第三話:夜の城と、静かな逃走
王城という場所は、昼間はまるで舞台装置のように華やかで、常に誰かの声が響いているけれど――
夜になると、嘘みたいに静かになる。
静かすぎて、逆に怖いくらい。
私は、窓の外からゆっくりと身を乗り出した。
下には中庭、その先には見慣れた白い石畳の小道。
昼間は侍女や衛兵たちが忙しなく行き交っている場所だけど、今はひっそりとしている。人の気配はない。
「ふぅ……」
息を整える。
逃げると決めた時点で、心は軽くなった。だけど、体はまだ緊張していた。
この城で育ち、この城で“皇女”として生きてきた私にとって、ここを出るということは――初めて世界の外に触れる、ということだった。
ほんの少し、足がすくんだ。
でも、もう戻る理由なんて、どこにもない。
私はマントのフードをかぶり、魔力を指先に集める。
「気配遮断」。私が独自に調整して完成させた、実に地味で便利な魔法。
「……発動」
ぽつんと呟くと、足元の空気がわずかに震える。
音を消し、気配を薄め、光を吸収する。
城の者たちはこの魔法の存在を知らない。もちろん、“皇女”がそんな魔術を使えるなんて、誰も思っていない。
だからこそ、これは私のための魔法だ。
私はそっと床に足を下ろし、静かに、静かに窓枠をまたいだ。
音はしない。風の音と、遠くの鐘の音が聞こえるだけ。
――と、そのとき。
「……アリシア様?」
ビクリと背中が跳ねた。
振り返ると、部屋の入り口に細い影。
蝋燭を手にした、リュミエールがいた。
その顔に驚きはなかった。ただ、少しだけ――ほんの少しだけ、悲しそうな目をしていた。
「まさか、本当に行かれるとは思いませんでした」
「……ごめん」
言葉が勝手にこぼれた。
後ろめたさと、見つかってしまったという焦りと、ほんの少しの……寂しさ。
でも、リュミエールはそれを咎めたりはしなかった。蝋燭を窓辺の棚に置いて、そっとこちらに歩いてくる。
「止めません。私は侍従であって、監視役ではありませんから」
「……ありがとう」
「でも、せめて、ひとつだけ。お聞かせください」
彼女は足を止め、少しだけ目を伏せた。
「どうして、今夜だったのですか?」
どうして、今夜――
その言葉は、予想していたのに、胸にずしりと響いた。
どうして? って、思う。
何年も、ずっと耐えてきたのに。
皇女として振る舞ってきたのに。
なぜ今なのかと聞かれれば、きっと答えは、たったひとつしかない。
「……今日、気づいちゃったの。これまでの努力も、我慢も……無駄だったんだなって」
私はそっと笑った。皮肉でも、強がりでもなく、本当に、少しだけ。
「だから、やめたの。全部。もう……疲れたの」
リュミエールは何も言わなかった。
でも、その目が、私の全てを受け止めてくれているような気がして、少しだけ泣きそうになった。
けれど、涙は流さなかった。
もう、泣くのはやめた。
私は今夜、初めて自分の足で、自分の道を選ぶんだから。
「……気をつけて。森には、魔物が出ます」
「知ってる。でも……魔物より、王宮のほうが怖いって思っちゃったんだよね」
私は最後に、彼女の前髪をふわっと撫でた。
ずっと支えてくれた、唯一の味方。
「ありがとう、リュミエール。私、少しだけ自由になるね」
リュミエールは微笑んで、小さく頭を下げた。
「いってらっしゃいませ、アリシア様」
私は再び窓枠をまたぎ、月の光の中へと足を踏み出した。
――もう、振り返らない。
⸻
夜の庭は、昼とまるで別物だった。
濃い影。夜露に濡れる花。遠くで鳴く夜鳥。
すべてが、私にとって“新しい世界”に見えた。
まるで物語の中に入り込んだような不思議な気持ち。
「ふふっ……なんだか、冒険の始まりみたい」
誰にも聞こえないように呟いて、私は歩き出す。
城壁の影を縫って、裏門へ。
そこは夜間は閉ざされているけれど、魔法で開けることは簡単だった。
私は皇女であり、魔法の天才。けれど、その力を使えるのは、今夜が初めてだったかもしれない。
「……ああ、そうか」
門を抜けた瞬間、私はようやく“わかった”。
私は、もう――自由なんだ。
⸻
月明かりの下、私は王城をあとにした。
足元の道は暗く、誰もいない。
風が吹いて、草がそよぐ。遠くに森の影が揺れていた。
その森のどこかに、まだ見ぬ世界がある。
