第13話 香りが奪うもの、沈む瞳の意味Ⅲ
そして、ユリウス・クランツは、静かに目を開けた。
まばたきのあと、淡い色の瞳が天井を見つめて──それから、ゆっくりとわたしの方へ向いた。
寝癖のついたやわらかな茶髪。
繊細な睫毛の影が、まだ夢の余韻をまとっている。
少しぼんやりとした表情のまま、彼はぽつりと呟いた。
「……えっと、お姉さんの声が……聞こえた気がして……」
「ユリウスくん……」
「夢だと思ったんです。でも……あなただったんですね。すごく、安心しました。ありがとうございます、エレナさん」
その声音は、静かで、やさしくて。
どこか頼りなくて──でも、それゆえに心に沁みた。
彼の手は、胸元の布をそっと握ったまま。
まるで、何かをまだ抱きしめていたいような仕草だった。
そして、その目には、昨日よりも少しだけ、強い光が宿っていた。
そして、ノアくんだけが、まだ目を覚まさない。
医務室の奥、静かに寝かされている小柄な体。
彼の呼吸は規則正しく、顔色も悪くはない。
けれど、わたしの胸の中には、ずっとひっかかるものがあった。
彼の枕元に座って、そっと耳を澄ませる。
香りは──無い。
それでも、“香りの気配”があった。
昨日、中庭で感じたあの香り。
薬草と金属が混ざったような、甘さと冷たさが同居する匂い。
そしてその奥に、もう一段階──まるで記憶のように沈んだ“何か”が、確かにあった。
(……ノアくん……どうして目を覚まさないの?)
言葉には出せなかった。
でも、その問いが、心の奥でずっと響いていた。
次第に日が傾き、窓の外が茜色に染まっていく中──
わたしは、ノアくんの寝顔を、ずっと見つめていた。
──それは、ほんのわずかな瞬きだった。
目を閉じていたノアくんのまつ毛が、ひくりと揺れる。
わたしは息を呑んで身を乗り出した。
「ノアくん……?」
彼のまぶたが、ゆっくりと持ち上がって──淡い琥珀の瞳が、こちらを映した。
「……」
数秒の間。
空白の視線が、わたしをまっすぐ貫いたあと──
「……えっと……」
彼の唇が、少しだけ震えながら動く。
「君は……誰、だっけ……?」
一瞬、何かが凍りついた。
わたしの中で、何かが壊れたような音がした。
耳の奥がしんと痛い。
視界の色が、すっと褪せていく。
「……ノアくん……冗談、ですわよね?」
乾いた声が、わたしの口から零れていた。
けれど、ノアくんは小さく首を振る。
「ごめん。何がどうなってるのか……思い出せなくて……」
目を伏せる表情は、本当に困っているように見えた。
けれど、その手が毛布を握る仕草が、ほんの少しだけ“演技”めいて見えた。
(……なに? これ……)
言葉にできないざわめきが、胸の奥で小さく渦を巻いた。
香りではない。音でも、色でもない。
でも、そこにはたしかに“何か”があった。
ノアくんを包む空気が、ほんの一瞬──揺れたように感じた。
(気のせい……でしょうか?)
苦しさ。迷い。迷いの先にある、静けさ。
それは、わたしには触れられない、遠い感情のようだった。
(──これって、きっと)
(何かに……わたしを、巻き込まないようにと……)
ノアくんの頬がほんの少しだけ紅くなっていたのは、発熱でも照れでもなく、
たぶん、後ろめたさだった。
「……大丈夫ですわ」
わたしは微笑んで、そっと彼の手に自分の指を添えた。
「わたくしは、エレナ・シルヴァーバーグ。
ちょっとだけ変わった令嬢、ですの」
ノアくんは、瞬きをひとつ。
そのあと、ゆっくりと、ほとんど申し訳なさそうに──笑った。
その笑顔が、どこかで見た“昨日の笑顔”と、まったく同じものだったことに、
わたしは気づいていた。
◆
午後遅く。病室の空気がやや乾いてきた頃、扉が小さくノックされた。
「お姉さま……あの、失礼しますっ」
控えめに入ってきたのは、ミリアだった。
制服のリボンはいつもよりゆるく、顔には疲れの色が滲んでいた。
「ミリア? 来てくださったのね」
「はい……ノアくんの容態が心配で……その……」
ミリアは笑おうとしたが、口元が引きつっていた。
目線も落ち着かず、ノアくんの顔ではなく、足元の方ばかりを見ている。
(……目を合わせない)
不自然な仕草に、わたしの中の何かがそっと反応した。
ノアくんは黙ったまま、ゆっくりと頷いた。
「……見舞い、ありがとう。ごめん……ちょっとだけ、混乱してる」
「ううん……いいの。無理、しないで……」
ミリアの声は震えていた。
そして、わたしの視線がその手元に向いたとき──気づいた。
ミリアの制服の袖口から、ほんのわずかに、あの香りが漂っていた。
無臭なはずの“香毒”の中にあった、微細な甘さ。
薬草と乾いた蜜が混ざったような、不自然な気配。
それは、あの日──ノアくんの持っていた瓶の香りと、よく似ていた。
(……どうして、あなたから……)
疑問が喉元まで来たが、言葉にはしなかった。
それはまだ、確信ではない。
でも、わたしの中で“直感”という名前の感覚が、静かに警鐘を鳴らしていた。
「……あの、失礼しますね。お邪魔になっちゃうから……」
ミリアは早口にそう言うと、ノアくんの枕元にそっと花を置いて、くるりと背を向けた。
「ミリア──」
呼びかけようとしたけれど、彼女は足を止めなかった。
その後ろ姿が、どこか怯えているように見えたのは、たぶんわたしの気のせいではなかった。
再び静かになった病室の中。
ノアくんは枕に頭を預けたまま、窓の外をじっと見ていた。
「……優しい子なんだよ、ミリアは」
ぽつりとつぶやいた声は、誰に向けたものでもなかった。
けれどその声の奥に、罪悪感とも、哀しみともつかない、複雑な感情の“匂い”があった。
わたしはそっと立ち上がり、病室の扉の前で一度だけ振り返った。
ノアくんの横顔は、どこまでも穏やかで──でも、どこか遠かった。
(……わたくし、まだあなたを全部“嗅ぎ分ける”ことはできませんわ)
でも、あの日の中庭で感じた香り。
あの視線。あの笑顔。
それだけは、今も確かに残っていた。
そして、胸の奥でまた、ざわつくような感覚が立ちのぼる。
これは、香りではない。
けれど、間違いなく──この世界に漂う“何か”だった。
(……次は、絶対に逃しませんわ)
そう、心の中で静かに誓って、
わたしは扉を閉じた。