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01.円環の楔と覚醒


 舞踏会まであと数日という或る日のこと。公爵令嬢カテリーナ・フォン・シルクレイドは、舞踏会で使う装飾品を購入するため、街中を馬車で移動していた。いつもと変わらない車窓をぼんやりと眺めながら、車体の揺れに身を任せていた。


 ふと見慣れた茶髪を視界に入れ、カテリーナの顔が綻びかける。行者に馬車を止めるよう声を掛け、すぐに降りた。


「ありがと、う……」


 馬車を降りたカテリーナの瞳に映ったのは、仲睦ましそうに歩く婚約者と自分ではない誰か。花屋の前で楽しそうに花を選んでいる女性――レイン・トラバルト子爵令嬢。そして、それを優しく見つめる婚約者、シルヴァン・ル・アッシュレイ公爵令息。


 幼い頃に決められた婚約関係で、カテリーナとシルヴァンの間に恋や愛と呼ばれる感情はなかったけれど、それでも情はあり、越えてはならない一線を侵すことはないと信じていた。――なかったはずだった。


 しかし、目の前の光景はその一線を侵す行為だ。目頭が熱くなり、カテリーナは行者に「気分が優れないから帰ります」とだけ告げた。


 帰りの馬車の中、静かに涙を流しカテリーナは帰路に着いた。邸宅に着く頃には涙はすっかり乾いており、カテリーナは家族との晩餐を楽しんだ。それでも心は一向に晴れずモヤついたままだった。就寝しようと夜着に着替えベッドに寝転ぶ。なかなか寝付けず溜め息ばかりが零れた。






 カテリーナは目を覚ます。見たこともないキラキラした光景が広がっていた。自室で寝ていたはずだと怪訝な表情になる。


「これは、夢かしら?」


 怪訝ながらも辺りを見回し様子を伺う。光っている以外は特に怪しいところもなく、何か生き物がいる様子もない。


「夢……だから良いわよね」


 淑女たれと教えられてきたカテリーナはその場に寝転んだ。光る芝生は思いの外暖かく柔らかかった。


「先生に怒られてしまうわね」


 マナー講師の顔を思い出し、カテリーナは笑う。「淑女とは……」「淑女というもの……」が口癖の講師。カテリーナは公爵夫人になるために血の滲むような努力をしてきた。勉学も常に上位をキープしている。すべてシルヴァンの為になると信じて。


 だが、シルヴァンに自分は笑顔を見せたことも見せられたこともなかったように思う。だからこそ、シルヴァンが昨日レインに見せた笑顔を見たときに悟ってしまった。


 自分たちの間には決められた婚約者という鎖しかなかったこと。そして、シルヴァンはレインに好意を抱いていること。しかしレインには奔放なところがあり、他の令嬢から度々苦言を呈されていた。


「はぁ、私にどうしろと言うのでしょう」


 カテリーナ自身も何度もレインを窘めたが、聞き入れてくれない。激しい頭痛に苛まれる。


「というか、シルヴァン様もシルヴァン様ですわ。私という婚約者がいるのに、一目も憚らず逢瀬を重ねるなど破廉恥ですわ」


 むくりと起き上がり、配慮もない婚約者の愚痴をこぼす。


「独り言を言ってて気持ち悪いですわ、私」


 また寝そべり目を閉じた。今はとりあえず考えたくないと、カテリーナは思案することを放棄した。







 次の日。カテリーナが学園へ向かうとすぐ目に入ったのは、シルヴァンとレインが寄り添い歩く姿だった。何度か見かけていたはずなのに、昨日街中で見掛けてしまって以降、二人を見掛ける度にカテリーナの心はざわついた。

 しかし、言わない訳にはいかない。大きな溜め息を吐きカテリーナはシルヴァンの前に立った。


「シルヴァン様、おはようございます。朝からこのようなことは言いたくはありませんのですが、人目を憚らず私以外の特定の女性と親しげにしていらっしゃるのは……如何なものかと思います。次期公爵として御自覚くださいませ」


 カテリーナの言葉にレインが怯え、シルヴァンはその背に隠しながらカテリーナを睨み付けた。


「私が誰と親しくしようがカテリーナには関係ないことであろう?」

「はい、関係ありませんわ。しかしながら特定の女性のみ、というのは婚約者を持つ男性には恥ずべき行為だと申し上げているのです」

「可愛げのない女だ。レイン、行くぞ!」


 シルヴァンはレインを伴い、その場を去ってしまった。頑ななシルヴァンに頭痛を覚える。学友の令嬢が集まってきており、心配する声に返事をしながらも……先ほどのシルヴァンの視線に恐怖を感じていた。


 何度か苦言を呈するものの聞き入れないシルヴァンに呆れ、視界に入れないようにとしているのに、なぜか行く先々で彼らを見掛けてしまう。心身ともに疲弊しながら帰宅し、早めに就寝すべくベッドへ潜り込む。そして目を瞑った。