誰にも命令されず、笑って、寝転んで、モフモフできる世界が。
私は歩きながら、そっと呟いた。
「……あー、もふもふしたい」
それが、皇女アリシアの最初の“野望”だった。
そして、世界を変えるほんの小さな一歩。
夜道を歩くのは、初めてだった。
誰の目もない場所を、ただ一人で。
道なき道を、行き先も決めずに。
「……寒い」
ぼそりと口に出すと、自分の声がやけに大きく感じられた。
王城の分厚い石の壁に囲まれていたときは、何を言っても響かなかったのに。
今は、風の音さえも、私の言葉を拾っていく。
マントの裾をぎゅっと掴んで、フードを深く被る。
街灯なんて、この辺りにはない。
足元は、月明かりだけが頼りだった。
この道をまっすぐ北に進めば、“エリュシオンの森”にたどり着く。
国の記録では“立ち入り禁止区域”で、魔物の巣窟として恐れられている場所。
けれど私にとっては、そこが唯一の“行きたい場所”だった。
誰も追ってこない。
誰も命令しない。
誰にも、名前を呼ばれない。
「それって……贅沢なことだったんだね」
王宮では、名を呼ばれるたびに、“自分ではない何か”を演じなければならなかった。
高潔な第五皇女。静かなる知性。冷静沈着な審判者。
ほんとは、どれも私じゃない。
私はただ、静かに眠って、起きて、食べて、笑って。
ふわふわの毛玉を抱いて、甘いお茶を飲んでいたいだけだった。
なのに、それすら許されなかった。
それが“選ばれし皇女”の宿命だって、誰もが言った。
でも、もういい。
そんな“宿命”なら、私は喜んで捨てる。
「私の人生は……これからは、私のものだもん」
そう言ってみたら、ちょっとだけ照れくさくなった。
でも、不思議と胸がすっと軽くなる。
誰かの期待に応えるためじゃない。
自分のために、自分の人生を歩き始める。
夜の空気は、甘く、少し冷たい。
草の匂い。湿った土の匂い。時々混じる、花の香り。
王宮の香水や薔薇とは、全然違う。
でも、なぜか安心する匂いだった。
私は一歩一歩、ゆっくりと進んでいく。
足元の草を踏む音すらも、自分の存在を教えてくれている気がした。
⸻
森の輪郭が、見えてきたのは、それからしばらく歩いたあとだった。
月に照らされた木々の影が、地面を濃く染めている。
風に揺れる葉の音。梢が軋む低い音。遠くで鳥が一度だけ鳴いた。
境界線は、意外なほど、あっけなく現れた。
石でできた古い標識と、苔むしたロープ。
それをまたいだ先に、木々が生い茂っている。
私は標識の前で立ち止まり、しばらく森を見つめた。
“これより先、王国の管轄外。進入禁止。”
文字は掠れていて、ほとんど読めなかったけれど、その意味はわかる。
「……うん、知ってる」
私はロープの前に足を伸ばし、ほんの少しだけためらって――
そっと、またいだ。
それだけで、世界が変わったような気がした。
空気の密度が違う。音の響きが違う。
森の中は、まるで生き物の体内のように、静かに、確かに息づいていた。
魔力の気配も、感じる。
人の作った場所ではない、“自然”の魔力。強く、でも穏やかな力が、空気に混じって漂っている。
「……すごいな」
思わずつぶやいた。
誰にも聞こえない。でも、それでいい。
私はただの女の子になって、知らない世界に一歩足を踏み入れた。
「はじめまして。森さん」
足元の土を踏みしめながら、そっと挨拶する。
森は何も答えないけれど――でも、どこかで、微笑まれているような気がした。
⸻
その夜、私は森の中を、ずっと歩いていた。
どこに行くかは決めていない。
寝床もないし、食べ物もない。
でも、不思議と不安ではなかった。
何かが、私を呼んでいる気がする。
この森のどこかに、“出会うべき何か”が待っている。
それだけを頼りに、私は歩いた。
ときおり、木の間から月明かりがこぼれる。
風が頬を撫で、遠くで枝が折れる音がした。
足音を消して、動いている何かの気配。
魔物かもしれない。でも、怖くはなかった。
むしろ――期待している自分がいた。
だって、もしそれがモフモフだったら?
「……だったら、絶対仲良くなる」
そう心の中で誓いながら、私は森の奥へと歩いていった。
この先に何があるのか、私はまだ何も知らない。
でも、それでもいいと思えた。
私は今、たった一人の旅人として――はじめて、自分の人生を歩いているのだから。