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第11話 香りに揺れる式盤、感情を知らなかった僕Ⅱ

「記憶が……乱れていく」


 テオがそう呟いたとき、私は思わず息を止めた。


 彼の視線は、私ではなく、何か遠い場所を見ていた。

 まるでこの空間にいながら、過去か夢か、どこか別の時間に引き戻されているような――そんな目。


「夢の中で……この香りを嗅いだことがある。何度も。

 でも、現実じゃなかった。そんな場面、そんな時間、あったはずがないのに……」


 彼の言葉が途中で止まる。


 やっぱりこの香りは、ただの香水じゃない。

 何か“記憶”に作用するもの。もしくは……“魂の底”に触れるもの。


「思い出しては、いけないんだ……」


 小さな声で、彼は自分に言い聞かせるようにそう言った。


 私はその言葉に、すぐに気づいた。

 ――これは、ただの“忘れていた”記憶じゃない。

 忘れさせられていたものなんだ、と。


「感情は、ノイズだって……教えられてた」


 彼の声は低く、まるで遠い記憶をなぞるようだった。


「記録、反復、構築……覚えることだけが“正しさ”だと」


 そこまで語った彼の顔が、ほんの一瞬、歪んだ。


 無表情を崩さない彼が、苦しそうに眉を寄せている。


 ――毒親。

 そんな言葉が頭に浮かんだのは、本能だった。

 彼は、感情を“排除されて育てられた”んだ。


 でも今、その“排除されたはずの感情”が、

 この香りによって――私によって――戻ってきてしまった。


「……なんで、こんなに、苦しいんだ」


 テオが、自分の胸元をぎゅっと握った。


 そうか。

 これが、彼にとっての“初めての感情”なのかもしれない。


 記憶と一緒に沈められていた、“心”というやつが、いま浮かび上がってきてる。


「君は……誰だ?」


 その声は、震えていた。

 さっきまでの理論派でも、スキルの使い手でもない。

 ただのひとりの、迷子の少年の声だった。


 私は、迷わず言葉を返した。


「わたくしは、エレナ・シルヴァーバーグですわ。

 でも、そう名乗る前のことを……あなたが覚えていてくれたのなら、うれしいですわね」


 それは、確信でも予言でもない。

 けれど――私の“本質”であり、“彼の目覚め”の証。


 だって、これはもう……

 即・墜ち案件ですわ!!!!


 ◆


 テオは、まだ私を見ていた。


 さっきまでの“無表情”ではない。

 けれど、“感情豊か”でもない。

 そのあいだ。

 初めて心が生まれた誰かの、ぎこちないまなざし。


「……式盤が、壊れた」


 ぽつりと、彼が言った。


 それは分析でも報告でもなく――ただの実感だった。


「これまで構築してきた思考の枠組みが、君という存在で乱された。

 香りが引き金だった。でも、それだけじゃない。

 ……“君を知っていた”と、どこかが叫んでる」


 その言葉を聞いて、私は思わず胸を押さえた。

 香りで心を動かすとか、そういうレベルじゃない。

 これは、きっと――魂の奥底が、共鳴してる。


 テオは目を伏せ、しばらく沈黙した。

 けれどやがて、顔を上げて言った。


「……仮説を立てておく」


 それは彼なりの、“再会の約束”だった。


「君の香りには、再現性があるかもしれない。

 そして、君自身にも。

 ――だから、次も“同じ条件”で接触したい」


「それは……わたくしと、また会いたいということでして?」


 テオは少しだけ目を伏せ、それから、ためらいがちに答えた。


「そう。僕は……また君と会いたい。そう思っているらしい」


 その言い方はどこかぎこちなく、でも確かに“本音”のように聞こえた。


 彼はゆっくりと息を吐いた。


「わからない。これは、仮説でも論理でもない。けれど、今、確かにそう感じている」


 テオは少し言葉を切って、窓の外へ視線を向けた。

 その横顔は、いつもの無表情ではなく、ほんのわずかに熱を帯びて見えた。


「求めるって、こういうことなのか。欲しいって、こう……思うものなんだな」


 ゆっくりとこちらに向き直り、彼はまっすぐに私を見て言った。


「君ともう一度、同じ香りの中で向き合ってみたい。この気持ちが、なんなのか……“感情”ってやつなのか……確かめてみたい」


 ……っっっ!!

 それって、つまり、もう一回会いに来てくれるってことですわよね!?

 ですよね!? ね!? ねぇ!??


「まあ……そのご提案、前向きに検討させていただきますわね」


 とりあえず冷静ぶってそう返したけれど、内心では

 【攻略ゲージ:一気に★5】【即墜ち達成】【世界線ごとハートを射抜いた】

 としか思えない事態が起きておりましたのよ。


 彼はそれ以上何も言わず、静かに資料を閉じて背を向けた。

 歩き去る後ろ姿は、さっきまでよりほんの少しだけ、人間らしくて――

 そしてちょっとだけ、優しそうだった。


 図書室に残された私は、ぽつりとつぶやく。


「……攻略……成功ですの?」


 でも、なんだろう、この違和感。攻略ってなんだろう?

 おかしいな。これはゲームの世界なのに。


 その夜の観察記録には、こう記した。


 【No.7:テオ・ルミナス。香りによる魂レベルでの即墜ち/再現性の検証が急務】


 けれど。

 “なぜあの香りで彼が揺れたのか”、

 “なぜ彼の記憶の底にわたくしがいたのか”――


 その理由は、まだ誰も知らない。


 香りだけが、知っている。


 ◆


 定期報告。


 そちらのオファーで調香された香水は無事に対象者の手に渡すことができました。

 報告事項が判明したので、こちらに報告いたします。


 あの人は渡された香水を大事にしまいこみ、常に携帯しているようです。

 疑うこともなく。


 あの人の反応は、想定以上でした。

 香りに触れた瞬間、彼女の中で何かがほどけていくのがわかりました。


 そして今日、もう一人の反応が観察できました。


 テオ・ルミナス。

 魔導院式盤最適運用個体。記憶と感情の一部が、香気によって刺激された兆候が見られました。

 あの香りに、彼は反応したのです。まるで、懐かしい夢に出会ったかのように。


 ラフェルトNo.4旧型。

 かつての失敗作とされたその香水は、やはりただの香りではありませんでした。

 彼の中に沈められていた記憶、それも深い層――魂の構造に近い箇所に触れたようです。


 これが転生者由来の反応であるかは、引き続き慎重に観察を続ける必要があります。

 ですが、彼が“感情”というものに触れたのは、間違いありません。


 詳細は後日、別報にて記載いたします。


 再現性、接触条件、心因誘導との因果。

 全てを含め、次回の接触に向けて記録を残しておきます。


 以上。


(記録者:不明)

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