第7話 はじめましての寮暮らし!Ⅲ
ぴょこりとお辞儀するその様子が、あまりにも無防備で。
気づけば私は、脳内の乙女ゲーセンサーを全開にしていた。
(この展開……見ましたわ……!)
(新生活の寮で、天真爛漫な年下の子と出会って、徐々に心を通わせていく――)
(これは“妹キャラとの友情育成ルート”ですわね!?)
しかも、私を「お姉様」って呼ぶなんて……
そんなのもう、全ルート開通の予感しかしませんわ~!
「改めて、よろしくお願いしますわね、ミリアさん」
「は、はいっ、お姉様っ!」
……今、確かに言いましたわよね、“お姉様”って!
(ああ、これはもう、完全にフラグ成立ですわぁ……!)
◆
「ねぇ、お姉様。こっちのベッドが好きですか? それとも、窓側がいいですか?」
「では、そちらはミリアさんが使ってくださいまし。わたくし、窓から空を見るのも好きなんですの」
部屋に荷を解きながら、そんなやりとりを交わす私たち。
まるで昔から一緒にいたかのように、自然に会話が弾む。
そして、寮備え付けの湯沸かし器とティーセットで、ちょっとしたお茶の時間。
「はぁ……こうして落ち着くと、ようやく実感が湧いてきますわね」
お茶の香りにほっと息をつきながら、私はミリアの方を見る。
彼女は、心から楽しそうに笑っていた。
「本当に、ここでお姉様と一緒に過ごせるなんて、嬉しいですっ」
「ふふ……“お姉様”って、ずいぶんと気に入っているようですわね?」
「はいっ、なんだか……言ってるだけで、あったかい気持ちになるんです!」
ぴょこぴょこと尻尾が見えるかのような仕草に、私は心の中で確信する。
(これはもう、“妹キャラとの絆ルート”確定演出ですわね!?)
(将来的には、なにかのイベントで庇って庇われて、絆が深まり……最後は、涙のハグですわ!)
……と、脳内の乙女ゲーム演出がフル稼働していたその時だった。
「屋敷……大変だったって聞きました。虫とか、たくさん出たって……」
ミリアがそう言って、少し眉を寄せる。
……ああ、そういえば、そうでしたわね。
一瞬だけ、あの“甘ったるくて気持ち悪い香り”の記憶が胸の奥でよみがえる。
「でも……ここはきっと楽しいですよ。みんな優しいし、寮のお掃除も毎日ありますし!」
「……そう、ですわね。ええ、これはきっと“運命の導き”ですわ!」
すぐに気を取り直し、私はいつもの笑顔でカップを掲げる。
「新たな舞台に、新たな出会い。まさに、乙女ゲームの新章スタートでございますわ!」
ミリアはその言葉に、ぱぁっと顔を明るくして微笑んだ。
だけどその笑顔の奥に、ふっと揺れた影に、私は気づかなかった。
彼女がそっと呟いた、小さなひとこと。
「……ほんとうに、いい方でよかった……」
◆
夜。寮の窓辺に、私はひとり立っていた。
昼間のにぎわいが嘘のように、学園の敷地は静まり返っている。星の瞬きすら、どこか遠慮がちに思えるほどに穏やかな夜だった。
スピカ寮のベランダは、思っていた以上に風通しがよくて。ふとした瞬間に、頬を撫でるような風が白いカーテンを揺らす。そこからふわりと入り込んだ夜気が、私の髪をすり抜けていった。
私は欄干に手をかけ、そっと夜空を見上げる。
月がきれいだった。まるで絹糸を張ったような静けさの中で、冷たい光を落としている。
「……いい夜ですわね」
誰に言うでもなく、そんなひとことをこぼした瞬間だった。
ふ、と。
鼻先に、微かにひっかかるような香りが流れた。
(……え?)
ほんの一瞬だった。
けれど、確かに香った。
甘いようでいて、どこか薬草じみた、鋭く鼻を撫でる匂い。
それでいて、なぜか懐かしさのようなものが胸に引っかかった。
(この香り……どこかで、)
眉をひそめる。
でも、思い出せない。記憶の引き出しの奥にひっかかっているのに、うまく開かない感覚。
(妙に、胸騒ぎがしますわ……)
私はそっとベランダを離れ、カーテンを閉じる。
もう一度、あの香りを吸い込めば、何かがわかる気がして。
でも――もう、何も香らなかった。
部屋に戻りながら、私は静かにベッドの端に腰掛ける。
柔らかな毛布にくるまりながら、まだぼんやりと、あの香りの残滓を探していた。
「……気のせいかしら。でも……」
瞼を伏せ、静かに言葉をこぼす。
「忘れないようにしておきますわね」
そっと、胸に手を当てる。そこにまだ、微かな違和感だけが、灯のように残っていた。
◆
冷たい魔石灯の光が、仄暗い室内に浮かんでいた。
壁には無数の線と記号が刻まれた地図。学園周辺の詳細な見取り図だ。
その中央、ぼんやりと明滅する光点を、誰かが指でなぞる。
「報告がありました。計画は予定通り」
低い声が、ほとんど吐息のように空気を震わせた。
「観察対象“エレナ・シルヴァーバーグ”。香識反応、未覚醒――だが兆候あり」
別の声が応じる。
男とも女ともつかぬその声音は、何かを確信しているかのような、妙な抑揚を孕んでいた。
壁際の卓上には、幾枚かの羊皮紙と香料瓶。
そのひとつには、極小の字で《ラフェルトNo.4旧型》と記されている。
「予定より早いが……学園という“閉鎖空間”ならば、観察にはちょうどいい」
静かに椅子が軋み、誰かが立ち上がる。
その背後、壁に設置された観測盤には、寮の見取り図と香気検知記録が浮かび上がっていた。
「いずれにせよ、“彼女”はすでに隣にいる。……あとは、反応を待つだけだ」
まるで芝居の幕が上がるのを待つ観客のように。
仄暗い部屋の中、誰もがただ、静かに――笑っていた。