夜色
頬をなぜるしめやかな風がこころよい。
店へ入る以前は春もだいぶ進んだとはいえ、薄い湿り気に微かな苛立ちさえ覚えていたのを由里子は今更のように心づいた。すでに夜気が深まりつつあるのだろう。
由里子は帰りがけに夕食をしたためた店先を背に歩みながら、煌々と色づき立ち現れる店舗の明かりに淡く照らされるうち、細い十字路を右に折れると共に賑わいは早くも途絶えて、小さく弱々しい灯台のごとく点々とそこかしこに灯火を点ずる外灯に心寂しくも温かなこころを誘い出されるばかり。
さわやかな微風が生成色に黒の水玉をあしらった丈の長いスカートをひらひらとゆらして、やわらかな裾をふわふわはためかせる。
仰向くと暮れきった夜空には薄暗い雲がぷかぷか浮いていて、ほの明るくも星ひとつ見えないのは電灯が溢れているせいか。
俯くと日中は埃にまみれて色褪せたアスファルトも穏やかな鉛色に返っている。
涼しく静謐な夜気におのずと誘われてか、昼間は日かげにぐったり涼を取っているだろう華奢な白黒のぶち猫が一匹、由里子のそばをちょこちょこすり抜けながら、ふと足をとめて首をめぐらし、ぴんと小耳を立てつつ、折からそそがれる電灯にパッと照らされたまま大きい丸い瞳でじっとこなたを見つめるかと思うと、ぷいと首を返して脇目もふらず狭い道路をちょろちょろ横断し、そのまま素早く駆けるうち再びぴたりとこちらを見返るや否や、ひらりとしなやかに身を翻して立ち並ぶ家屋の隙間へとふっと消えた。
愛らしいその姿態を見失うと共に、由里子はぱたぱた急ぎ足にその方へ歩いて行き、そっと覗くと、奥深くすらりと伸びているらしい真っ暗闇に猫の目は光らず、麗しい鳴き声も聞こえない。
しゃがみこんで両手に頬をつつみながら、今一度こちらへ姿をあらわすのをふわりと期待するまま打ち眺めるうち、びくりと横合いから静けさを破る人声が耳を打つがままゆっくり立ち上がってちらとその方を窺うと、いまだ遠くから近づきつつある二人連れの片方があたりかまわず高笑いしたものらしい。
鉢合わせるのも嫌であるし、名残惜しくもこのまま佇んでもいられず、由里子は後ろ髪をひかれながらもその場をはなれてすたすた歩み丁字路を左に曲がると、折から強まった風に歩道のわきに立ち続く木々が一斉に揺れて、それにつれて足元の樹影もざわざわと振り乱れる。
たちまちふっと風が止んだかと思うと、一転、背後から忙し気に轟音をがなり立てつつ迫り来るオートバイの怒声が響き渡り、思わず耳をおさえて目をつぶった由里子を快速で抜き去りながら、瞬く間に遥か遠くへと走り去ってゆく。
呆然としながら、早くも静謐へと返った歩道で、道なりに見上げた彼方の空には、青白い月が煌々と照り渡り、その周りはすこやかに透きとおって雲一つない。
後ろ手に佇んだまま、ほっと心を落ち着けた由里子の頬を涼やかな夜気がさわやかになぜた。
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