「ここは……?」


 目を開けば昨日の夢と同じような煌めく草原にいた。違うことといえば、猫が一匹佇んでいること。誘われるままに抱き上げ、そしてその場へ座る。撫でれば「な〜ご」と気持ち良さそうな声を上げた。


「ふふ……可愛い」


 猫の可愛さに癒されていたカテリーナだったが、その瞳を見てシルヴァンのことを思い出してしまった。同じ金色の輝きを放っていたからだ。


『可愛げのない女だ』


 そう言い放ち、自分を鋭く睨み付けるあの表情を。それからは、見たことのない光景が次々に浮かび上がっていく。


『レインのドレスを何故汚したのだ』


『何故レインをお茶会に呼べないようにするのだ』


『貴女には失望した……婚約を破棄する』


 ガタガタと身体が震え、カテリーナは思い出してしまった。これが何度も繰り返される円環の中の出来事だと。


「このままでは婚約破棄された傷物になってしまう……?」


 もはやシルヴァンと結婚できなくても構わないが、婚約破棄された傷物令嬢の烙印を押されてしまう。そして、過去に何度も婚約破棄された記憶が甦ってきた。


「あ、あぁ……どうすれば……この円環の輪から逃げ出せるの?」


 カテリーナは逃れる術がないことを。何度も繰り返される終わりのない話だと言うことを知っていた。


 【閉じることのない円環の楔から逃げ出したい? 】


 ふいにカテリーナに問う声。しかし、ここにはカテリーナと猫しかいない。


「誰? どこにいるの?」


 辺りを見回すカテリーナ。誰もいない。


 【いるわよ、ここに】


 カテリーナをちょんちょんとつつく猫。


「あなた……誰?」


 猫はカテリーナの膝から降り、眩い光を発した。その眩しさにカテリーナが目を閉じ、光が弱まるのを待つ。再び目を開けると猫はカテリーナに似た容姿をした人の形に変わっていた。


「あなた……」

「さっきの猫よ。話をするために元に戻ったの」


 にこりと笑う。


「猫ではないから、名前で呼んで頂戴。私はリリーよ」

「リリー?」

「そう、あなたの呼ぶ声に応えた者」


 カテリーナは身に覚えがなく、首をかしげる。リリーはそれを見て肩をすくめた。


「カテリーナ、あなたが覚えていなくて当たり前よ。だって呼んでいたのは、前々回の円環の中で踠き苦しんでいたカテリーナなのだから」

「え?」

「その声があたしに届いたときには、そのカテリーナは物語の役割を果たし……新たな物語に旅立った後だったけれど」


 カテリーナはリリーの話を聞いて身を震わせた。踠き苦しんでいた自分がいたが、円環の楔からは逃げられなかったと聞いてしまったからだ。リリーはカテリーナが身を震わせたことに気付いていたが話を続けた。


「前回の物語のカテリーナは運命を受け入れてしまった。逃れられないのであれば、自分の役割をまっとうすると言って……ね。だから、あたしは待ったの……役割から逃れたいと思うカテリーナを」


 瞳を見つめるリリーから視線が外せないカテリーナ。震える手を握りしめ問う。


「あなたは私をこの呪いから解放できる?」


 答えを待つ時間がやけに長く感じるカテリーナは、自身の鼓動の大きさに嫌な汗をかいていた。


「できるよ? あたしがカテリーナの不幸になるシナリオを壊せばいいんだから」

「本当に?」

「うん。カテリーナではダメなの。あたしみたいに円環の外から介入しないと……。でも、後悔しない? 円環の中に入れば辛くても不変なの。壊せばどうなるかわからないよ?」

「かまいませんわ。私は十分役割を果たしたのですから」


 カテリーナの強い意思を感じたリリーは、にっこり笑ってカテリーナの中に溶け込んでいった。目を閉じれば、頭の中にリリーの声が響く。


『カテリーナ、しばらくお休みなさい。後はあたしが壊しておくから』

『え、えぇ……』

『良い夢を』


 リリーは中で眠りについたカテリーナを感じながら、カテリーナの目を開いた。





 夢から目覚めたカテリーナ。窓辺まで近寄り空を見上げる。


「任せてね、カテリーナ。あたしが助けてあげるから」


 きゅっと拳を握り、カテリーナ――ではなくリリーは誓った。サマンサが着替えの手伝いにやってくる。


「お嬢様、今日は早起きなのですね」

「えぇ、神の啓示があったの。サマンサ、優秀な情報屋を数名用意してくれる?」

「かしこまりました」


 不思議そうにカテリーナを見るサマンサに、カテリーナは儚げに微笑んだ。仔細は告げないカテリーナにサマンサは何かを察し、早急に情報屋を手配するのだった。

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