第6話 いっしょのごはんと、リュシア=フェンリルという存在Ⅱ
先日の雑貨屋での会話。
「……お客様、香りの識別、かなり得意なんですね。ここまで分かる人、滅多にいませんよ」
「きっと、"そういう体質"なんですね。ちょっと特別な」
そう言っていたのは、あの人――フィンさんだ。
ムーア商店で出会った、無口で地味で、けれど妙に観察眼が鋭かった男の人。
("ちょっと特別な体質"。……そうかもしれない)
香りが記憶を引っ張る。自分の記憶だけじゃない。今ここで、誰かの奥深くにある記憶にも、触れてしまうかもしれない。
「それ、入れるの?」
後ろから、リュシアの声がした。
「はい。香りづけに、ほんの少しだけ。味が丸くなりますわ」
私はハーブの葉を一房、指先で摘んで鍋に入れる。葉がお湯に触れた瞬間、ふわりと香りが膨らんだ。森の緑と、どこか懐かしい甘さが混じった匂いが、湯気と一緒に立ち上がる。
リュシアは、鍋をじっと見つめたまま、ゆっくりと息を吸い込んだ。そして、小さく言った。
「……似てる」
「え?」
「……その香り。母が……昔、作ってたスープに似てるのよ」
彼女の瞳は、今までよりもほんのわずかに柔らかかった。
「……母は平民だった。父の家に引き取られてからは、あまり会えなくてって……」
その言葉に、私は何も言えなくなった。
香りが、彼女の記憶を揺り動かした。それは、私が知るどんなイベントよりも、ずっと現実で――だからこそ、重たくて、でも優しかった。
◆
完成したスープは、見た目こそ地味だけれど、ちゃんと食べられるものになっていた。木の器に注がれた薄茶色の液体からは、野菜とハーブの香りが優しく漂っている。鍋から取り分けた二つの器を持って、私はリュシアの隣に腰を下ろす。
森の中の空き地は、風が通って気持ちいい。遠くで鳥のさえずりが聞こえ、足元では虫たちが葉っぱを這う小さな音がしている。鍋の湯気の匂いと、土と緑の匂いが重なって、なんだか懐かしい気持ちになった。
私はそっとスプーンをすくって、一口。温かいスープが舌の上に広がる。……うん、まあ、ちょっと塩っ辛い。でもハーブの香りがふんわりと鼻を抜けて、野菜の甘みも感じられる。案外まとまっている。
リュシアも黙って口をつけて、ゆっくりと味わうように飲んだ。少しだけ眉をひそめて。
「……塩、入れすぎよ」
そう言って、彼女はふっと小さく笑った。
その瞬間、胸の中に何かが跳ねた。
(……今、笑った!?)
私、見ました。絶対に見ました。学園で"氷雪の女王"と恐れられているあのリュシア=フェンリルが、スープを飲んで笑いましたわ!
これは確実に、"ルート進行イベント"ですわ!
(ということは……今日の選択肢、正解だったってことですわよね!?)
心の中でルート確定演出が炸裂している中――私は、ひとつだけ、聞いておきたくなった。
「……リュシアも、お母様と?」
リュシアは、少しだけ間を置いてから、静かに言った。
「もういない。……私が、七つの頃に亡くなった。病気だった。貴族じゃなかったけれど、優しい人だったの。……ごはん、いつも作ってくれてた」
彼女の声には、いつものような冷たさがなかった。
「たぶんね。あの人が作ってたスープ、こういう匂いだった。似てるの。驚いた……」
目を伏せた彼女の横顔を見ながら、私は、胸の奥にじんとしたものを感じていた。
香りで繋がった記憶。それをたまたま、共有できた。……いや、もしかしたら"偶然"じゃなかったのかもしれない。
彼女の記憶の中に、その笑顔の中に、少しだけ私の作った味が残ったのなら。
(……ルート確定とか、そういう話じゃなくて)
(私は、ちゃんと今日――彼女と繋がれた気がする)
……やがて、鐘の音が鳴った。今日の調理演習の終了を告げる合図だ。
生徒たちが三々五々と片付けを始める中、私とリュシアも無言で鍋を洗い、道具を整理した。
と、その様子を――明らかに驚いた顔で見ている人たちがいた。
「あれ……え、なんか、普通に会話してない?」
「うそ……"氷雪の女王"と、"奇行の姫君"が……並んで笑ってる……」
「えっ、なに? 世界終わる? この実習、神回?」
ささやかれる声に、私はぴくりと眉を上げる。
(え、今わたくし、やっぱり"奇行の姫君"って呼ばれました?)
モブの視線は完全に"珍獣ショー"を見るそれだったが、本人たちは気にせず並んで片づけを続けるのであった――。
◆
彼女の笑い声が、耳に残っている。うるさい。軽い。ちょっとお節介で、勝手で、でも――あたたかい。
……ほんっと、うるさい。
それが精一杯だった。
本当は、もっと何か言いたかった。でも、言葉を選ぼうとすると、何かが喉の奥に詰まる。
昼に食べたスープの味が、まだ舌の上に残っていた。香りと一緒に、私の中でずっと閉じ込めていた記憶を――あの子は、何の許可もなく、するりと開けてきた。
それが、怖かった。
誰にも触れられたくなかった。触れようとした人がいなかったんじゃない。私が、拒んできた。
だって、思い出すと苦しいから。
あの小さな台所の記憶。平民だった母が、台に登って、笑いながらスプーンを差し出してきた。
「味見して、リュシア。どうかしら?」
そう言ったあの人の手が、少しだけ震えていたのを、私は覚えている。あのとき、母はもう長くないって、わかっていたんだ。
……なのに私は、何も言えなかった。
ただ頷いて、スープを飲んだ。美味しいって、言った。――それだけだった。
それからずっと、心の奥にあの香りを閉じ込めていた。
"誰にも触れられないように"。
なのに。
あの子は、笑いながら、そこに踏み込んできた。
悪意はなかった。むしろ、気づいてすらいなかった。
だけれど、その無自覚さが、たまらなく――羨ましかった。
私は、こんなふうに誰かと記憶を共有したことがなかった。誰かに、なにかを「懐かしい」と言ってもらったことがなかった。
……それが、こんなにもあたたかいなんて、知らなかった。
横を歩く彼女が、何か楽しそうに鼻歌を歌っている。
私は、ふと、視線を上げた。
――夕焼けが、ひどくまぶしかった。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。でも、それは冷たい痛みじゃなかった。
まぶしさに目を細めたふりをして、ほんの少しだけ――隣を歩く彼女の顔を盗み見る。
楽しそうに鼻歌を口ずさみながら、前を向いて歩くその横顔は、まるで……陽だまりの中にいるみたいだった。
胸の奥がまたきゅっとなった。
こんな気持ち、知らない。
けど、もう少しだけ……このままでも、いいかもしれないって、思ってしまった。たのだった。