3 [ハイド] 自分と彼女の間には断崖絶壁の谷がある
「結婚指輪はしないんですか?」
中指でメガネを押し上げながら尋ねた。ウルヴィの予測が当たっていて、自分が外したのが悔しいからではない。断じて。
セネガルと名乗った男が忘れていたという感じで左手を見る。
「結婚したばかりのころはつけていたんだが、職業上邪魔でな。つけたり外したりして失くすよりはって話して家に置くようになって、もうだいぶ付けていないな」
「新婚のころは、指輪を通してつながっているようで、あまり外したくなかったのですよ。けど、ねえ? もう、目に見える形に頼る必要はありませんから」
なんの気負いもない柔らかな音だった。
この2人がお互いに向ける穏やかな眼差しを、自分は知らない。
「ハイド様?」
ウルヴィの驚いたような声がした。
答えようとしたけれど、唇が貼りついて動かない。
ハンカチを差し出されて初めて、涙を流していたことに気づいた。それがなぜかはわからない。
セネガルが立ち上がる。
「そろそろ休むか。明日の朝は早く出るとしよう」
「そうですね。おやすみなさい、ハイドさん、ウルヴィさん」
敢えて触れずに席を外してくれたように感じた。
ウルヴィと2人になる。自然とため息が出た。
「ウルヴィさんのご両親は?」
「元気ですよ。家族経営の小さな店ですが、父が作りだすシルエットパターンと母の細やかな裁縫の腕に、侯爵家である領主夫妻からたいへん好評をいただいていて。おかげでうちは高等貴族学舎への推薦をいただけたんです」
「ああ、衣服関係や宝石商の子どもは神学科に多いですよね。コネクションができやすいのでしょう」
「うちは両親のどちらにも似なくて不器用で。家業は妹たちが継ぐと張り切っていたのと……、地元を離れたい理由もあったので、とてもありがたかったです」
「地元を離れたい理由?」
「……ハイド様にどう思われてもダメージがないので正直に言いますが」
「それボクにダメージなんですが?」
「幼なじみに、恋愛感情として好きだと言ったら『気持ち悪い』と言われた上に、周りに言いふらされてしまいまして」
「その幼なじみは……」
「もちろん女性です」
「なるほど? アリサ嬢への執心はそちらでしたか」
「アリサ様には、傷が浅いうちにと思ったのと、話の流れもあって早々にカミングアウトしたのですが」
「ほう?」
「嬉しいと言ってくださって。今も友だちとして大切にしてくださるので、感謝しています」
「貴女はそれでいいのですか?」
「それで、とは?」
「どれだけ愛しても決して同じ思いは返りませんよね?」
「最初からそれがわかっていても、フォン様がうらやましい時もあります。けれど、思うことを許されているだけで、うちは幸せです」
「思うことを許されているだけで……? わかりませんね。愛なんていうものは一時の思いこみ、錯覚でしょう。時としては呪いにもなりえる劇物だ。そんなものに夢を見て身を持ち崩した人はいくらでもいるでしょう」
「誰の話をしているのかわかりませんが。叶っても叶わなくても愛せることは幸せではないですか?
あの人は今何をしているんだろうとか、こうしたらあの人は喜ぶだろうかとか、明日は何を話そうとか。そういうことを考えていると、たいていのイヤなことはどうでもよくなりませんか?」
「叶わなくても幸せという感覚は心底わかりません。手に入らないものに時間をかける価値があるのですか?」
「本当に情緒がないですね。うちがアリサ様といる時に、『アリサ様かわいい』『アリサ様大好き』以外のことを考えていると思いますか? そういう幸せに価値を感じないのなら、ハイド様には永遠にわからないでしょうし、わかってもらう必要もないと思います」
「……ウルヴィ嬢は、愛すること自体が幸せだと?」
「先ほどからそう言っているつもりです」
自分と彼女の間には断崖絶壁の谷がある。そんな感じがした。
(ウルヴィ嬢は……、きっと、愛されて育ったのですね)
荷物の中から保温シートを取りだして、ウルヴィに差しだす。
「あの部屋はウルヴィ嬢が使ってください。ボクはこのダイニングで寝ますから」
「……いいんですか?」
「いいも悪いも、ボクと同じ部屋では落ちつかないでしょう?」
「それは、はい。そのとおりなので、甘えさせてもらいます」
安心したように受け取って、彼女が部屋に入っていく。
なかなか寝つけなかったのは、保温シートを敷いても床が硬いからに違いない。




