ、書き物机。
贅沢ではないが、静かで快適な空間。
「……ふぅ」
ベッドに倒れ込む。ポフン、と羽毛が舞う。
「今日は……色々ありすぎて、疲れたぁ……」
メイド服を脱ぎ散らかし、ほぼ裸で転がったその瞬間――
「エマ? 入るわよ?」
メイド長の声。
「!?…ちょ、ちょっと待ってください……!!」
慌てて服を拾い集め、乱れた髪を直し、何食わぬ顔で扉を開けた。
「すいません、どうされましたか?」
「まだお風呂に入ってないんじゃないかしら? あとはあなただけよ」
「……承知いたしました」
浴場へ向かう廊下は、湯気の匂いが漂っていた。
ドアを開けると――
「まぁ、エマちゃん。ご一緒しましょう?」
そこには、タオル姿のレティシアの母がいた。
「……えっ」
「遠慮しなくていいのよ?ふふっ」
エマの頬が一瞬で赤くなる。
―――今日という日は、本当に心臓に悪い。




