第四話:ぴぃ?
森の中の時間は、まるで別の世界みたいだった。
空がうっすらと明るくなり始めている。夜明けが近い。
空気の温度がほんのわずかに上がって、土の匂いも濃くなる。
鳥の声が、遠くで小さく響いた。
私は、苔むした木の根に腰を下ろして、深く息を吸い込む。
冷たい空気が肺に入って、胸の奥まで満たしていく。
「……ちょっと歩きすぎたかな」
城を出てから、もうどれくらい時間が経ったんだろう。
気が張っていたせいか、疲れはあまり感じていなかったけれど、足元はうっすらと痛い。
魔法での治癒も考えたけど、何となく、この森の中では“自分のままで”いたかった。
「少しだけ、休もう」
私は膝を抱えて座り、マントの裾をたぐり寄せて冷えた指を包んだ。
辺りはしんと静かで、聞こえるのは風の音と、小さな葉のざわめきだけ。
でも――その時だった。
「……ぴ?」
聞き慣れない声が、すぐそばから聞こえた。
私はびくりと肩を揺らして、顔を上げる。
そこにいた。
白くて、小さくて、まるくて。
ふわっふわの毛に包まれた、小動物……いや、“毛玉”が、私の足元でじっとこっちを見上げていた。
「…………」
「…………ぴ?」
なんだこれ。
いや、なんだこれ!?!?
思わず息を呑んで、私は動けなくなる。
大きさは、両手で抱えられるくらい。
真っ白な毛並みに、ちょこんとのった小さな耳。くりくりとした黒い目。
全体的に丸い。完璧に丸い。フォルムが天才的に丸い。
どう考えても、ただの野生動物じゃない。
“生きてるモフモフ”だ。夢にまで見た、ふわふわ系生物。
「ぴ……ぃ?」
毛玉は私を見上げながら、首を傾げた。
その仕草が、胸にズドンとくる。
ああもう、これは、ずるい。反則。
「……あの、君……誰?」
声をかけると、毛玉はふわふわっと跳ねて、私の足にちょこんと前足(?)を乗せた。
「ぴぃっ」
なんか、鳴いた!?
かわいい声で鳴いたんだけど!?!?!?!?
「えっ、えっ、ちょっと待って……近い……っ、あの、近……いや……ちょ……っ、かわいい!」
私は思わず両手でその毛玉をそっと抱き上げた。
ふわふわ、もふもふ、あったかい。
なにこれ。生きてるぬいぐるみ? 神様の贈り物?
「やばい……やばい、やばい……」
語彙力が溶けていく。
理性が消えていく。
あったかくて柔らかくて、呼吸を感じる。
それが、たまらなく嬉しかった。
「……ごめん、ちょっとだけ……モフらせて」
毛玉は抵抗するでもなく、私の胸にすっぽりと収まった。
私はゆっくりと、そっと、その毛を撫でる。
指先が、ふわりと沈んでいく。
その感触は、まるで――誰かに抱きしめられているみたいだった。
(……ああ、私、ずっと、これを……)
なんだか、泣きそうになってしまった。
ふざけた理由だと思うかもしれないけど、
でも私はずっと、誰にも甘えられなかった。
弱音を吐けなかった。
“高潔で、上品で、優雅な皇女様”として、仮面をつけ続けてきた。
そんな私を、何も言わずに受け入れて、
ただ温かさをくれるこの毛玉の存在が――たまらなく、ありがたかった。
「……君、名前、あるの?」
毛玉は「ぴ?」と首を傾げた。
「そっか。ないんだ」
私はしばらく考えて、それから小さく笑った。
「じゃあ……“ぴゅるん”って、呼んでもいい?」
毛玉は「ぴぃっ」と高く鳴いて、私の手のひらに顔をすり寄せた。
「ぴゅるん、ね。うん。よろしくね、私の、最初のお友達」
私の胸の中で、ぴゅるんは満足そうに丸くなって、目を閉じた。
その小さな寝息を聞きながら、私は空を見上げる。
空は、すっかり明るくなっていた。
“本当の朝”が、始まった。
この子と一緒に見る最初の朝。
そしてきっと、ここから私の“本当の物語”が始まる。
「……よろしくね、ぴゅるん」
