第六話:森の住人たちと、最初の“におい”
朝の森は、まだ眠たげな光に包まれていた。
風はやわらかく、鳥の声は遠く。
木々の影がやさしく揺れて、ぴゅるんがくしゅりとあくびをした。
私は“ぴゅるんハウス”の前で、大きく伸びをする。
昨日作った即席の小屋は、夜の冷えを防いでくれたし、何より――あの毛玉がいるだけで、どんな場所だって安らぎの寝床になる。
「おはよう、ぴゅるん。……今日も、かわいいわね」
「ぴぃ……」
まだ半分寝ぼけている様子で、ぴゅるんは私の足元にごろんと転がる。
それを見て、私は思わず笑ってしまう。
(朝から尊い……)
森での暮らしは、まだ何もかもが不慣れで、手探りばかりだけれど。
その“手探り”を誰にも否定されないことが、たまらなく嬉しかった。
王城にいたころは、何をしても“正しさ”が求められた。
決まった時間に起き、決まった服を着て、決まった言葉で人と接する。
ここには、そんなものはひとつもない。
“お腹が空いたら探して食べる”
“眠くなったら寝る”
“モフりたくなったらモフる”
……最高じゃない?
⸻
森を歩いていると、小さな音が聞こえるようになる。
葉が落ちる音。風が揺れる音。枝を折る音。
耳を澄ませると、森が生きているのがわかる。
それはまるで、王都の雑踏とは正反対の音の豊かさだった。
「この辺、今日は食べ物あるかな……」
昨日作った小屋の周りをぐるりと探索していると、地面に小さな木の実が落ちているのを見つけた。
少ししっとりしているけど、魔法で毒素の有無は確認済み。
ぴゅるんが「ぴぃ!」と跳ねて喜んでいるから、味もたぶん悪くない。
「ちょっと火を通してみようか。あったかくして食べたいし」
“魔法で火を起こす”という行為にも、もう慣れてきた。
城では許されなかったけれど、私にはずっとこの力があったんだ。
今は誰も咎めない。
誰にも、「皇女らしくしなさい」なんて言われない。
私は小さな鍋に水を汲み、実を煮てみる。
薄く香ばしい匂いが立ち上って、思わずお腹が鳴った。
「……なんか、それっぽくなってきたね、ぴゅるん」
「ぴぃぃっ!」
得意げに跳ねる毛玉。
一緒に暮らしているって感じが、ちょっとだけ強くなった気がした。
⸻
食事のあと。
私は焚き火のそばで、ぴゅるんを膝に乗せながらまどろんでいた。
もう少ししたら、水源を探してお風呂代わりに身体を流したいし、森の地形も把握しておきたい。
でも――その時。
ふ、と、風が変わった。
香りが、変わった。
「……あれ?」
さっきまでと違う、ほんのかすかな“におい”。
土でも花でも草でもない。
甘いような、でも少し鋭いような、鼻の奥をくすぐる匂い。
どこかで嗅いだことがあるような――でも、思い出せない。
「ぴゅるん……なんか、変な匂いしない?」
「ぴぃ……?」
ぴゅるんも鼻をくんくんと動かしている。
私と同じで、何かを感じ取っているのは間違いない。
匂いの方向は、森の奥。
風がそちらから吹いてきている。
でも、さっきまでとは違って――何かが、そこに“ある”。
「……行ってみようか」
私はぴゅるんを腕に抱え、ゆっくりと森の奥へ歩き始めた。
さっきまでの陽だまりとは違って、ここは少し暗い。
枝が密に重なり、空が見えにくい。
でも、不思議と怖くはなかった。
私には魔法があるし、なによりぴゅるんがいる。
それに、たぶん――この匂いの先には、“誰か”がいる気がした。
誰かが、待っている。
私を知っているわけじゃない。
でも、出会うべき何かが、そこにある。
そう感じさせる、不思議な風だった。
⸻
森の奥は、静かだった。
音はないのに、空気が動いている。
枯葉を踏む足音が、やけに大きく響く。
そして、ようやく辿り着いた――その場所。
一面に、白い花が咲いていた。
