第12話 記録ノートと、静かなる違和感Ⅰ
王都学園の東棟。
その奥にある錬金術実習棟って、たしか……初めて入った気がする。
床は黒くてひんやりした石で、ずらりと並ぶガラス瓶や銅管の装置が無機質で、ちょっと怖い。
でも空気はちゃんと浄化されてて、どこかすっとしてる。
──と思ったら、火薬とハーブが混ざったような独特の匂いが鼻に残って、「あ、研究っぽい」って納得した。
演壇には、術式板と香料瓶がセットされていて、今日は公開発表の日。
錬金術専攻の生徒や、推薦組の上級生がまばらに座ってる中、
わたしは控え席にひとり座っていた。
(……単位大切ですわ、今日って錬金術発表会……でしたっけ?)
そんなふうに思っていたとき。
白衣を着た小柄な男の子が、壇上に現れた。
金髪のくせ毛、童顔。だけど歩き方はしっかりしてて、白衣の袖を整える手つきも丁寧。
その手には、銀色の術式板と、細長いガラス瓶。
「……本日は、『多重安定型融合試薬』について、簡潔に報告します」
ノア・サーヴァント。たしか、飛び級で学園に入ってきた天才錬金術師……なんだけど、
天才錬金術っていうより、子役モデルみたい。外人の。
整った顔で、はにかみがちな笑顔。
ルックスだけで、好感度ナンバーワンをとれそうな美少年だ。
声は静かで、言葉の抑揚もあまりない。けど、話し方には妙な誠実さがあった。
それに、瓶の扱いがすごく自然だった。慣れてる手つき。
なのに、マイクを持つときはちょっと手が震えてたりして、なんだか不思議なバランスだった。
観覧席の生徒たちはあんまり聞いてない感じで、先生たちだけが真剣だった。
わたしは……思わず、ノアくんを目で追っていた。
そして──ふと。目が合った。
ほんの一瞬だった。すぐに逸らされた。
でもそのとき、ふわっと香りが鼻をくすぐった。
甘くてやさしい。草の香り。でも……どこか金属っぽくて、冷たいものが混ざってる。
チョコレートに釘を入れたみたいな、変な組み合わせ。
(……変な香り)
不快じゃない。でも、なにかが引っかかる。
すごく遠い記憶の底で、知ってる気がする。そんな感覚。
ノアくんが瓶を掲げて、術式を起動した。
液体がふわっと光って、魔導式が淡く反応する。
そして、香りが一気に空気に広がって──
その瞬間、ノアくんがまた、こっちを見た。
今度は、目を逸らさなかった。
(……え?)
目が合ったまま、数秒。
何も言葉はなくて、でも、そこに確かに何かがあった。
(なんで……わたし、見られてる?)
わからない。でも、胸の奥がほんの少しだけきゅっとなった。
香りじゃない何かに、わたしは反応していた。
ノアくんの視線。そこに宿っていた、わたしだけに向けられた──何かに。
◆
発表が終わったあとの午後。
わたしは中庭のはしっこ、講義棟の裏側にある植え込みのあたりまで、なんとなく歩いていた。
目当てがあったわけじゃない。
でも気づいたら──あの子が、いた。
ノアくん。さっきの発表を終えて、白衣の袖をまくり上げて、小さな薬草の茂みにしゃがみこんでいる。
片手には小さな鑑定瓶、もう片方にはピンセット。
葉の縁を丁寧につまみ上げて、光に透かして観察していた。
「香気が揮発しやすい種類は、素材そのものよりも、育った土壌の状態に左右されるんだ。
……ここ、わりと安定してるから、見てると楽しい」
まるで、ひとりごとのような声だった。というかひとりごとですね、これ。
――でもこれはチャンスかも! この子も確か攻略対象!
私の味方になってくれるかも知れない人材だわ!
「――そういうの、好きなんですのね」
そっと声をかけると、ノアくんがふっとこちらを振り向いて──少しだけ、驚いた顔を見せた。
「奇行の姫君……だったっけ?」
「い、いやな覚えられかたですわね! わたくし、エレナです。エレナ・シルヴァーバーグ」
「……エレナさん……えっと……さっきの、聞いてた?」
「控え席から、少しだけ。とても興味深くて……それに、香りも印象的でしたわ」
そう言うと、ノアくんはほんの少し目を見開いた。
それから、困ったように、でもどこかうれしそうに笑った。
「ありがとう。発表は……慣れてないけど。調合してるときのほうが、落ち着く」
ふっと視線が瓶に落ちて、それをわたしに向けて見せてくれた。
「これ、まだ完成してない試薬なんだけど……揮発段階の香気が、ちょっと不安定でさ。
でも、変化するのが好きなんだ。“変わっていく香り”って、なんか、いいよね」
その言葉が、不意に、胸に残った。
(変わっていく香り……)
なんとなく、わかる気がした。
香りって、混ざったり、消えたり、戻ったり、時にはまるで感情みたいに揺れることがある。
そういうのを、わたしもずっと感じてきたから。
ノアくんと話すのは、これが初めてのはずなのに──変な居心地の悪さがなかった。
「ここ、好きなんだ。人があんまり来なくて、静かで……ずっとここにいられたらいいのにな」
ぽつんと落とされたそのひと言に、わたしは少しだけ立ち止まった。
(……なんでだろう。急に、すごく寂しそうな声に聞こえましたわ)
そこに、あの時と同じ──金属みたいに冷たい香りが、わずかに混じっていた気がした。
でもそれは風にさらわれるように、すぐに消えてしまった。
「ノアくーんっ!」
ぱたぱたと駆けてくる足音。ミリアの声。
あら、ミリアとノアくんってクラスメイトだったのかしら?
「あ、お姉さま! こんなところで珍しいですね!」
「ええ、錬金術の発表会の後、お散歩してたんですの。少し頭を使いすぎて……」
「ふふ、錬金術難しいですもんね!」
そういうと、ミリアはノアくんに振り返る。
「また草いじりですか〜? お昼、もうすぐ終わっちゃいますよっ」
「うん、でももう終わるところ」
ノアくんが笑って立ち上がる。
ミリアも続けて駆け寄ってきて、彼を見ながらぴたりと止まった。
「随分仲がよろしいのね?」
「はい、わたしもノアくんも一般の出身ですし、近所に住んでたんですよ」
そういうと、ミリアはノアくんの白衣、そのポケットの中に目をやった。
「あれ、その瓶……新しいやつですか?」
「うん、ちょっとだけね。香りはまだ安定してないけど……嗅ぐ?」
「ううん、大丈夫ですっ!」
そう言って笑ったミリアの顔が、ほんの一瞬だけ、こわばった。
(……?)
その変化は、ごく微かなものだったけど、わたしの中で、さっきの香りと一緒に残った。
ノアくんの言葉。
ミリアの一瞬の表情。
どこか──かみ合っていない感じ。
それは、わたしの“嗅覚”じゃなく、“感覚”が訴えている違和感だった。