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第6話 いっしょのごはんと、リュシア=フェンリルという存在Ⅱ

先日の雑貨屋での会話。


「……お客様、香りの識別、かなり得意なんですね。ここまで分かる人、滅多にいませんよ」


「きっと、"そういう体質"なんですね。ちょっと特別な」


そう言っていたのは、あの人――フィンさんだ。


ムーア商店で出会った、無口で地味で、けれど妙に観察眼が鋭かった男の人。


("ちょっと特別な体質"。……そうかもしれない)


香りが記憶を引っ張る。自分の記憶だけじゃない。今ここで、誰かの奥深くにある記憶にも、触れてしまうかもしれない。


「それ、入れるの?」


後ろから、リュシアの声がした。


「はい。香りづけに、ほんの少しだけ。味が丸くなりますわ」


私はハーブの葉を一房、指先で摘んで鍋に入れる。葉がお湯に触れた瞬間、ふわりと香りが膨らんだ。森の緑と、どこか懐かしい甘さが混じった匂いが、湯気と一緒に立ち上がる。


リュシアは、鍋をじっと見つめたまま、ゆっくりと息を吸い込んだ。そして、小さく言った。


「……似てる」


「え?」


「……その香り。母が……昔、作ってたスープに似てるのよ」


彼女の瞳は、今までよりもほんのわずかに柔らかかった。


「……母は平民だった。父の家に引き取られてからは、あまり会えなくてって……」


その言葉に、私は何も言えなくなった。


香りが、彼女の記憶を揺り動かした。それは、私が知るどんなイベントよりも、ずっと現実で――だからこそ、重たくて、でも優しかった。



完成したスープは、見た目こそ地味だけれど、ちゃんと食べられるものになっていた。木の器に注がれた薄茶色の液体からは、野菜とハーブの香りが優しく漂っている。鍋から取り分けた二つの器を持って、私はリュシアの隣に腰を下ろす。


森の中の空き地は、風が通って気持ちいい。遠くで鳥のさえずりが聞こえ、足元では虫たちが葉っぱを這う小さな音がしている。鍋の湯気の匂いと、土と緑の匂いが重なって、なんだか懐かしい気持ちになった。


私はそっとスプーンをすくって、一口。温かいスープが舌の上に広がる。……うん、まあ、ちょっと塩っ辛い。でもハーブの香りがふんわりと鼻を抜けて、野菜の甘みも感じられる。案外まとまっている。


リュシアも黙って口をつけて、ゆっくりと味わうように飲んだ。少しだけ眉をひそめて。


「……塩、入れすぎよ」


そう言って、彼女はふっと小さく笑った。


その瞬間、胸の中に何かが跳ねた。


(……今、笑った!?)


私、見ました。絶対に見ました。学園で"氷雪の女王"と恐れられているあのリュシア=フェンリルが、スープを飲んで笑いましたわ!


これは確実に、"ルート進行イベント"ですわ!


(ということは……今日の選択肢、正解だったってことですわよね!?)


心の中でルート確定演出が炸裂している中――私は、ひとつだけ、聞いておきたくなった。


「……リュシアも、お母様と?」


リュシアは、少しだけ間を置いてから、静かに言った。


「もういない。……私が、七つの頃に亡くなった。病気だった。貴族じゃなかったけれど、優しい人だったの。……ごはん、いつも作ってくれてた」


彼女の声には、いつものような冷たさがなかった。


「たぶんね。あの人が作ってたスープ、こういう匂いだった。似てるの。驚いた……」


目を伏せた彼女の横顔を見ながら、私は、胸の奥にじんとしたものを感じていた。


香りで繋がった記憶。それをたまたま、共有できた。……いや、もしかしたら"偶然"じゃなかったのかもしれない。


彼女の記憶の中に、その笑顔の中に、少しだけ私の作った味が残ったのなら。


(……ルート確定とか、そういう話じゃなくて)


(私は、ちゃんと今日――彼女と繋がれた気がする)


……やがて、鐘の音が鳴った。今日の調理演習の終了を告げる合図だ。


生徒たちが三々五々と片付けを始める中、私とリュシアも無言で鍋を洗い、道具を整理した。


と、その様子を――明らかに驚いた顔で見ている人たちがいた。


「あれ……え、なんか、普通に会話してない?」

「うそ……"氷雪の女王"と、"奇行の姫君"が……並んで笑ってる……」

「えっ、なに? 世界終わる? この実習、神回?」


ささやかれる声に、私はぴくりと眉を上げる。


(え、今わたくし、やっぱり"奇行の姫君"って呼ばれました?)


モブの視線は完全に"珍獣ショー"を見るそれだったが、本人たちは気にせず並んで片づけを続けるのであった――。



彼女の笑い声が、耳に残っている。うるさい。軽い。ちょっとお節介で、勝手で、でも――あたたかい。


……ほんっと、うるさい。


それが精一杯だった。


本当は、もっと何か言いたかった。でも、言葉を選ぼうとすると、何かが喉の奥に詰まる。


昼に食べたスープの味が、まだ舌の上に残っていた。香りと一緒に、私の中でずっと閉じ込めていた記憶を――あの子は、何の許可もなく、するりと開けてきた。


それが、怖かった。


誰にも触れられたくなかった。触れようとした人がいなかったんじゃない。私が、拒んできた。


だって、思い出すと苦しいから。


あの小さな台所の記憶。平民だった母が、台に登って、笑いながらスプーンを差し出してきた。


「味見して、リュシア。どうかしら?」


そう言ったあの人の手が、少しだけ震えていたのを、私は覚えている。あのとき、母はもう長くないって、わかっていたんだ。


……なのに私は、何も言えなかった。


ただ頷いて、スープを飲んだ。美味しいって、言った。――それだけだった。


それからずっと、心の奥にあの香りを閉じ込めていた。


"誰にも触れられないように"。


なのに。


あの子は、笑いながら、そこに踏み込んできた。


悪意はなかった。むしろ、気づいてすらいなかった。


だけれど、その無自覚さが、たまらなく――羨ましかった。


私は、こんなふうに誰かと記憶を共有したことがなかった。誰かに、なにかを「懐かしい」と言ってもらったことがなかった。


……それが、こんなにもあたたかいなんて、知らなかった。


横を歩く彼女が、何か楽しそうに鼻歌を歌っている。


私は、ふと、視線を上げた。


――夕焼けが、ひどくまぶしかった。


胸の奥が、ちくりと痛んだ。でも、それは冷たい痛みじゃなかった。


まぶしさに目を細めたふりをして、ほんの少しだけ――隣を歩く彼女の顔を盗み見る。

楽しそうに鼻歌を口ずさみながら、前を向いて歩くその横顔は、まるで……陽だまりの中にいるみたいだった。


胸の奥がまたきゅっとなった。

こんな気持ち、知らない。

けど、もう少しだけ……このままでも、いいかもしれないって、思ってしまった。たのだった。

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