お忍びで来られたのですか
昼下がり。屋敷の空気はいつもよりざわついていた。
「……少し、騒がしいな…」
エマは窓の外に視線を向けた。
庭の向こう、正門のあたりで数人のメイドが慌ただしく動いている。
「む……あの紋章…」
遠目に見える豪奢な馬車。その扉に刻まれた金の紋章は、王家の証。
――まさか。
と、扉が小さく開く
わずかに開いた隙間から、冷たい風とともに、ひとりの青年の声が届く。
「エマくん、少しいいかな」
振り向けば、そこにいたのは手招きをしているヴィルヘルム皇子だった。
彼はいつもと変わらぬ穏やかな微笑を浮かべている。
レティシアには気付かれぬよう静かに部屋を出る。
「突然やってきてすまないね。少し、抜け出してきてしまった」
「……お忍びでございますか」
「まあ、そんなところだ」
そう言って軽く肩をすくめる皇子に、エマは一礼した。
「レティシア様にお知らせを――」
「待て。せっかくだ、少しだけ驚かせたいんだ」
「……なるほど、かしこまりました」
レティシアの部屋では、静かに紙をめくる音がしていた。
「えっと、ここがこうで……あれ? また分かんなくなっちゃった」
机に突っ伏しながら、彼女は小さく唸る。
「エマ〜、ここってどうやって解くの〜?」
だが返事はない。
代わりに聞こえたのは、柔らかく落ち着いた男の声だった。
「そこはね、こうやって因数を分けるといい」
「……え?」
顔を上げた瞬間、レティシアの目が大きく見開かれた。
「で、殿下っ!?」
驚きで声が裏返る。
ヴィルヘルムは苦笑しながら軽く手を挙げた。
「はは、突然君に会いたくなってね」
「そ、そんな突然来るなんて……っ! もっと綺麗な服着ればよかった……」
顔を真っ赤にして俯くレティシアに、皇子は優しく微笑む。
部屋の空気が、ふっと柔らかくなった。
そのとき、静かに下がろうとしたエマを、ヴィルヘルムの声が呼び止める。
「エマくん。どこに行くつもりだい?」
「……お二人の幸せな時間を壊すのは、メイドとしてどうかと思いまして」
「ふむ。それなら――どうせだ、私にも勉強を教えてもらえないか?」
「えっ!? 殿下まで!?」
レティシアが思わず声を上げる。
皇子はどこか楽しげに頷いた。
「私もね、最近はすっかり数字に弱くて。もうじき試験だと言うのに情けない」
「……承知いたしました。では、そこの席にお座りください」
エマが静かに椅子を引く。皇子は礼儀正しく腰を下ろし、机の上の紙を覗き込んだ。
最初のうちはぎこちなかったが、やがて三人の間に穏やかな笑いが混じりはじめた。
「そうか、ここを分母でまとめるのか!」
「はい、流石でございます、殿下」
「うわ〜! 殿下、すごい!」
「ふふ、君の“先生”が優秀だからね」
ヴィルヘルムがそう言ってエマに目を向けると、彼女は小さく会釈を返した。
窓の外では、陽が傾きかけている。
金色の光が三人の間に差し込み、机の上の紙を柔らかく照らした。
静かな時間。けれど、確かに温かい。
「……この瞬間だけは、壊したくないなぁ…」
エマは心の中でそう呟き、静かに筆を走らせた。




