泉鏡花『白鷺』と映画『白鷺』
そのうち観ておきたいと思っていた映画『白鷺』(1941)だけれど、パブリックドメインになっていて、画質が悪いのは承知の上で、Youtubeに上がっている擬似カラー、再編集版が比較的ましだったので、ありがたく視聴しました。
1941年(昭和16年)の東宝映画。監督は島津保次郎。島津監督のことは、トーキー初期の名監督ということ以外は、不勉強で詳しくは知らない。ただし、鏡花の弟子といってもいい久保田万太郎がセリフを書き、鏡花の単行本の装丁を数多く手がけた小村雪岱が美術考証をしているとなると、鏡花小説を読むうえでは必見の映画だといえる。とくに、視覚面での美意識を鏡花と共有する雪岱の名前がそこにあるというのは、文字で書かれた場面が実際はこうであったという保証書がついているようなもので、他のどの作品よりも参考になりそうだ。鏡花は昭和14年(1939年)9月没、雪岱は昭和15年(1940年)10月没なので、鏡花没後すぐに最晩年の雪岱が引き受けた仕事だったのだろう。
美術考証という仕事が、今でいう美術監督の範疇に及んだのか、それとも美術品に対してだけなのかはわからないが、少なくとも当時の画壇の様子や画家の仕事については、実際に近いものが再現されていると思われる。
鏡花読者にとっては、尾崎紅葉のペンネームの由来になった高級料亭、紅葉館だとか、客が芸者と遊ぶ待合や、当時のフランス料理レストランが登場したり、あるいは読んでもよくわからない懐中絵具、鉄如意、炭団の絵といった小物の実物を目にすることができるのが嬉しい。一方で映画作品としては、庶民生活をリアルに描くことを得意としたこの監督の持ち味からすると、原作の夢幻的な描写は木に竹を接ぐ感があって、本領発揮の場だったとは思えない。しかし、人混みのなかをヒロインにドリー・インするようなショットもあるほど、現在普通に目にするような映像の文法はほとんど出そろっている。画質音質以外の古さを感じさせないのはさすがだ。
公開時よりも短い再編集版なのは残念。しかし、そもそも人物設定自体が簡略化されて、出来事が時系列に整理されているので、原作どおりを望むべくもない。そのあたりのメディアの違いを久保田万太郎はよくわかっていて、原作を咀嚼した平明なセリフに上手くリライトしている。
ヒロインを演じる入江たか子が、いくぶん偏執的な役柄にぴったりで印象鮮烈だった。当時の女性らしくもありながら、ちょっと不思議ちゃん的な魅力である。入江たか子の化け猫映画は大好きで全部観たけれど、なるほど本作の幽霊の演技が、のちの化け猫映画スターの伏線だったのか。
○
さて鏡花の原作はというと、文学史のエピソードとしては金策に窮していた鏡花に、夏目漱石が新聞連載の機会を提供した美談が有名で、新聞連載小説らしい風俗的な内容と、漱石の期待に応える小説的な充実を兼ね備えている。具体的にいうと、内容は三面記事の話題にもなりそうなもので、文章も鏡花にしてはわかりやすいのだけれど、語り口は懲りに凝っている。弟が姉に、姉の夫の画家と、芸者小篠の馴れ初めから死別までを語って聞かせる枠物語の形式で、その枠の中身がシャッフルされたパズルのピースのようなっている。読者は、あちらこちらから断片的に与えられるエピソードをつなぎ合わせて、自分なりの物語を再構成するしかない。
ちなみに、原作の各章の内容を時系列に並べ直してみると、こんな感じになる。
【小説の章立て】
① 濡桔梗
② 立姿
③ 女扇
④ 鷹の一軸
⑤ 銀砂子
⑥ 懐中絵具
⑦ 二階の癪
⑥ 懐中絵具
⑧ 流動物
⑨ 後朝
⑩ 薄い蝶々
⑪ 火の接吻
⑫ 両方電話
⑬ 食箋
⑭ 無念
⑮ 虫籠
⑯ 廻舞台
⑰ 迷の辻
⑱ なよ竹
【時系列の並べ替え】
※( )は、回想のなかの回想として章の一部で語られた内容。
(⑦) お篠の生い立ち。
(④) 伊達先生の仲人で弟子の順一とお稲が結婚。
(⑨) 伊達先生の女性人気のエピソード~吉原、電車車中。
(⑦) 実家が没落したお篠が女中になる。
(⑯) お鳥が五坂の出資で、待合・於登利の主婦になる。
⑥ 伊達先生の三周忌の紅葉館で、お篠が順一に揮毫を頼む。
(⑤) 伊達とお篠の仲に芳町の芸者、和歌吉が割り入る。
(⑮) お篠は婚約を破談にした従兄弟与吉と再会する。
⑤ 金杯受賞の祝宴の席、待合・砂子で、順一がお篠と会う。
(⑭) 五坂は小篠を脅迫まがいの手段で口説いていた。
