■第6話 はじめてのごはんと、リュシア=カトレアという存在Ⅰ
午後の教室に、やわらかな春の陽射しが差し込んでいる。窓の外では、学園の中庭に植えられた若葉が風に揺れていた。
「さあて皆さん、今日は特別な授業ですよー」
教壇に立ったアンドレ先生がにこやかに手を叩く。相変わらずチャラい口調だが、今日は何だか楽しそうだ。
「魔法は確かに便利ですけど、それだけじゃ生きていけませんからねー。貴族だって、お腹が空けば死んじゃいます」
くすくすと笑い声が漏れる。先生は満足そうに頷いた。
「というわけで本日は『食と技術』の応用実習! 火を起こして、調理して、ちゃんと食べられるものを作る。これができて初めて"真のサバイバル"です」
教室がざわめいた。そりゃそうだ。ここにいる生徒のほとんどは貴族の子女で、料理なんて召使いがするものだと思っている。私だって、前世の記憶がなければ同じだっただろう。
「資料を配りますから、よく見ておいてくださいねー」
先生が資料の束を持ち上げながら言った。
◆
そんなわけで今日は、学園の裏手にある"演習用森林エリア"での屋外調理実習。生徒たちはペアを組まされ、配布された材料を元に、自力で昼食を作ることになっている。
あくまで"自力で"。
(うわー……こういうのは得意な人と組みたい……)
前世で家庭科はそこそこ得意だったし、母のお手伝いで料理もしていた。けれど、できればサポート役に回って、無難に終えたいのが本音だ。
私の淡い期待は、あっさり裏切られた。
「シルヴァーバーグ嬢、ペアは……カトレア嬢ですね」
……はい?
(リュ、リュシア=カトレア!?)
よりにもよって"氷雪の女王"。スキルや魔法、座学での優秀さ、無表情で毒舌、周囲を寄せ付けない孤高の立ち振る舞いからいつの間にやらついたあだ名だ。
氷雪の女王、リュシア=カトレア。攻略難易度SS級、乙女ゲームならルート解放に5周は必要なヒロインが、まさかの相棒。
教室がざわつく。
「うわ、"氷雪の女王"と"奇行の姫君"がペア!?」
「カトレア様、お気の毒に……」
なにその扱い!? いや、今なんて言った!? 変なあだ名ついてない? 私!?
(でも、これは……)
(むしろチャンス!?)
(主要ヒロインとの距離を一気に縮める、絶好のフラグイベント……ですわ!!)
はい。脳内演出スイッチが入りました!
「それじゃあ、各自移動開始。魔法の使用は調理補助のみ許可。遊び半分で森を燃やすなよー」
先生の言葉で、みんながバラバラに森の中へと散らばっていく。適当な場所を見つけて調理をするのだ。
私とリュシアも足を向けたのは、森の奥へと続く小径だった。演習のための森とはいえ、古い大木が立ち並び、頭上の枝葉が陽射しを遮って辺りは薄暗い。足音を吸い込むような厚い落ち葉を踏みしめながら、私たちは黙って歩いていく。
やがて木々の間に小さな空き地を見つけて、足を止めた。
火をどうしようかと思ったそのとき――
「《氷結界、融解炉式》」
リュシアが手を掲げ、無造作に魔法を詠唱すると、足元の石の輪に整った氷の炉が形を成し、次の瞬間、ふわりと魔力の炎が灯った。
(……すごい。いや、美しい)
氷の残滓がきらきらと空中に舞い、魔力の残光が淡く揺らめく。思わず息を呑むほどの精緻さ。手慣れているなんてレベルじゃない。
「……何見てるのよ」
「あっ、いえ、その……素晴らしくて。さすがリュシア様……!」
(あ、言葉選びお嬢様モード入った。まあいいか)
リュシアは返事もせず、淡々とまな板と鍋を準備し始めた。その姿はまるで、"冷たい静寂そのもの"。
……さて。この沈黙、どう料理すればいいのでしょうね。
「調理実習って、こんなにサバイバルを競うものでしたっけ?」
私は先生からもらった資料を開き、食べられる植物の図解を眺めながらつぶやく。
「さあ? 私も初めてよ」
リュシアもちらりと資料を覗き込む。
「とりあえず、食材を探しましょうか」
私たちは周辺を歩き回り、資料と照らし合わせながら何とか食べられそうな野草や木の実を採取した。思った以上に時間がかかったが、最低限スープにできそうな材料は揃った。
◆
火が安定し、湯の入った鍋がぽこぽこと小さな泡を立て始める。立ち上る湯気が頬に触れて、ほんのりと温かい。
私は、手のひらに収まるにんじんの皮をむきながら横目でリュシアを見る。彼女は黙々とじゃがいもに向き合っていた。
……いや、向き合ってはいる。いるのだけれど。
その手元は、危なっかしいことこの上ない。
包丁の握りが逆。芋が逃げる。左手の添え方が甘くて、皮を剥くたびに「あっ……」と小さく声を漏らしては指先を引っ込める。
(おっと……こ、これは……)
見た目は完璧、頭脳は明晰、しかし包丁の扱いだけは壊滅的――!!
「リュシア様。よろしければ、わたくしが少し……お手伝いしても、よろしくて?」
なるべく丁寧に、言葉を選んで申し出る。
「……別に。あんたがやりたいなら、やれば」
口調はぶっきらぼうだが、拒絶ではない。なら、やらせてもらおう。
リュシアが包丁を渡してきたとき、その指がほんの少し、震えていた。
(かわいい……っ)
皮むき器を握ると、手が自然と動く。金属の冷たい感触が指先に馴染み、前世で何度も繰り返した動作が蘇る。母の手伝いで鍋の前に立っていた記憶が、遠くで反響するように思い出される。
シュルシュルと皮がむけていく音。トントンと包丁がまな板を叩く軽やかなリズム。切った野菜から立つ青い香り――
「……貴族のくせに、どうしてそんなに料理ができるの?」
唐突に、彼女が問いかけてきた。
「あ、それは……お母様に……」
――とっさに口をついた言葉に、自分で動揺する。
それ、"前の母"のことだった。けれど、今目の前にいるのは、前世の友達でも、家族でもない。私の"今"の世界の住人だ。
(しまった……)
気まずさをごまかすように、視線をそらして鍋の中をのぞき込む。
ふいに、風が通り抜けた。どこかから、ふわりと香りが漂ってきた。
草のような、青いような、でもほんの少し甘い。懐かしさを含んだ匂い。
(……この香り)
私は立ち上がり、風下の茂みへ歩を進める。
それは小さな低木で、白い花をつけた植物だった。葉を軽くちぎって指でこすると、香りが強くなる。……たぶん、ハーブだ。
名前は出てこない。でも、なんだか思い出せそうな気がした。
――そのとき。
ふいに、記憶の中の声がよみがえった。