私はそっと、ぴゅるんの頭を撫でた。
それが、私とこの毛玉の最初の契約だった。
ぴゅるんは私の腕の中で、すうすうと寝息を立てていた。
その小さな体は、まるで湯たんぽみたいにあたたかくて、柔らかくて、
抱いているだけで胸の奥がじんわりと溶けていく。
「……うそみたい」
ぽつりと呟いた声は、森の静寂に吸い込まれていく。
誰も返事をしない。
でも、それがなんだか、ちょうどよかった。
私は今、ひとりじゃないけれど、誰にも“見られていない”。
この安心感は、王城では決して味わえなかった。
地面に敷いたマントの上に、そっとぴゅるんを寝かせてから、私は立ち上がった。
陽が完全に昇る前に、少しだけ寝床を整えておこうと思ったのだ。
周囲を見回して、枯れ葉と落ち枝を集める。
小さな焚き火を作るために。
(薪の組み方は、昔こっそり読んだ実用書の受け売りだけど……やってみればなんとかなるものね)
集めた木の枝をくるんと丸めて組み上げ、火を灯す。
魔法を指先に宿し、小さく「点火」と唱えた。
その瞬間、枝の間にふわりと橙色の光が灯り、火が広がる。
ぱち、ぱち、と乾いた音を立てながら、焚き火が静かに燃え始めた。
「……あったか」
私はぴゅるんをそっと抱き直して、火のそばに座り込んだ。
焚き火を囲んで座るのなんて、人生で初めてだった。
王宮では暖炉の炎しか知らなかったし、もちろん“自分で火を起こす”なんてこともなかった。
けれど今は――
そのひとつひとつが、ものすごく愛おしかった。
ぴゅるんは、火の温かさに包まれて、ごろりと寝返りを打った。
「……ぴゅぅ……」
どうやら、夢を見ているらしい。
寝言のようなその声に、私の口元も自然と緩む。
「かわいいな、もう……」
小さく笑って、私は自分の膝を抱いた。
焚き火の明かりが、ちらちらと揺れて、草の影が踊っている。
森の朝は、想像していたよりもずっと静かで、やさしかった。
虫の羽音も、鳥の鳴き声も、風のそよぎも。
すべてが“自分のために流れている”ような気がした。
「ねぇ、ぴゅるん……」
私は小さく声をかける。
寝ているから返事はない。でも、それでも話したくなった。
「私さ、ずっと“皇女”だったんだよ。王宮に生まれてさ、いい服着て、おいしい料理食べて、偉い人たちに囲まれて……」
焚き火を見つめながら、私はぽつぽつと言葉をこぼす。
「それでも、ずっと怖かった。
何か間違えたら、誰にも必要とされなくなるんじゃないかって。
母様に『皇帝になりなさい』って言われて、それが正しいと思ってた。
でも……ほんとは、全然違ってた」
ぴゅるんは、寝息の中でふわふわと耳を揺らす。
それがまるで「わかるよ」と言ってくれているようで、私はまた少し笑った。
「私、なんで頑張ってたんだろうね。
あんなに無理して、誰にも甘えなくて……お菓子もモフモフも我慢してさ」
焚き火の炎がゆらりと揺れて、ぴゅるんの毛に橙色の光が差した。
まるで小さな星みたいだ、と思った。
「でもね、ぴゅるん。君に会えてよかったよ。
やっと“私の時間”が始まった気がする」
今まで私は、誰かの人生を生きていた。
母の望んだ未来。貴族たちの都合。王宮の空気。
その全部から、やっと解放された。
そして、こうして焚き火の前で、毛玉を抱いて、眠気に身を預けている。
それだけで、涙が出そうになるくらい――幸せだった。
「……少しだけ、眠ろうかな。ちゃんとした寝床は、明日考える」
そう言って、私はマントを敷いた草の上に横になった。
ぴゅるんを胸に抱いて、炎の揺らぎを瞼に感じながら、静かに目を閉じる。
森の音が、心地よく耳に流れ込んできた。
ああ、私は今、誰のものでもない。
ただのアリシアとして、生きている。
そう思ったら、自然と眠りに落ちていった。
はじめての、自由な夜だった。