ふわふわとした綿毛のような花が、風にそよいで揺れている。
たぶん、どこかの文献で見たことがある。
古い言葉で、“マフマフ草”と呼ばれる、魔力を持つ植物。
穏やかな力を持ち、魔物さえ癒すと言われた幻の植物。
「……ああ、なるほど。これか、“におい”の正体は」
私はぴゅるんを降ろして、そっと膝をつく。
花のそばで、静かに深呼吸した。
甘くてやさしい。まるで毛布みたいな香り。
でも、それだけじゃない。
この匂いの中に、確かに――“呼ばれている”感覚があった。
風が吹く。
ぴゅるんの毛がふわりと揺れる。
私の髪も、そっと撫でられた。
誰かが、優しく背中を押してくれたような、そんな気がした。
「……この森、やっぱりただの場所じゃないのかも」
ここには、何かがある。
それが何かはまだわからないけれど。
私は、きっとここで――もっといろんな出会いをするんだと思った。
そしてその“におい”は、確かにその始まりを教えてくれていた。
ぴゅるんは、花の中で丸くなって寝ていた。
白い毛並みと、白い綿毛の花が重なって、まるで自然の一部みたいに見える。
呼吸のたびに小さく揺れる体。耳がふるふると震えて、ときどき「ぴぃ」と寝言を漏らす。
私はその様子を見ながら、小さく笑って、膝を抱えた。
森の奥に咲いていた“マフマフ草”。
魔力に満ちたこの場所に、ぴゅるんはすぐに懐いて、安心しきった様子で眠り込んでしまった。
まるで――帰るべき場所に帰ってきた、みたいに。
「……君にとっては、ここが“ふるさと”なのかな」
そう問いかける声に、答える者はいない。
でも、代わりに風がそよぎ、花の香りがまた優しく鼻をくすぐった。
それだけで、十分だった。
私は小さく深呼吸をして、青く高い空を見上げる。
どこまでも広がっていて、誰のものでもない空。
王都で見ていた空とは、同じようでまるで違う。
あっちは、閉じられていた。
この空は、開かれている。
この森に来てから、いろんなことを考えた。
“逃げた”ことに後悔はなかった。
でも、“逃げてきただけ”では、すぐにまた何かに縛られると思った。
この場所が、いつか誰かに見つかって、壊されるかもしれない。
アリシアという名前が、また私を追ってくるかもしれない。
でも。
だからこそ、私のほうから先に――言葉にしておくべきだと思った。
「……私は、ここに“国”をつくる」
誰にも聞かれていない。
でも、私ははっきりと言った。
ぴゅるんが、目をぱちりと開けて、こちらを見上げる。
「モフモフたちが安心して眠れる国。
ぐうたらしたって怒られない国。
食べたい時にお菓子を食べて、眠たい時に寝て、好きなものを好きって言える国」
私の声は、どこかふわふわしていた。
だけど、それはこの森の空気に似ていて、少しだけ心地よかった。
「何もないけど……でも、ここにあったの。君がいて、マフマフ草が咲いてて、空があって、風があって。
それだけで、生きていける気がしたの」
ぴゅるんは、ちょこんと私の膝に乗って、じっと私の顔を見つめている。
「……ぴゅるん、君はどう思う?」
「ぴぃっ!」
力強く――というには小さすぎるけれど、それでもぴゅるんは、はっきりと鳴いた。
賛成。
そんなふうに聞こえた。
私は、その小さな声に背中を押されるように、微笑んだ。
「ありがとう。じゃあ……私たちの“国づくり”、始めようか」
森に風が吹く。
花が揺れ、枝が鳴る。
太陽が高く昇って、光が世界を満たしていく。
私は、たった一人の“逃亡皇女”だった。
でも今――
たった一人の“王”になった。
それは、誰かを従わせるための王じゃない。
誰かを守るための、誰かと一緒に生きるための、“優しい王”。
その始まりの旗は、今――
ぴゅるんのふわふわの毛の中で、そっと揺れている。