第一話:上品な仮面と、ぐうたらな本音
王宮の朝は静かに始まる。
静かで、厳かで、息苦しい。まるで儀式のような一日が、毎日繰り返されている。
「アリシア殿下、本日のご予定ですが――」
朝食の前、執務室にて。
扉を開けて入ってきたのは、私の侍従であるリュミエール。彼女は私にとって、ただひとり“本当の顔”を知る人物でもある。
私は椅子に座ったまま、目だけで彼女を見る。
口は閉じたまま、まっすぐな視線で。無表情、無言、でも感じよく。
「まずは第九会議室にて、経済評議会の定例報告を。その後、外交資料の確認。そして午後からは、帝都学術院の代表者とお茶会形式の懇談を。夜は……」
「……リュミエール」
「はい」
「私、まだ死んでないわよね?」
「……存命です。お美しく、そしてお元気に見えます、殿下」
「なら、なんで毎日が仏壇みたいに堅苦しいのかしらねぇ……」
ふぅ、と小さくため息をつく。
気を抜いた声が漏れてしまったけど、ここには彼女しかいないからいい。
部屋の外では、まだ「聡明で高貴な第五皇女」アリシアが仮面をかぶって座っていることになっている。
「……今日も全部こなさなきゃ、ダメ?」
「ええ。皇女として振る舞われる限りは、手は抜けません」
「……もふもふ……」
「何ですか」
「もふもふさせて……お願い……」
「おやめください、まだ朝です」
私は椅子に深く沈みこみながら、恨めしそうに天井を見上げる。
上品な皇女の仮面は、誰も見ていないところでだけ剥がせる。私は、誰かの理想像を生きているだけで、本当は――
ぐうたらが好き。
お菓子が好き。
柔らかくてあたたかくて、ふわふわした生き物が大好き。
それだけで十分なのに。
それ以上の“何か”を期待されていることが、ずっと、息苦しかった。
⸻
「アリシア殿下の提案は、先日の法案にもとづくものかと」
「ふむ……やはり貴族院における発言力は、第五皇女の方が上だな」
「ご静粛に。殿下はお言葉が少ないのです。静かなる威厳こそが、真の皇位継承者の資質というものでしょう」
(しゃべらないだけなのにね)
会議室で交わされる貴族たちの言葉を、私はただ聞いている。
そう、聞いている“だけ”。
意見は言わない。表情も変えない。ただ、誰よりも整った姿勢で、静かに微笑む。それだけで、評価されてしまう。
この王宮において、「黙っている女」は最も“都合がいい”。
(でも、本当の私は――)
心の中ではツッコミを入れている。
(ていうかさ、この法案。農地改革の皮をかぶった利権拡大案でしょ? なにそれ堂々と出してくんの図太いなあ、ほんと)
でも、顔には出さない。誰にも見せない。それが、私の“仕事”。
政治も、会議も、血縁も。全部“仮面の世界”。
その仮面を、母はよく褒めてくれた。
「アリシアは、皇帝の器よ」って。
いつも、私の努力を当然のように受け止めていた。
でも、私は――一度だって、それを“望んだことはない”。
⸻
夜、私はようやく部屋に戻り、ドレスを脱いで寝巻きに着替える。
姿見に映る自分の顔は、少し疲れて見えた。
「……私、今日、何かをしたのかな」
問いかけても、答える者はいない。
会議に出て、資料に目を通して、笑って、頷いて、それで終わり。誰かの言葉で一日が終わる。
自分の言葉では、何も始まらない。
(私の“意志”って、どこにあるんだろう)
机の上に、古びた羊皮紙が一枚。
母が残した“遺書”。
『あなたは皇帝になるのよ。私の誇りよ、アリシア』
その文字を見て、私はふと手を伸ばした。
何度も読んだ。内容は暗記している。
でも――なんとなく、その夜は、読まずにいられなかった。
「……ほんと、意地悪ね。お母様って」
私はそう呟いて、羊皮紙を持ち上げた。
蝋燭の火がゆらゆらと揺れ、部屋に淡い明かりを投げている。
その火が――偶然にも、羊皮紙の端に落ちた。
「あっ……!」
思わず手で叩いて火を払おうとしたけれど、火は燃え広がることなく――光に変わった。
羊皮紙の表面に、青白い光が走る。
そして、浮かび上がる“別の文字”。
『さて、これを読んでる頃には私もあの世かしら? ごめんね、アリシア。言ってなかったけど、実は――』
「……は?」
目が、文字を追う。
『お父様以外にも、ちょっと……ね? まぁ、楽しかったのよ、いろいろ』
「はああああああああああ!?」
私は羊皮紙を机に叩きつけた。
なにそれ!?!?!?!?!?!?!?
この数年、母の言葉に縛られて、私はずっと頑張ってきたのに!?
寝る間も惜しんで政策考えて、貴族と笑顔で握手して、その裏で胃薬飲んで、モフモフ欲を抑えてたのに!!!
なんで今さら「いろいろあった」って!?!?!?
「もう、やだ……! 無理! やってられない!!」
私はその夜、泣きそうになりながら、部屋を飛び出した。
たった一通の手紙が、私を――“皇女”という檻から解き放った。