可視化された愛
私には愛が見える。どうして私には見えるかは分からない。けれどあるときから自分には見えるのだと理解した。
私は親に愛されては居なかった。何故か分からないけど子どもってものは両親からの愛情に飢える生き物らしく、私にとって愛されていないことはものすごく辛いことだった。私の周りの子どもたちは、親から愛を受け取っていて、それを見ているとなおさら苦しかった。私の両親は欲しいものは大抵買ってくれたし、行きたい場所にも連れてってくれた。けれど愛することだけは、ずっと、してくれなかった。いつか愛してくれるだろうと、いつか愛が見えるだろうと、そう期待して生きてきたけど、もう既に父も母も死んでいる。私がほんとうに求めているものはもらえないままだった。
愛には2種類あった。まず、精神的な愛。みんながいう、無償の愛。もう1つは生物的な愛。つまり子孫繁栄をするための、生き物としての根本的なシステムとしての愛。精神的な愛はあまり多くはなくて、世の中に見える愛のほとんどは生物的な愛だった。人間は知性があり、感情を持つ種族だから、「愛」なんていう崇高なものを持っているのだと錯覚しているように、私からは見える。だが実際には、愛はほとんどの場合、ただの存続のための仕組みに過ぎなかった。
あらきさん、俺と付き合ってほしい。大学生の頃、私に人生最初で最後の彼氏ができた。名前はいぶきくん。彼は私に、愛をたくさんくれた。生物的な愛を。彼はいつも笑顔で、マメに連絡をしてくれて、親切な人だった。でも、会うたびにセックスをしていて、私はただそれに流されていた。私を求めてくれることへの嬉しさがある反面、自分が人類を存続するための一つの個体でしかないことに虚無感を抱いていた。いぶきくんの前でなら、女の子でいられると思っていたのに。いつか愛されると信じていたのに。でも、彼も私をほんとうに愛してはくれなかった。身体を重ねれば重ねるほど、冷たい空気が胸のあたりを通り抜けるような悲しさが溜まっていった。
付き合って何年か経つと私の身体に飽きてきたのか、セックスの頻度は減っていった。生物的に愛してくれることさえしてくれなくなっていた。どこに愛はあるの。どこに見えるの。私がいくらそのことで悩んでも、愛は見つからない。彼といるとかえって自分の無価値さが際立つようだった。だから、いぶきくんとは社会人になったくらいでお別れをした。
私には愛が見える──けれど、自分に向けられた愛を見たことはない。私は愛される価値の無い人間だったのかもしれない。月明かりが浅く差す天井を見つめる。もうベッドから起き上がることもできない。なにもできない。私はなんのために生きていたんだろう。私は一体何者だったんだろう。誰にも看取られることなく、誰からも愛されることがなく、私はこのまま死ぬのだろうか。