⑧ 順一が津川と二度目の砂子での対面。お篠はまだ女中。
⑨ ⑧の続き。順一が⑥以前の伊達先生のエピソードを話す。
⑩ ⑨の後日、お篠が順一の家を訪問。私(孝)が初めてお篠と会う。
(⑩) お篠は女中をやめて実家に戻っている。
⑪ ⑩から目白の停車場まで見送るお篠の帰り道。
(⑪) 後に語られた⑪のときのお篠の心境。
(⑮) お篠が芸者になったいきさつ。従兄弟与吉の借金の証文に判を捺す。
(⑧) お篠が芸者小篠になる。
(⑭) 順一は絵の仕事を依頼された五坂に恥辱を受けた。
⑫ 私が、芸者になって待合・於登利に出ていたお篠と再会。
(⑫) 私は兄に知らせて、於登利に連れてくる。
(⑫) 小篠と会う約束をした順一が自動電話に閉じこめられる。
⑬ ⑫の続き。待ち合わせに遅れた順一が、南鍋町の風月に行く。
⑭ 食堂で出会った夫人は、順一とも因縁のある五坂だった。
⑮ ⑭の続きの於登利。小篠が⑪と⑫の間に芸者になったいきさつを語る。
[小篠は従兄弟の与吉と婚約していたが、伊達先生に惹かれて破談にしたため、与吉の親から借金を請求されて女中になる。その後、小篠は砂子で、零落した与吉に再会し、借金の証文に判を迫られる。その直後が⑤につながる。]
④ 私(孝)が於登利を訪ねると、二階に順一とお篠がいる。
⑦ 上の続きと⑥以前からのお篠の生い立ち。
⑯ 五坂が来て、順一が於登利を出る。小篠は裏口から逃げだす。
⑰ 雛子が孝に、於登利と五坂の関係、小篠の借金のことを話す。
(⑰) 裏口から逃げた小篠が順一と会う。
(⑰) 辻で立ち話。さくらんぼの話。
(⑰) 小篠は箱屋に追い立てられて、置屋に戻る。
⑱ 翌日。順一が於登利を訪ね、絵を描きながら小篠を待つ。
二階で五坂に嬲られた小篠は鋏で喉を突いて自害する。
② 迎え盆の煙の中に、お篠の亡霊が姿を顕す。
① 語りの現在。迎え盆の準備をするお稲が体調を崩す。
③ 私(孝)が姉、お稲の看病をしながら、義兄とお篠の関係を語る。
(⑫) 看病の続き。
(⑯) そこまでの話に対するお稲の感想。
(⑱) 話を聞き終えたお稲の涙。お篠の亡霊の手を取る。
――読み返してみて、これで正しいのかどうか、自信が持てない(たぶん見落としがあるだろう)、唖然とするほど複雑怪奇な構成で、よくこんなものを新聞連載小説として読んで当時の人は理解できたものだと驚くのだが、それが可能なのも語られている内容が先読みのしやすい卑近な事件だからで、ちょうど私たちがあちこちで断片的な情報を耳にした芸能人のスキャンダルを、いつのまにかストーリーとして理解しているのと同じ感覚で、なんとなくするすると読めてしまう。
鏡花は、小篠という芸者の悲劇を描くと同時に、私たちがどのように物語を造りあげていくのかという、その過程をリアルに浮き彫りにしている。内容だけを取りあげれば旧弊で通俗的な物語なのだけれど、その語りにおいては、物語を書いて読ませるという行為のぎりぎりの境界線を狙っている。
鏡花が『白鷺』においてナラティブを極限まで意識した証拠となるセリフがある。物語の語り手である「私」(勝田孝)が、物語を語りながら、なんと、自分自身の消滅を独白するのだ。
「それ、二人、二人、影のやうに、霧のやうに二人で行く。……私はあつて、ないも同然。や、手から、裾から、……おや〳〵胸から、段々消える。ひとりでに消えるよ、あれ、えゝ、薄気味の悪い、自分で、少しづゝ見えなくなる。片足歩行くと、片足見えない。又片足が茫乎して来た。まあ、掌が分らない。……」(「火の接吻」三十四節)
実際は、夜道の先を歩く小篠と順一が二人だけの世界に埋没しているのを見て、あとを歩く孝が身の置き所がないとなげくセリフなのだけれど、ここまで具体的なイメージを伴って、かつ孝が語り手の「私」であることを意識すれば、これほど複雑で過不足ない、小説的な描写を語る「私」というのは、じつは肉体のない神の視点と同義なのだと、作者自身がナラティブの手の内を告白しているかのようにも読める。
こういう部分だけを取りだすと、まるで、主観が人間と非人間を行き来するホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』のようなラテン・アメリカの前衛小説のようで、そんな曲芸めいたことをストーリーの必然性に逆らわずにさらりとやってしまうのが、いかにも鏡花らしい。
いつものことではあるが、やはり鏡花は通俗にして前衛なのだった。